第5話
「あれ、私……」
少女が再び目を覚ましたのは、あれから三十分ほど経った頃だった。
「おはよう。よく眠れたか?」
少女の枕元にあぐらをかいていたイリニは、できるだけ気さくに呼びかける。彼女の眠たげな目がこちらを向く。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ! 人間無理ーー」
「もうその流れはさっきやったから省こう」
「う、うるさい…… しょうがないでしょ、びっくりしたんだから……」
少女は恥ずかしそうに頬を赤らめ、口を強く結んだ。
改めて見ると、宝石をはめ込んだような、赤い大きな瞳だった。吊り上がった目尻は、全体的に幼い顔立ちに強気な印象を添えている。歳はおそらくイリニと同じくらい。
本当にこれがあの憎き魔王の子どもなのだろうか。どうも信じることができない。
「それで、私をどうするつもり?」
「そんなに警戒しなくても大丈夫。俺は君とちゃんと話がしたいだけだ」
「なにが話よ。太陽の民の言うことなんて信用できない」
少女はぷいと顔を背ける。まだ信頼されていないらしい。
だが、先ほどまでの敵意は鳴りを潜めているようだった。もうそれだけの気力が残っていないのかもしれない。
「太陽の民か…… なあ、君は本当に魔族ーー 月の民なのか? 魔王の娘とか言っていたけど」
「そうよ。この角と尻尾を見てわからない?」
少女は重量のありそうな尻尾を、自由自在にくねくねさせる。そして、ちょっと得意顔になってる。なんだか憎めない奴だ。
「確かに、そんなの俺たちにはついてないけど…… それにしても、すごいなそれ。どうやって動いてるんだ?」
「ふふん。あなたたちには到底できない事よ」
彼女の調子が良いことにあやかって、イリニは後ろに回り込み尻尾の観察を始める。こういう珍しい現象に、好奇心がくすぐられたのだ。
竜のような尻尾。黒い鱗が、遠くのランタンの灯りを鈍く返している。
そして、尻尾の根本まで視線を動かしていった時、彼はある衝撃的な光景を目の当たりにした。覚えず固まってしまう。
「あ……」
「なによ」
「いや…… 落ち着いて聞いて欲しい。尻尾の下の方。ズボンが破けて、お尻の割れ目がほんのちょっとーー ぐぶっっ!」
右半身に強い衝撃が走ったかと思うと、イリニの身体は奥の壁に激突した。
「どこ見てんのよ! 信じられない! この変態の民!」
「変態の民は甘んじて受け入れるけど、尻尾はやめてくれ…… それ本当に死ぬから……」
言葉通り、しばらく立ち上がれないほど、イリニは頭がクラクラした。その間中ずっと、真っ白な二つの
彼はこの光景を一生涯忘れないだろう。
いつのまにか、少女は丸椅子に不自然なほど深く腰掛けていた。
「そういえば、その結晶も太陽の民にはないものだけど、それが月祈術とかいうのと関係しているのか?」
ようやく回復したイリニの視線は、今も少女の周りをゆったりと回る結晶に向いていた。その形は、見方によっては三日月に見える。結構綺麗だ。
「そう。私が願い事を注ぐと、この子が応えてくれるの。それが月祈術」
「願い事?」
「自分がしたい事を頭に思い浮かべるの。それを月の光の力で増大させて、この子に発動してもらう。それが月祈術」
少女の手のひらに、黒く丸い発光体が浮かび上がった。
否、発光しているのではない。その球体の周囲数十センチが暗くなり、それが光っていると錯覚を起こしているのだ。
「なんだこれ…… 周りの光を奪ってるのか…… ?」
「これが願い事。こんな事、太陽の民にはできないでしょ」
「ああ。これは俺たちにはできないよ。すごいな」
「そ、そうでしょ? 調子が良ければ、もっと大きいのも出せるけどね」
少女は嬉し恥ずかしいといった具合に、口元を
「じゃあ、それが月祈術ってやつの基礎になるわけだな。その点は虹陽術と似てるかもしれない」
そう言うと、イリニも手のひらを上に向ける。そして、同じくらいの大きさをした眩い球体を作り上げた。
「これが虹陽術の源だ。
この色というのが、赤、
因みに、赤は炎、橙は土、黄は雷、緑は風、青は水、藍はその他、の属性と関連している。この六色は主色、または主属性と呼ばれ、先天的に決定されるものであり、自分の色以外の虹陽術は使用できない。
この他、虹陽術には主色とは別に副次色というものがあり、そちらはどの色の人間でも扱う事ができる。
「ふーん」と、少女は懐かしい物でも見るようにそれをじっと眺めていた。
もっと適当にあしらわれるものだと思っていたのが。予想外の反応だったもので、イリニは少々戸惑ったほどだ。
「太陽と月みたい……」
