第2話
だが年が明けて、一月二月を過ぎ、三月になって雪が解け始めるとタカは、その田舎の家で無事子供を産んだ。
子供は男の子だった。
生まれた子供が男の子と知ると、タカの目には初めて光のようなものが宿った。
このこは夫の生まれ変わりと思えたのだ。
産後一ヶ月もするとすっかり春めいて来て、お爺お婆に頼んで”大橋”へ行く荷車を雇ってもらい、”大橋”へ向けて旅立つ事にした。
世話になったお礼は何も出来ないがと言って、後生大事に持っていた母親の形見の鼈甲の櫛をお婆さんに無理矢理渡して、お礼の気持ちを伝えた。
あの時助けられなければ、自分の命もこの子の命も無かったのだと思えば、少しも惜しくはなかった。
お爺お婆に名前と素性を聞かれたが、タカはとうとう本当の素性を明かさなかった。
名前は母方の祖母の名前の岩と名乗った。
そうしてなけなしの金を殆ど費やしてやっとの思いで叔母の所を尋ねてみれば、叔母は驚いて親子を隠すように家の奥に連れて行くと、その足で急いで出かけた。
そして帰って来ると、また急いでタカ達を連れて行った所は叔母の家から少し離れた所にあるどこかの家の離れのような所だった。
そこに落ち着くと叔母は、初めて安心したように話し始めた。
「丁度、うちの人が留守の時で良かった。あの人は案外気の弱い人だから、この事が知れたらいつもビクビクするだろうからネ。私、ひとりきりの時で良かったヨ。」と言ってから、
「タカ、実はネ、お前がここに来ていないかと追手が来たんだヨ。お前の旦那様はとんでもない悪い事をしたんだネ。」と言った。
「いいえ、それは違います。」と言って、
タカはうすうす自分の耳にも入っていた世間の噂、家老の娘の縁談を蹴って自分と一緒になったばかりに針のむしろに座らされているという話は本当だった事を叔母に打ち明けた。
「あの人はそんな悪い事の出来る人じゃありません。全てわたしのせいなんです。」
叔母は初めて納得したようだった。
「けれど、タカ、お前がここに私を訪ねて来る事はきっとお前の養い親の鶴之進から聞いたのだろう。」と言った。
鶴之進は叔母の弟だった。
「簡単に私の居所を教えるなんて見下げた弟だヨ。」叔母は悔しそうに言った。
「いいえ叔母様、叔父様を恨まないで下さい。あの土地で家族を守って生きて行く為には仕方のない事なのですから。」とタカは養い親の叔父を庇った。
何の罪も無い総十郎を死に追い込む所なのだから、あの叔父もさぞかしビクビク暮らしているのだろう。
叔母が「あれから半年経っているからもう大丈夫とは思うけれど、どこで誰の目が光っているとも限らない。タカ、お前は名前も変えてまるっきりの別人としてこれからは生きるんだヨ。この子の為にもネ。私もうちの旦那様にはお前が来た事は
隠しておくつもりだ。時々はお寺へお参りの時に寄って見るけれど、お前もそのつもりでいるんだヨ。」
そこは叔母の家とお寺の中間にある叔母の知り合いの離れだった。
タカはその日から、名前も綾と変え、叔母から秘かな援助を受けて親子二人新しい人生を歩み出したのだった。
思い返せば悔しく恨みは募るばかりだったが、過ぎた事を思い出して泣いてばかりはいられない。
今は奇跡的に授かったこの子だけが唯一の生甲斐となった。
無念の死をとげた総十郎の為にもこの子は、誰にも負けぬ立派な人に育てよう。
人から仰ぎ見られ、尊敬される人物にしたいと歯を食いしばる程強く願うようになった。
その子は生まれ落ちてすぐからきれいな顔立ちをしており、特にその目は見る者の心を引き付けずにはおかない深い目をしていた。
外を抱いて散歩していると、赤子を見た誰もがこの子はただならぬ人物になるだろうと話をした。
例えそれがお世辞だとしても嬉しくて、母親はよく赤子の顔のその目をじっと見た。赤子は母親の目をじっと見返す。
その目は、母の心をしっかり解っているような今までの苦労、人にも話せない悲しい出来事をも全て知っているヨと言っているような深い目をしているのだった。
母親は、この子は普通の子ではない、きっと人の上に立つような偉い人になるに違いないとおもうなうになりました。
それには訳がありました。赤子の頃より、むやみに泣き声を上げないのだ。母親が縫物の仕事の合間にふと赤子のあまり静かな事に気がついてのぞいて見ると、赤子はそこから見える空の一点をじっと見つめていたりするのだ。
