雪乃恋

@hasebaakito25

第1話


ほっと息を吐くと、白い靄が色を無くしながら空へと昇っていく。

一歩足を踏み出すたび、真っ白な地面は沈み、最初のふんわりとした感触が無くなって硬い塊に変貌する。

後ろを振り返れば、上り坂と共に、これまでの歩みが可視化されるように一本の足跡がついていた。前にはずっと柔らかく、冷たい大地が続き、何処が道なのかが全く分からない。

「雪っていいわよね。儚くて。わたし、大好きよ」

僕の耳元で同い年くらいの女の子が囁いた。それは綺麗な、鈴を転がすような声だった。

射干玉色の髪が僕の顔のすぐ隣で揺れる。

「そうかい。……僕はその雪が今は恨めしいよ」

彼女のほうを一瞥もすることなく、僕は苦笑いを浮かべながら悪態をついた。

見る分には好きだが、積もった雪の中を歩くことほどしんどいことはない。

するとそれが面白かったのか、彼女……宮下雪乃は口元に手を当て、クスクスと上品に笑った。

「あら、そうなの? あなた、小さい頃は雪、好きだったじゃない」

「今だけだよ、今だけ。普通に僕も雪は好きだし。まあ、雪かきする時はしんどいし命がけだしで、好きになる要素なんて一つもないけれど」

「なら、好きなんでしょう? わたし、嬉しいわ。だって、あなたと同じものが好きなんだもの」

「へいへい」

雪乃は小さい頃からこうやって思わせぶりなことを言って僕を揶揄ってくる。最初のほうはよく勘違いさせられたし、変な噂もたったことあるけれど、もう慣れたものだ。

だけど耳元でささやくのだけはやめて欲しい。恥ずかしいとか如何とかよりもくすぐったいのだ。

昔一度、耳元で囁くのは止めてくれと言ったら、

「いやよ、あなたを揶揄う楽しみが減ってしまうもの。最近のあなたったら、わたしに慣れてきたのか昔よりも反応が悪いし……」

 と落ち込んでしまったので追求することが出来ず、そのまま許してしまったのだ。

 あの時は許してしまったのを今では軽く後悔している。ただ、それと同時に彼女が喜ぶ顔が見れるのもいいと思ってしまうのも事実だ。

 自分の心ながらまったく面倒なものである。

「わたし、あなたのそういう面倒なところも好きよ。人間って感じがして」

 声に出てたみたいだった。

 たまに僕は思っていることを口にしてしまうところがあるらしい。そのことは雪乃との会話で初めて気づいたことだ。

「僕は直したいと思ってるけどね」

「直しちゃ駄目よ。そういうところも含めて、あなたのいいところなんだから」

「だけど損ばかりしてるしなぁ」

 そうなのだ。

 言いたくない事とか、言っちゃ駄目だと言われている事ほど知らないうちに口にしてしまっていることがある。

 実際、そのせいで僕は小学校の頃に友達を全員失ったことがある。

 中学校に上がってその話は風化し、高校生になってからは細心の注意を払ってはいるが何時またこの悪癖が再発するかはわからない。

 今は雪乃しかいなかったから揶揄われるだけで済んでいるが、友達と一緒にいるときだったらたまったものではない。

 そんなことを思っていると、また隣で雪乃がクスクスと笑い始めた。

「どうせ悪癖だって思ってるんでしょう? 何時も言ってるけれど……」

「そういうところも好きだ……だろ。分かってるよ。だけど僕としては、これから生きていくうえで、直さなきゃ駄目なところだと思ってるんだ」

「そう。じゃあ、わたしの前でだけはそのままでいる事。いいわね?」

 これまた面倒なことを言われてしまった。

 だがまあ、昔からの付き合いなのだから、彼女からすればそういうところも含めて〝僕〟なのだろう。

 今まで見てきた相手が内面とはいえ変わってしまうのは確かに忍びない。僕だって、雪乃が急に僕のことを揶揄わなくなったら何かあったのでは? と勘繰ってしまう。

 そう思うと彼女の言っていることも別に変な気がしなくなる。

「あら、話し込んでいる内にもう山を降りきってしまったわ。うふふふ、あなたと話しているとあっという間についてしまうわね。もう少し一緒にいたかったけど、仕方ないわね。では、また明日ね」