自然に出た感想というよりは、誰かの言葉を復唱したような、抑揚のない言い方だった。
「あ、ああ。そうだな」
お互いその球体に興味が湧いて、二人の距離が徐々に狭まっていく。そして、黒と白、二つの球体の間が拳一個分ほどになった時。
「うわっ!?」
何かに手を引っ張られるような異様な感覚がして、イリニの身体が前のめりになる。
「な、なに!?」
同じような事が、少女の方でも起こっているらしかった。
球体を乗せた二人の手の先が触れた。
すると、どういうわけだろう。球体が手のひらを一人でに離れて、衝突したのだ。
二つの球体はやがて一つへと融合した。それは急速に縮んだかと思うと、刹那の後、今度は強烈な光を発し始める。そして、爆発的に膨張した。
「ぐっ!」
強大な衝撃の波にさらわれ、イリニは後方へ吹き飛ばされた。
壁に背中を激しくぶつけ、一瞬呼吸ができなくなる。近くに転がっていた丸椅子は、足の部分が真っ二つに折れていた。
「お、おい! そっちは大丈夫か!?」
咳き込みながら、イリニは砂ぼこりの向こうへ必死に呼びかける。
「うぅ…… なんとか……」
「良かった。無事ーー じゃなさそうだな……」
「あれ? どうなってるの、これ? 動けないんですけど! なんで!?」
イリニは何となく
少女は壁の側面に角を突っ込んでいたのだ。ちょうど腰を突き出すような姿勢で。左右に暴れ狂う尻尾の合間から、あの白い肌が見え隠れしていた。
「その突っ込み方を見るに、角が無かったら危なかったかも」
「そんな分析してないで、早く助けてよ! ていうか、お尻見るな!」
「見てませんよ」とイリニはどうにか彼女を壁から引っこ抜いてやった。
「何の騒ぎだ!?」
少しして、大慌てでブレットが梯子を降りてくる。
「悪い、ブレット。爆発した」
「ば、爆発!? 何が、どうして、どうやって!?」
「俺にもよくわからない」
「よくわからないって…… 家全体が軽く揺れたんだぞ?」
そんな威力があったのかと、イリニは内心驚愕していた。
無垢の陽光には、大した力はないはずだが。一体全体、さっきの現象は何だったのだろう。
「怪我はないのか?」
「どっちも大丈夫だ」
「そ、そうか…… それならいい。とりあえず食事にしよう。イリニもその様子だと、ろくな物を食べてないようだし」
その言葉はそっくりそのままブレットに当てはまることだ。
彼は片手に持っていた、鉄製のお盆を地面に置いた。ここには机がない。
「なにこれ」
「見ればわかるだろ。パンと野菜だ」
少女に対して、ブレットは素っ気ない対応だ。
「これで、三人分なのか…… ?」
横からイリニが指を指す。
盆に乗っていたのは、半分になった丸いパンと、
「この子にもあげる前提か。君らしいな。悪いが、今日配給されたのはこれだけだ」
「配給?」
「そう。一日に一度、ここの住民は配給所に行ってその日の分の食料をもらうんだ。朝の分は食べてしまったから、これは少し早い夕食だ」
「いや、でもこれ…… 一人分もないだろ。ネクラの国では、これが一般的な量なのか?」
「いいや。俺だけ特別待遇なのさ」
ブレットは自嘲気味に口の端を薄く伸ばした。
結局三人はそのごく少量の食物をどうにか分け合った。少女はちょっとの間
味はなく、あまり腹も満たされない。それでも、無いよりはマシだ。
「で、君は魔王の娘という話だが」
「だから、さっきからそうだって言ってるでしょ」
何遍も聞かれた問いに、少女もうんざりしているようだ。
「じゃあ、復讐というのはネクラのことで?」
「誰、そいつ」
「ネクラ・ロンリネス。魔王を討伐した張本人だよ」
イリニが補足してやる。すると、少女の表情が一変した。
「ネクラ…… ! そいつが父様を…… !」
歯を食いしばり、鬼気迫る表情をする少女。膝の上で握られた拳は、ぷるぷると震えていた。
そこからは、強い憎しみの念が渦巻いているのが、ひしひしと伝わってくる。
「まさか、そんな事も知らなかったのか? じゃあ、なぜネクラ国で騒ぎを?」
「転移門をくぐった先がここだったから、手始めに滅ぼしてやろうと思ったの」
「それって月の民が使う、冥界と聖界を繋ぐっていう……」
その転移門は、ネクラが初めて発見し、そこから冥界へ侵攻したという話を聞いたことがある。それまで存在自体が
「だがまあ、正直魔王は殺されて当然だろう」
周りの空気が一気に張り詰める。発言者であるブレットは、あっけらかんとした顔をしていた。
「あなた、今なんて…… !」
「魔族の手によって、これまでに何千の人間が死んだと思ってるんだ。俺の知り合いも、魔族に殺された。そんな奴ら殺されて当然だと言っているんだ」