時には空を流れて行く雲をじっと見つめている時もあった。
赤子は泣く事が仕事だと人は言うけれど、泣き声は滅多に聞いた事が無い程、手のかからない子供だった。
母親は、この子は普通の子供ではないと思ってみては、どこの親もそう思うのだろうかと苦笑してみたりするのだった。
それでも少し経って母親が短い言葉を言うと、その言葉を繰り返すようになった。
母親は試しに自分の知っている言葉を言ってみた。
「子のたまわく。」と母親が言うと、まだ舌もよく回らない幼い子がすぐにそれを覚えて、舌足らずながら同じ言葉を繰り返して話した。
三歳頃になると、母親は喜んでどこからか書物を借りて来て子供に読んで聞かせた。
それが驚く事には、はっきり朗読してやると殆ど一度でそれを覚えて繰り返し暗誦するので、母親は空恐ろしくなり一度に覚えさせる事はしないで少しずつ読んで聞かせた。
そして、まだまだ愛らしい小さな手に筆を握らせて見た。
お母様の顔を書いてごらんなさい、と自分を指さし墨をつけて握らせると、たどたどしいながら子供の筆とは思えないような人の顔形を書いた。
この子は普通の子ではないのだ。この子をいい加減な気持ちで育ててはいけない。
そう思った母親は物言いの一つ一つを大人に対するように教えた。「おはようございます。いただきます。ごちそうさまです。おやすみなさいませ。」
立ち振る舞い、お辞儀の仕方。書は基礎からと自分が縫物で得た収入を惜し気もなく費やして、良いお手本や道具を手に入れそれを真似るように練習させた。
「字は心と言います。字や言葉遣いはその人の中身を表します。字のうまい、下手は人それぞれですが、少しでも下手よりはうまい方が良いでしょう。最初はお手本の字を真似て書く事から始めましょう。出来るだけおなじように、
力を入れる所は入れ、力を抜く所は抜き、ハネや又点の置き所等、まずはお手本をよーく見て出来るだけ同じように書くのですヨ。今のあなたは、まずそれを一生懸命勉強しなければなりません。」
母親はそのようにして、まずはかなから始めさせた。最初は筆を持つ子供の小さな手をそっと母親が持って書かせたが、それは一度きりだった。
その後、男の子は一人で練習するようになった。
しかも飽きもせず、外に遊びに出たい盛りなのに、いつまでもいつまでも食事の時や母親が少し休みなさいと言うまでは机の向かっているのだった。
子供がちょっと席を立った時に、母親は練習の成果をのぞいて見た。
すると何という事だろう。お手本と寸分違わないような美しいかな文字が書かれているではないか。
母親はこの大人の自分でさえかけないその手筋を眺めて、只々呆然とするばかりだった。
次に母親は、漢字の練習を始めさせた。漢しょうは声に出して読み、息子にも声に出して読ませた。
無駄口を言わない性質だけれども、母が促して言わせるときちんと声に出して言う。難しい書もかなを振って教えてやると、まるで乾いた砂が水を吸うようにいくらでも吸収するのである。
母親はその書物が本当に身についているのか知りたくて試しにそれを暗誦させて見た。
男の子は母親の前に正座し、目をつむり最初から最後まで一語も間違わず暗誦したのである。
母親は驚いた。喜びよりも何か不安な気持ちにさえなって来た。
「お前、よくここまで覚えましたネ。本当によく勉強してくれました。」と男の子を誉めた。男の子は照れもせず、困りも嬉しそうにもせず、深い澄んだ目にいつものかすかな微笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。
お母様の喜ぶ顔が見たくて頑張ったんだヨの一言でも口から出たなら、母親はどんなに嬉しく安心した事だろう。
しかし、この子からはそういう言葉は出て来ない。
ある日母親は、手習いの物を買う為、男の子を連れて出かけた。
道端には物乞いの親子が地面に座って道行く人々に施しを求めていた。その乞食の子供はすっかりやせて弱って見えたし、そのまた少し離れた所には片足を失くした男が物乞いをしていた。
母親は自分の袋からわずかの金を出して与えながら、隣の我が子の目をチラリと見た。
さぞ驚いたり可愛そうに思って胸を痛めているだろうと思ったが、息子の目はいつもと変わらず薄い笑みをたたえているいつもの目だった。
その時母親は急に不安な気持ちになった。
