第6話

「イリニ…… イリニ……」


 遠くの方で、誰かが名前を呼ぶ。

 目に映るのは、一面の白。身体はなんだかふわふわする。


「イリニが勇者? やめとけやめとけ、そんな変な事。畑を耕してる方が数万倍楽しいぞ?」


 前方から声が聞こえた。それと同時に、目の前の白に周りから色が付き、形が現れていく。

 畑の真ん中。そして、目の前には一人の男が立っていた。随分と上背うわぜいがある。


 男は地面から生えていた植物の茎の根本部分を、思い切り引っ張り上げる。地中から現れたのは、根っこにいくつも連なったジャガイモだ。


「お、この芋、よく見たらセクシーな女の脚にも見えるな。折角だし、これは父さんの部屋に飾っておこう」


 男は芋を一つ外すと、大事そうにポケットにしまった。

 ようやく思い至った。彼は自分の父である、ロイ・エーナスだ。


「全っ然、楽しくない! いっつもそんなくだらない事してばっかり! そもそも、農夫なんてカッコ良くないし! 俺は勇者になって、悪い魔族たちをやっつけたいんだ!」


 幼い自分の声だ。それが自分の意思に反して、勝手に言葉を紡ぐ。


「あのな、そんな簡単に言うが、勇者は色んな危険と常に隣り合わせなんだぞ? それに、畑仕事ってのは、他人の命を繋ぐ上で重要なものだ。カッコ悪くなんてない」


 元来農家を営んでいたというロイは、この仕事に誇りを持っているようだった。


「わ、わかってるよ…… でも、ずっと畑見てるだけなんて嫌だ。色んな場所に行って、色んな景色を見てみたいし……」


 ちょっと間が空く。さすがに怒られるだろうか。


「そんなに勇者になりたいなら、別に構わん。だが、それは父さんとの約束が守れると自信を持って言えるようになってからだ」

「約束?」

「ああ、そうだ。まず一つ。もし、お前に仲間ができたらーー」


 急に声が途絶える。


「イリ二、起きろ!」


 代わりに、今度はすぐ耳元ではっきりと声が聞こえた。

 重たい目蓋に力を入れると、辛うじて映った視界の中に、ぼんやりとした一つの人影が現れる。


「あれ、父さん?」

「開口一番、俺の心臓を止める気か…… もうすぐ馬車が来る時間だ。準備を始めよう」


 その言葉は空風となって、頭の中にかかるかすみをキレイさっぱり吹き飛ばしていった。ブレットに手を引かれ、イリニはようやく気怠い身体を起こす。

 随分昔の夢を見たものだ。あれは彼が勇者になる前だから、十歳くらいだろうか。


 底冷えのする朝だった。空気がピリピリとしていて、なんだか無性に落ち着かない。深呼吸すると、冷たい空気が肺の中を撫でる。それが不快でならない。

 ブレットも似たような気持ちなのか、室内を忙しくなく歩き回っている。


 今日の結果如何によって、長い長い穴蔵生活が終わるか、はたまた地中に埋葬されるかが決まるのだ。首尾よく行けば、また昔のような気楽な日々に戻れるかもしれない。

 期待と不安。相反する二者が胸の中に混在しているのが、この気持ち悪さの原因だ。


「ブレット」

「ど、どうした?」

「絶対にここから脱出しよう」


 ブレットは口をぽかんと開ける。それから、「ああ」と強く頷いた。


「さて、そろそろ魔王の娘も起こしてやるか。また、騒がしくなるかもしれないけど」

「いや、その必要はない」


 今度はイリニが唖然とする番であった。見てみると、ブレットは何か思い詰めた顔をして、地面をにらんでいる。


「昨日も言ったじゃないか。三人で逃げるんだ。この子も一緒に連れて行く。大丈夫、ヘマしないように俺がちゃんと見てるから」

「いいや。その子はどうせ起きない」


 その強張った声に、イリニは嫌な予感を覚えた。彼は眉根を寄せてブレットを見る。


「何かしたのか…… ?」


 ブレットは何も答えない。

 まさか。イリニは横になっている少女の元へ急行する。


 しかし、予想に反して、彼女はすやすやと眠っているようだった。呼吸の仕方も正常そうだし、傷という傷も見当たらない。

 てっきりブレットがやけを起こして、何か危害を加えたのかと思ったのだが。取り越し苦労だったのか。


「起きてくれ、魔王の娘。もうそろそろ時間だぞ」


 少女はうんともすんとも言わない。ただ、微かな寝息が聞こえてくるだけだ。


「魔王の娘…… ?」


 軽く肩を揺さぶってみる。しかし、やはり起きる気配はない。不自然なほど無反応だ。


「安心してくれ、死ぬ事はない。だが、少なくとも今日の昼ごろまでは、ろくに動けないだろう」


 背後にいるブレットから暗い声がかかる。それは自分の罪を白状しているようなものだった。


「まさか、睡眠草…… ?」

「悪く思わないでくれ。これは仕方ない事なんだ」


 イリニは立ち上がると、憤然とブレットに詰め寄った。


「どうしてだ、ブレット…… ここに残しておくなんて、そんなの死ぬのと同じじゃないか!」

「聞いてくれ、イリニ。そもそも、元は荷台には俺一人が乗る予定だったんだ。前に一度予行をしたことがある。中は荷物で一杯だから、乗れるのはどう頑張っても二人が限界だ」