「勝手な事言わないで! 父様はそんな事してない! 父様はもっと優しくて、争い事なんてーー」
「二人とも一旦落ち着いてくれ。要するに、俺たちの目的は一致してるわけだろ?」
こんがらがってきた話を、イリニが慌てて結論へと落とし込む。
「どういうことよ…… ?」
「実は俺たちもネクラには恨みがある。あいつに仲間の一人を殺された。その後、俺は二年間牢屋に、こっちのブレットは辛い生活を強いられていたんだ」
さすがにこの告白には、少女も目を丸くした。
「だから、ここは一時的に共闘しよう。国を抜け出すまでの間でいい。今日のことで、君一人じゃネクラたちに敵わないことは分かったはずだ。仲間は一人でも多い方がいいだろ?」
イリニは少女に向かって手を差し伸べる。彼女はしばらく彼の顔と手を交互に、
「…… わかった。国を出るまでだからね。あと、裏切ったりしたら許さないから」
「ああ」
こうして、魔王の娘と太陽の民が手を取り合う事が決定したのだ。
最後の最後まで、ブレットと彼女が握手することはなかった。
「ブレット。脱出の計画はあるのか?」
「ある。決行は明日の夜明け前。壁の外にいる哨戒隊に、馬車で食料を運び出す仕事を任された者がいる。彼の馬車に乗り込んで、門の外まで一緒に脱出するんだ」
その協力者は車輪の破損を装って、すぐ近くの大通りの端に一時停車するらしい。
なんでも荷台の部分が、その真横に伸びる小道を塞ぐようにして止まるようだ。その小道というのが、ちょうど家の二階の窓から見えた道の事だ。
だから、イリニたちは窓からロープで下に降り、誰にも見つからずに荷台に乗り込む必要がある。あまりもたもたしていると、馬車も怪しまれるから、時間との勝負だ。
「なるほど…… それなら、確かにバレずに国を出れそうだ」
「ああ。この日をどれだけ待ったことか。もう数ヶ月前からこの日のために準備をしてきた。必ず成功する……」
ブレットはしまったという風に、こちらを見た。
「悪い、イリニ。実は、あんな偶然がなければ、俺は協力者と二人で脱出する腹づもりだった…… もう、こんな生活に耐えられなかったんだ…… それでーー」
「大丈夫。俺はみんなが幸せになってくれた方が良い。逃げることは悪いことじゃないんだ」
「すまない」とブレットは頭を
「それより、今はこれからの事を考えよう。そうだ。君の名前をまだ聞いてなかった」
ここで一つ自己紹介を済ませておこう。そう思ったが、少女はなぜか首を振る。
「ど、どうした?」
「知らない人には名前を教えちゃいけないって、父様に言われてるから」
「それは…… そうだよな。確かに……」
予想外の返しだった。相当なパパっ子らしい。
(ていうか、魔王ってちゃんと育児するんだな……)
イリニの思い浮かべていた、邪悪で無慈悲な魔王像が大きく揺らいだ。
「じゃあ…… 魔王の娘でいいか」
「え、適当すぎない?」
「だって、本名わからないし。よろしくな、魔王の娘」
魔王の娘は、少々引き気味に頷いた。
「あ、そういえば。今日外に出た時、とんでもなくでかい生き物が空を飛んでたんだけど、あれは何なんだ? あんなの初めて見た」
「とんでもなく…… ああ、フローターのことか」
「え、フローター!? それって、成獣でも手のひらサイズで、もこもこしてて、みんなに愛されてたあれのことか?」
イリニは両手でお椀の形を作り、ブレットの顔の前に突き出した。これが彼の記憶にあるフローターの大きさだ。
当てもなくぷかぷか浮かんでいるだけの温厚な生き物。太陽の光と、少量の植物があれば生きていけるため、当時はペットとしてかなりの人気を博していた。
「そうか、イリニは最近の事を知らないんだったな。今では、あれが成獣の大きさだ。この二年間で急激に巨大化した」
「巨大化って…… そんなことがあり得るのか?」
「詳しい事は知らない。でも、あの大きさと持久力を生かして、今では長距離運搬用として重宝されてる。最近じゃ、他国との貿易では、竜よりも使用率が高いくらいだ。西に、高い壁に囲まれた船着き場がある。そこに行けば、あれが何頭も見られるぞ?」
またもや、世界の移ろい行く様を聞かされた。
二年というのは、そんなに長い期間なのだろうか。自分はこの先、あと何回この変化を見聞きする羽目になるのだろう。
新鮮に感じる一方、置いてけぼり感が否めない。
三人は夜明けの大仕事を前に、かなり早い休息を取る事にした。種々の緊張を抱えながらも、イリニはその日泥のように眠った。
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