帰り道でも道端に犬が死んでおり、そこにカラスが何羽も群がっているのを見た。その時も息子の目には何の表情も現れてはいなかった。
そうなのだ、母親はいつからかそれに気付いていた。
この子はこうしなさい、こう言いなさいと言われればそれを見事にやってのけるが、それ以外の事は一切しないし、言わないのだ。
つまり自分からこうしたいという事がないのだ。
いいや、それを認める事は恐ろしい事だが、この子には自分の好き嫌い、嬉しい、悲しい、悔しいという心持ち、誰もが持つ感情がないのではないのだろうか?母親だからそれが解る。
いいやそんな訳はない。そんな筈ないと思い観察して来た母親だったが、とうとう認めない訳には行かない所まで来ていた。
この子の気持ちが少しも解らない、見えないのだ。
礼儀正しく、出来の良い息子の完璧すぎるが故にこれからの道を思うと、只一つその心が見えないのが気になり、眠れぬ夜を幾日も幾日も過ごした。
たまに訪ねて来ては、勉強している子供を見、しきりに誉めて帰る叔母には何故か相談出来る事ではなかった。
ある日母親は決心し、徳の高いと評判のお坊様の所へ息子を連れて行った。
そこはかなり大きな寺で、修行中の若い僧等も十数人おり皆一心に修行しているので有名だった。
和尚様に二人で挨拶をし、男の子の書いた字を見ていただきまた、暗誦も聞いて貰った。
まだほんの子供なのにその字の美しさ、完璧さ、また暗誦する声の澱みのないどこまでも響く声に和尚は驚き感心し、しばしみとれる程だった。
和尚は急にこの子に興味が湧いて来て、この子の事が知りたくなった。
「お前は随分書く事も読む事も得意なようだが、勉強は好きか?」と聞いた。
子供は好きか嫌いかの意味が解らないのか、涼しい目をしているだけだ。
「それじゃ一番楽しい事は何じゃ?」と聞いても、困りもしなければ悩みもしないで、澄んだ目は幽かな笑みをたたえているだけだ。
「この寺で勉強してはどうかな?」と言うと、「よろしくお願いします。」とはっきり答える。
「母親と別れるのは淋しくはないのか?」と聞いても何も答えない。
ただ涼しい顔をしているだけだ。
こんなに優れたものを持っているのに、何故かはがゆく、つかまえられない。煙か何かを追っているような気分になった。
不思議な子だ。こんな子供は初めて見た。知能が劣っているなら諦めもするが、こんなに驚く程の才能を持っているのに。
母親はその後、子供に境内で待っているように言い、自分は和尚様に聞いていただきた事があると言って二人っきりになると、胸の中にしまっておいた事を話し始めた。
生まれたばかりの頃から今まで、思い出せる限り事細かに思い出し話した。そして苦しそうに最後の一言を絞り出した。
けれどもあの子には心というものが無いのではないのでしょうか。心の機微です。それが無いのです。
こうしなさいと言われればなんでも出来ます。それは驚く程です。でも私にはあの子の心が見えないのです。これからあの子は人の中で人と接しながら生きて行かなければなりません。
相手が何を考えているか、それを思いながら言葉をかけたり受け取ったり、助けたり、助けられたりして人は生きているのです。あの子にはそれがないのです。
母親は和尚に向かって、そのうちにはきっとこの子も普通の人のようになると淡い願いを持ちながら、今まで一人でかかえて来た不安を洗いざらい吐き出して泣き崩れた。
「和尚様、この子がお腹におります時に、私は人に話す事の出来ない事情で人の感情を忘れていた時がありました。人の世の惨さに恨みを通り越して心というものを失くした時期がありました。そのせいでしょうか?あの子が
こうなったのはわたしのせいでしょうか?」
胸の中に閉じ込めていた悲しみ苦しみと共に息子の将来を思って母親は泣きに泣いた。
和尚はそれを静かに見守り、母親が泣きたいだけ泣かせておいた。それが落ち着くと、
「母御のお気持ちはよく解りました。私がそのお気持ちをしっかり受け取りました。以上、貴女は心を軽くお持ちなさい。あのお子の手筋は只者ではありません。これから精進すれば、ひとかどの大家となるのも夢ではありません。
また、書物を読む力、それと記憶する力は並外れたものがあります。これが天才というものならば、それを伸ばしあらゆる書を与えて更にその才能をどこまでも伸ばしてやらねばなりません。心というものは人間誰にもあるものです。