「え…… それじゃあ……」

「ああ。誰か一人はここに残る必要がある」


 初めて聞いた衝撃的な事実。イリニは息を吸うのも忘れて、その場に立ちすくんでいた。


「なあイリニ、なぜそこまで気にかける。こいつは魔族だぞ? 君はあれだけ魔族に復讐したがってたじゃないか」

「そうだけど…… !」

「なら、そんな奴がどうなったって、俺たちの知ったことじゃない。違うか?」


 ブレットはさとすように声を和らげる。さすがにこの説明なら納得してもらえるというような、安堵も含まれているようだった。

 しかし、イリニの導き出した答えは、その期待にそぐわないものであった。彼はブレットを見据える。


「ブレット。俺の代わりに、この子を連れて行ってくれ」

「イリニ…… ! 君はーー」

「もう俺は勇者なんかじゃない。魔王の娘は仲間だ。これ以上仲間に死んで欲しくない。あんな辛い思いはしたくないんだ!」


 イリニは深く頭を下げた。


「頼む、この子を一緒に連れて行ってあげてくれ」

「そんな事はできない! 君はどうする! ここに残ったら確実に死ぬことになるぞ!」

「牢屋が破壊されるなんて偶然がなければ、俺は死ぬ運命だった。それが元の軌道に戻るだけだ」


 ブレットはこちらの本心を見定めるように目を細めてくる。危うくイリニは平静で塗り固めた表情が崩れそうになった。

 これは単なる虚勢だ。イリニだって死にたくはない。しかし、今の彼にとって自らの命は、少女の尊い命にかないと。そう考えていた。


 なぜそこまで少女へ熱情を注いでいるのか。

 昨日屋根を転がる彼女を、二年前の仲間の光景と重ねてしまった事がその一端にある。だが、それ以上に、同病相哀れむとでも言うのか。彼女の開陳したネクラへの怒りは、その仲間意識を強くさせた。


「嫌だと言ったら?」

「その時は、魔王の娘と一緒に、俺もここに残る」


 毅然きぜんとした態度でイリニは言ってのけた。覚悟はできている。

 対するブレットは心底呆れ返ったような顔をした。

 嫌な沈黙が流れる。


「くそっ!」という大声と共に、ふいにブレットは地面を強く踏み鳴らした。かと思うと、ぐるりと身体を回転させ、梯子の方へとどしどし進み始める。


「ブレット、どこへ…… ?」

「決まってるだろ! 解毒薬を取ってくるんだ!」


 すごい剣幕で怒鳴られたので、イリニは最初言葉の意味を理解できなかった。それで数秒、返答に遅れた。


「解毒薬って…… え?」

「せっかく完璧な方法を考えたのに、君のせいで台無しになるかもしれない! いつもそうだ! 君が無茶な事を言うせいで、どれだけ振り回されたと思ってる!」

「す、すみません……」


 イリニはブレットの背に向かって頭を下げる。こんな説教を受けたのは久しぶりだ。

 肩を怒らせて歩いていくブレットだったが、梯子の前に来ると、ふいに足を止めた。それから棒立ちになり、何やら足元に顔を下げている。


「まったく、相変わらずイリニは世話が焼けるよ。だが…… それをどうにか取り計らうのが昔からの俺の役目だったな」

「ブレット……」

「俺はまだ、君の勇者パーティーを辞めた覚えはない。またいつか、みんなでーー」


 ブレットの声が大きな音にかき消される。二人の間の天井が崩れ去った。

 イリニは咄嗟に少女の上に被さり、落石が当たらないようにする。幸い、彼らのいる場所には何も落ちてこなかった。しかし、粉塵が巻き上がり、咳が止まらなくなる。


「ブレット! 大丈夫か!?」

「ふーん。こんな隠し部屋があったなんてね」


 ブレットの声ではない。陽気そうな女の声だ。

 

 徐々に砂煙が治まっていく。積もった瓦礫の上に立つ、そのシルエットが鮮明になっていく。後ろで一本に結われたシルバーアッシュの髪、クールな感じの少女鋭い目。

 それは思わぬ形での再会であった。


「お前…… フリージア…… !?」

「久しぶり、イリニ。クッキーでも食べる?」


 フリージアはニヤリと笑って、片手に持ったクッキーを差し出してきた。

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