その心により苦しんだり、悲しんだりするのです。嬉しい事もあるが苦労する方が多い。いわゆる煩悩というやつです。このお子にはその煩悩というものがない。だからあのように涼し気に穏やかなまなざしでいられるのです。
あの類まれな才能、私はあのような童に今まで会った事がありません。あの子は特別な子です。人間とは大方煩悩の塊です。私とてこの年になるまで、煩悩の炎をいかに沈めるかの戦いでした。それが修行というものです。僧侶といえ
ども人間です。この寺にいる修行の者は全て私も含めてその為に修行しているのです。学問はどこにいても出来る。一人でも出来る。野原で寝転んでも出来る。しかし、これが欲しい。あれも欲しい、これもあれもと限りなく湧いて来る
欲望を律する事は一人ではなかなか難しい。それでこのような寺の中で決められた雑務や座禅、学問等の修行をお互い律し合いながら務めて、少しずつ、少しずつ僧侶らしく作られていくのです。それでも、その中身は誰もがそうそうお釈迦様
のように悟りを得た真の意味での僧になれるものではありません。恐らく胸の中を覗けるならば、そこには煩悩の炎がメラメラ燃えたり、この私とて灰の中にはすぐにも火がおこせる程の埋もれ火がしっかり残っている。それが人間という者です。
それなのにあのお子にはそれが感じられない。実に不思議なお子です。母御殿、あのお子のお名前は無き父親の名前をいただいたと仰せられましたがどうでしょう。それとは別に、この私に名前を付けさせてはくれぬか?」
母親は喜んでお願いをした。
「そうですなー。赤子の頃からじっと空を見上げて雲の流れを追っていたと言われましたなー。あのお子の目は穢れの無い澄んだ泉のようだ。雲と泉で雲泉という名はどうですかナ。」
母親はもちろん喜んだ。
「よろしいか?それではこの先は雲泉がどのように育ち、どのような道を進み、どこまで行くのか儂も見てみたくなりました。出来ますかどうか解りませんが、雲泉の進むべき道をそっと後ろから見守り、時には励ましの言葉をかけてやりたいと
今日は強く思いました。この年になってワクワクするような楽しみを持ちましたヨ。母御殿、どうですかナ。思いきってこの寺に雲泉を預けてみてはどうですかナ。坊主としてではなく、有髪のまま勉強見習いという形で様子を見ましょう。その後の
事はその都度、考えましょう。」
母親は思いがけない好意に涙を流して感謝し、息子をその寺に預ける事にした。
雲泉が十歳の年だった。
それから寺での雲泉の生活が始まった。
和尚からは雲泉自身にも他の修行僧達にも雲泉は修行僧ではなく特別預かりの勉強の身でここにいてもらうが、朝の起床やその他の掃除、食事等は皆と一緒だという事を話した。
他の者達は雲泉は有髪であり、どのような事情か解らぬままだが、いずれこの寺を出て行くのだろうと納得したようであった。
雲泉は翌朝から早く起こされても別に不平も言わず皆と同じように顔を洗い、言いつけられた掃除をし、食事も済まし慌てる様子も無く、不安そうな顔をするでもなく淡々と言われた事をこなした。
和尚はその様子を観察していたが、やがて思いついて雲泉をいつもは客人達の為の部屋として使っている奥の控えの間に呼んだ。
そこで試しに手紙の代筆を頼んで見たのだ。あらかじめこのように書いて欲しいと見本の手紙を見せた。
それはなかでも特別達筆な手の物だった。
雲泉はその手紙を暫くじっと見つめていた。和尚は心の中でまだ十や十一の童だ、急には無理だろうが…と思いながら檀家総代に宛てた手紙を口述させていった。
和尚はその部屋の中をゆっくりと歩きながら口述させ、時にちらりと雲泉の方を見た。
雲泉は見下ろすとほんの童だ。まだ子供じみた手に細筆を握りながらも一心に書いている姿は、いかにも手習いに来ている子供のようだ。それでも真剣な面持ちで一心に何かを書いている。いくら天才とて初めから無理な事を強いたナ。後でいつものように
自分で書こう。
そう思いながら、和尚は口述の最後を締めくくって、総代のあて名はこれにして欲しいとあらかじめ用意しておいた名前を雲泉に示した。
雲泉はそれをじっと見ると別の紙にサラサラと筆を走らせ、その中に口述筆記した手紙を入れて丁寧に同じように折り畳んだ。
和尚は、「終わったら、境内を掃くように。」と言った。
雲泉が机の上にそれて置いて出て行くと、和尚は素早くその手紙を手に取って見た。
それが、その手紙の何と達筆で美しい字か!
まだ文字の崩し方も知らない筈の童が…と、只々驚くばかりであった。
それは一字一句間違わず、自分の述べた事をこんなにも正確に、書き出しや、字の間隔も申し分なく、宛名書きもしかり。
とにかく一つとして不備な所のないものだった。和尚はその手紙をいつまでも見ていた。
この子供の素質の只ならぬ事を改めて知り、これはもう一度本気を入れてかからねばならぬぞ、と自分にどうすればいいか強く思うのだった。
考え抜いた末、和尚は雲泉に仏教の経典の基礎ともいうべきものを与える事から始めてみた。それを写経するのだ。
声を出して読み、写経する。
その合間に寺の雑用をさせ、和尚が出かける時はなるべく雲泉にお供をさせる事にした。
和尚の側にいるのが小坊主ではなくて、有髪のきれいな顔の少年なので行く先々で珍しがられた。
和尚はその人達にこの無口な少年を
「将来、どういうお方になるか知れんが、今は私の所に預かって勉強している身です。小坊主と同じと思ってやって下さい。」と話した。
雲泉には、世の中にはいろんな人がいます。その人達がどのように話し、私がどのように返事をし、どのような時に笑い、どのような時にどのような言葉を返すかをよーく見ておくのだヨ。ただ、黙って見ているだけでいい。誰かお前に話をかけて来るかも
知れないが、今は何も言わなくていい。黙っていていいんだヨ。」と言った。
雲泉は和尚に言われるままにいつも涼し気な目をしてお供をした。
和尚は次は何を雲泉に与えようかと楽しみでもあり、また追われるように考えねばならなかった。
何故なら、雲泉は人の何倍もの速さで与えられた書物を写し、その書物無しに暗誦させると難なくスラスラと澱みなくそれを暗誦してしまうのであった。
これは和尚だけの秘密だった。
寺の中の者達がそれを知ったら決して雲泉の為にはならないだろう。
人の能力には限界があり、毎日血を吐くような努力をしても、その成果は高々知れているものだ。
それに、一度覚えたものでも、いつまでも完璧に覚えていられるものではない。雲泉のような能力を知ったなら、自分の努力が馬鹿らしくなったり雲泉に嫉妬したりせずにはおれないだろう。これは気をつけねばならぬぞ、和尚はまた思った。
そして、それからも必要と思う所には供をさせ、母親と二人だけの暮らしで知らなかったという色々の物を見せて歩いた。
また、学問だけでなく書にも力を入れさせて見た。紙とそれ用の筆を与えると、子供とは思えない力強い見事な書をしたためた。
絵はあちこちの襖絵を見て歩いた。いつか中国の山河を描いた有名な山水画の掛け軸をさる屋敷で見せて貰った。雲泉はその絵をじっといつまでも見ていた。
和尚は飽きもせずに見入る雲泉に、
「雲泉、この掛け軸の絵は有名な絵師のものだ。よーく見ておくのだヨ。」と言っていたのだ。
雲泉はその涼し気な目でいつまでもいつまでも見ていた。
その後、屋敷を後にして寺に帰ると雲泉は、いつもの客用の控えの間に入り、何かを描き始めた。
そして、長い時間をかけて何かを書き上げた。それは紙質こそ違ってはいたが、あの山水画に瓜二つの見事な物だった。
和尚はそれを見た時、只々驚きしばし見入ってから雲泉にこんこんと言い聞かせた。
「雲泉、今日見たあの絵は見事だったナ。そしてこの絵も見事なものだ。お前はあれをいつもの写経のようにそっくり書き写したくなったのだろう?そしてお前はそれをそっくりに書き写した。お前は立派にやり遂げた。だが、これは私とお前だけの目の奥にだけ
仕舞っておこう。これだけ似せて描くと、下手をすると贋作の疑いをかけられて不幸な事になるのじゃ。お前の絵をしっかり二人で眺めたら誠に勿体無いが、これは燃やしてしまおう。これは二人だけの秘密だヨ。お前が折角描いたのに申し訳ないし、本当に惜しいが
燃やしてしまおう。」だが
雲泉は相変わらず何も言わず涼し気な目をしていた。絵は燃やされた。
雲泉十三歳の時だった。
和尚は常々、雲泉をどのように生かすかという事を考えていた。
この比類ない才能をどのよう伸ばし支えそして、雲泉自身が最も雲泉らしく行く道はどこにあるのだろうと考えない日は一日として無かったと言うのが本当だろう。
それ程に雲泉は、和尚にとって特別の存在であった。こういう人間は後にも先にも見る事がないだろう。その宝のような雲泉を自分は翼の下に抱えているのだ。
そういう気持ちが和尚にはあった。
この先、学問だけでは場は限りがあると考えて、ひそかに剣術の師にもつかせた。
雲泉はなんでも、かんで含めるように諭すと否とは言わない。
自分の主義主張というものが無いのだろうか。これだけの物を瞬時に会得して再現する恐るべき能力を持ちながら、本当に好き嫌いというものが無いのだろうか?
和尚は新たに何かを勧め与える時、雲泉の目の中に幽かな意志の影を見ようとしたが、これまで一度もその美しい澄んだ涼しげな目をよぎる物は無かった。
剣術を勧めた時も、「雲泉、お前はそれを嫌ではないのか?もしも嫌でなかったら自分の身を守るという意味からも一通りの事を身につけて置く方が良いと儂は思うのだが…。」と言葉を止めて顔を見つめると、暫くして、
「何卒、宜しくお願い申し上げます。」ときちんと返事が返って来る。
だが、それはまた幼い頃から相手に何かを勧められた時は、そのように返答するという事を忠実に守っているからでもあろうと思う。
そして剣術もまた、他のものと同じく、剣の持ち方、足の運び、間合い等を丁寧に教えると、型をすぐに覚え、するすると上達をするという事だった。
ある程度まで出来るようになると、剣術の方は師につく事を辞めさせ、身体の鍛錬の為に夜暗くなってから素振りを千回するように勧めて見た。
雲泉は暗くなると、裏の誰にも知られぬ所で、毎日それを実行しているようであった。
やがて背丈も伸び、毎日の鍛錬によって出来上がった体は均整がとれて物静かで落ち着き払って何事においても動じない、申し分のない若者になった。
この頃では、和尚が誰に自慢したり誉めそやした事もないのに寺の中の者は皆、いつの間にか雲泉に敬意を払い一目置いているのは、歴然と見てとれるのである。
それだから尚更和尚は、雲泉に話して聞かせた。
「雲泉、自分の周りの物、全て自分の師と思えヨ。自然の山や木々、草花、鳥、獣等、どれもがお前にあらゆる事を教えてくれている事を忘れてはならぬ。ましては尚更、人と言う者は老若男女を問わずお前の前にいて、お前の後ろにいて、お前の横にいてはその存在だけで
お前の行く道を教え導いてくれるものだと思いなさい。雲泉、お前の周りの者、すべてに敬意を払いなさい。お前は何でも出来るが、お前そのものは生まれたての赤子なのだヨ。世間はそれに気付いてはいないが、私と母御はと前自身だけがそれを知っている。この今の私の
言葉が、お前の記憶の中にしっかりと蓄積される事を信じて私は話すのだ。雲泉、そういう意味でもお前は常に謙虚な態度を忘れてはならない。他者を敬う事を忘れてはならない。
雲泉は有難い説教をいただく時は、いつもそうするように床に両手をつき頭を垂れて聞いていた。その目は涼やかであった。
日々研鑽を積み、時に和尚から有難いお言葉をいただき、立派に成長した雲泉を和尚はその日も目で追いながら、これからの雲泉の身の振り方を考えていた。
このまま剃髪させて僧侶の道を歩ませるべきか、それとも世間に出て人の世の営みの中に身を置かせてみた方が雲泉の為になるのだろうか。
雲泉は十八になろうとしていた。
そういったある日、大層、位の高いお武家が奥方が亡くなられて七回忌にその法要を和尚の寺にお願いし、更には供養に如来像を寺にお供えしたいという話があった。
和尚はその打ち合わせの為に、すぐに下にいて寺内の事をあれこれ仕切っている古参の僧一人と雲泉を伴って出かけた。
そこは大層広く立派な御屋敷であった。
広間に通されると開け放されたそこから広い庭が見渡せた。見事な庭だった。
木々の配置、小山も有り、岩を思わせる見事な石があり、それらの間を流れる小川、小川に架けられた橋、その小川は池に流れ、池の中には色とりどりの鯉がゆっくりと泳いでいる。
そして、そこかしこに嫌みのない花がひっそりと咲いている。「この世の極楽のようですナ。」古参の僧が言った。
和尚も頷いて見ている。一日中、見ていても飽きない心地よい景色である。
少しして、一人の家士を連れてここの主が顔を出した。
それから和尚と主との間で大体の日付等を決めた。後は双方の下の者同志で細かい打ち合わせをする事になった。
その時、二人の侍女を伴って美しい娘が茶、菓子を運んで来た。
屋敷の主人は一人娘だと紹介し、下がらせた。その娘は始終うつむき加減で恥ずかしそうに頬を染めているばかりだった。
三人は茶や菓子を頂き、またも素晴らしい庭を愛でて帰って来た。
そして、その三ヶ月後に寺で盛大な法要が執り行われた。
寺の僧侶達全員が揃いの色の袈裟を身につけて読経した。そのお武家様の親戚やゆかりの者達も多勢参列し、法要は滞りなく荘厳に執り行われた。
寺には金箔の美しい如来像が寄進された。
その何日か後に、雲泉は和尚に呼ばれた。
先日の大法要のお武家様が雲泉の事を目に止められ、和尚にどのような者かをお尋ねになったので、あの者は我が寺で勉強中の身であり一通りの事は身につけてありますが、この先の事はいまだ決まらず、今、あの者にとって相応しい所を探しあぐねておりますと正直に話すと、
それなら自分の知っている所に、歴史や珍しい唐来の書物等をまとめて編纂する所がある。そこで働いてみてはどうかという話であった。
聞けば仕事の内容も雲泉に向いているようではあるし、その才能を十分発揮出来そうな仕事ではないかと思った。
扶持も十分すぎる額を提示された。
和尚は、これは雲泉の為に悪くない話だと思ったというのである。
ただ、和尚はその主に雲泉という者は仕事の事は誰よりも勤勉に務める質です。真面目で几帳面である事も保証します。
ただ、人付き合いが非常に苦手で無口なのが欠点ですとその事を強調した。
すると相手は、それならそれはかえって好都合、少人数の静かな部署での仕事ゆえ、こちらの方こそお願いして是非にも来て頂きたい。そう言われた。
「雲泉、お前ももう一人前の男になった。もう何百冊もの書物を読み書き写し頭の中に貯えた。それに何と言ってもその達筆、その美しい文字を書くその手を生かさないでは勿体無い。知らぬ世界に飛び込む事は勇気のいる事だが、それも必要なのだヨ。これはお前にとって大変
良い話だとおもうがどうかネ。受けてみてはどうかネ。」和尚は雲泉の目に問いかけた。
雲泉はその澄み切った目に淡い微笑みを浮かべて、「宜しくお願い申し上げます。」と言うのだった。
和尚はこの話を正式に受ける前に一度雲泉を母親の元に帰した。和尚も一緒に行った。
母親は時々、そっと寺に来て我が子の様子を陰から見守っていたので雲泉の成長した姿は見ていたが、帰って来たその姿を間近に見て、そのたくましさと父親似の面影があるのに一層涙を浮かべて、ここまで育てて下さった和尚に幾度も感謝した。
そして、これから職を得て召し抱えられる話になると、雲泉と和尚の顔を交互に見ながら、母親なら持つ不安と淋しさを感じたようであった。
和尚は自分の考えのあらましを包み隠さず母親に話した。
僧になる道も考えたが、一度は俗世間の中に身を置いてみるのも本人の為ではないかという事、そして、この度の事は急に降って湧いた雲泉に向いた有難い話で断るのはおしいと思ったと話した。
母親は「全て和尚様にお任せします。」と言った。それで話は決まった。
和尚はこの後、先方に正式に受諾の返事をし、明後日、迎えに来ると言って帰って行った。
母親は久々の息子の里帰りに出来る限りの旨い食べ物を作って食べさせようとした。
そして、あれこれしながら息子の様子をそれとなく見ていた。まだふあんはぬぐいきれないが、こんなに大人になって、人の中に混じって生活して来たのだもの。そして和尚様の話では誰にも変だと思われなかったのだもの。きっともう大丈夫だ。母親はそう自分に言い聞かせた。
雲泉は戸を開け放った部屋の中で、久しぶりにすっかりくつろいで外の空を見上げていた。
空に浮いている雲、少しずつ変わる雲、ああ、この子は赤子の時からそうだった。
母親は急に不安にかられて幼い頃の呼び名を呼んでみた。雲泉は動かない。
母親は泣きたい気持ちになって、今度は”雲泉”とはっきり呼んでみた。
雲泉は振り向いてこっちを見た。目が幽かに微笑んでいる。ああ、これが私の息子なのだ。お前にはこの名前がよく似合う。
あの空に浮かんでいる雲、どこかに流れて行ってしまう雲、お前は私から生まれたがあの空に浮かぶ雲のような子だ。
お前には雲泉という名前がぴったりだ。これ以上、望むのは無理というものだ。雲泉はもともと無口な子供なのだ。
母親は何故か悲しくもあり、淋しくもあったが、それを見せずにあれこれ話しかけ、旨い物を食べさせ世話をやいた。
明日は和尚様が迎えに来るという晩に二つ床を並べて寝てから母親はしみじみと言った。
「雲泉、お前も一人前の男として仕事を与えられた。そうなってからは全てを捨ててでも御奉公をしなければならない。おなごの様に何やかやと口実をもうけて里帰りする事も許されないだろう。母は今夜が最後だと思って貴方に伝えて置く事がある。」
母親は話し始めた。
「雲泉の父親がどんな人だったのか。どんなに立派な人だったか、そして大事なお仕事をいただいて何の落ち度も無いのに、あらぬ疑いをかけられて切腹を申しつけられる事になった事、二人はたった一人の友人の助けで危うい所を家を逃げ出て吹雪の中を叔母のいるこの地に向かった事、
だがすぐに追手が出て雲泉の父はそれらに斬られて果てた事。母親を下の道に逃がし自分はこうなった事を悔いてはいないと言って、逃げおおせたらまた必ず会おうと死んでも必ずあの世で会おうと笑った顔を今もはっきり覚えている。お前はその時、この母のお腹の中にいたのですヨ。
私はあの時、後を追って死のうとしたのです。実際、あの深い雪の中で自分は死ぬのだなと思いました。私はひどい出血をしていたようです。自分はもう無理だと思いました。この子も私も死んであの人の元へ行けるんだと思いました。気が遠くなりました。あの時、私も雲泉、あなたも
一度死んだのだと思います。今のこの私とあなたは、特別にいただいた命だと思っています。目が覚めると、板の間だけれどあちこち火が焚いてあり、鍋や鉄瓶から湯気があがっていました。あの出血のお蔭で、あの家で飼われていた二匹の犬が吠え立てて、私を発見する事が出来たそうです。
貧しいけれど心優しいお爺さん、お婆さんに助けられたのですヨ。私は気力も体力もすっかり失くしてしました。暫くはただボーッとしていました。年が明けて、雪解けの頃、貴方が生まれたのです。無事あなたを生んだけれど、どこから噂が広がってまた私達を殺しに来る人がいるかも
知れない。そう思ってあの優しい人達にお別れしてこの街まで逃げて来たのですヨ。やはりこの町に住む叔母の家にも追手は来ていました。世の中とはそういう恐ろしい所でもあるのですヨ。でも今まで私も雲泉もどうにか生きて来ました。私はあなたを見るにつけ、あなたは私だけの
子供ではないと思っていたんです。特別などなたかの意志で私に特別に授かった子供だと思っています。昔はあなたの父の無念な最後を思い出しながら、偉い人に育てるのだと意気込んでいましたが、その必要は無かったのですネ。雲泉あなたは特別な何かを授けられて、猛吹雪の中、死なずに
この世に遣わされた子なのだから。あなたがこの母の言葉を記憶の片隅に置いて、いつか思い出す事があったら、あなたの父親も浮かばれる事でしょう。雲泉、あなたは無理をする事はないのですヨ。あなたはあなたらしく心静かに生きていくのです。世の中には醜い汚い思惑が渦をまいています。
あなたはそんなものの渦の中に巻き込まれず、静かにたんたんと生きていく事でしょう。母はたった今、それに気付きました。あなたが普通の人じゃない事に悩みもしましたが、母が間違っていました。どなたかが、あなたをあなたらしくあるようにこの世に遣わしてくれた事に今気が付きました。
随分、おしゃべりをしてしまいました。眠くなったでしょう。」
母が隣の雲泉を見ると、雲泉はパッチリと目を見開いて天井を見つめ、微笑んで聞いているようだった。
やはりこの子はいつもそうなのだと思った。
母は最後に
「ねぇ、雲泉、お前これから世間に出て誰かに話しかけられて返事を求められる時、きっと困るだろうネ。これは母からの助言です。これだけはしっかり覚えておくのですヨ。誰かがあなたに話しかけて返事を待っている時、あなたが何も言わないと、人はすぐ変わった人、つれない人、偉ぶって
返事もしない等と気分を害するのです。私と和尚様は貴方の事をよく知っているからそんな風には思わないけれど、世間の人は貴方の事が解らないから返事をしないと大変気分を害するのです。その時、貴方はこう言いなさい。」
「私はあなたが思っているような人間ではないのです。私はあの空に浮かぶ雲のようなものなのです。」と言って目をつむりなさい。
そう言ってからも更にあれこれ問い質されても、もう黙っていて構いません。
いいですか?おはようございますや、いただきますの言葉と同じですヨ。あなたにあれこれ話しかけて返事を待っている時に言うのですヨ。」
「あなたは本当にあの雲のような人なのだから。」
母は世間に出たなら必ずそういう時が来る筈だと思い、言わずにはいられなかった。
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