 そう言って彼女は小さく手を振りながら、真っ白な雪道の方へ歩いて行った。すると軽く吹雪はじめ、一度視界が効かなくなる。

「うわ!」

 咄嗟に腕で顔を守ったが思わず声が出てしまう。

 すぐに吹雪は止み、コートについた雪を払ってから雪乃が歩いて行った道を確認すると、既に彼女はそこにいなかった。

 新しく降った雪で埋もれてしまったのだろう。彼女の足跡も確認できない。

 まあいいか。

 学校を出た時のように、また一人で家路につく。


 ガラリと木でできた戸を開け、玄関で体中についた雪を払う。

 さっきも払ったが、またしんしんと振り始めたおかげで新しくついてしまったのだ。水分の少ない渇いた雪だから、手で払えばすぐに落ちてくれる。

 足元に白い小さな島が出来上がり、綺麗になったのを確認する。

「ただいまー」

 返事は返ってこない。みんな出かけてしまっているようだった。

 ほっと一息ついてから長靴を脱ぎ、裏についた踏み固められた雪を靴同士をぶつけて落とす。

そして端に寄せてから、廊下に上がった。

誰もいないせいか、家の中全体の気温が低かった。

僕の両親はいつも帰ってくるのが遅い。何時も夜遅くに帰って来ては、何も言わず寝る、そして朝になれば働きに行くの繰り返しだ。

小さい頃はそれが嫌だったが、今はもうどうでもいいことだ。

 冷たい空気は床に集まっていて、足の裏がとても冷たい。

「あー寒」

 外にいた時は長靴を履いて、カイロも入れて防寒はばっちりしていたが、長靴を脱いだ際に外してしまったため特に指先がいたい。

 僕は速足で居間に駆け込み、隅っこにおいてある石油ストーブのダイヤルをひねる。そして点火スイッチを押し、炎が揺らめくまで待つ。

 待つこと数秒、炎が揺らめくのを確認してスイッチから手を放し、その前でしばしの暖を取る。

 薄暗い居間にオレンジ色の炎が淡く輝く。

 僕は雪も好きだが、炎も好きだ。

 どちらも人間の命を奪う可能性がある、という事には変わりないが、見てるだけ、感じるだけなら怖くはない。

 こちらには人の温かさがあるように感じられた。

 少し小腹が空いた。

 僕は机の上においてある篭の中からどら焼きを取り出し、封を切って、もそりと食べる。買ってからそれなりの時間が立っていたため、生地がしっとりとしていた。挟まれているあんこは上品に甘く、深みがあった。

「量産品もなかなかやるもんだね」

 流石に手作りの焼き立てには遠く及ばないが、悪くはない。

 ストーブの前にいるからか、それとも腹に物が入ったからか、下がっていた体温が上がっていくのを感じる。

 そうやって食べていると、真ん中のあたりに黄色い塊があった。

 袋を確認してみると、そこには『栗どら』と書かれていた。

 如何やらこの黄色い塊は栗らしい。

 袋を全く確認していなかったから、軽く不意打ちを喰らってしまった。

「まあ、いい不意打ちだけど」

 真ん中にある大きな栗を、一口でいくか、それとも複数回に分けていくかで悩んだが、ここは一口でいくことに決めた。

 こういうのは頬張った方が美味いのだ。

 僕の持論である。

 大口を開けてそれを食べると、硬いと柔らかいの中間ほどの歯ごたえと、あんこよりも甘くはないが自然の甘みを感じた。普通、こういうのは砕かれているのがほとんどだが、このどら焼きは丸のまま入っている。

 なかなかに祝のいい会社のようだ。

 最後の一口を口に入れると、そのタイミングでインターホンが鳴った。

「はーい」

 僕は返事をして、ゆっくりと立ち上がる。

 正直なところ、温かいストーブから離れたくなかったのだが、今この家には僕しかいないのだから仕方がない。

 少し名残惜しさを感じながら、玄関に向かう。

 ガラス越しに長い、射干玉色の黒髪が見えた。

 雪乃だ。

『早く開けてくださいな』

「はいはい」

 鍵を開け、ガラリと戸を開けると、目の前に真っ白な着物を着た彼女が立っていた。赤い番傘を差し、薄い桃色の口元は微笑みを浮かべている。

 番傘の上には軽く雪が積もっていた。軽く降っているようだ。

 着物の彼女は制服とはまた違った趣を感じ、やはり彼女には雪が似合うと思った。

 すると、雪乃は目を嬉しそうに細め、口元に手を当て、

「あら、うふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ」

「また口に出てたか……」

「ええ、それはもうしっかりと……。それより、何時までわたしを外に立たせる気なのかしら?」

「ああ、ごめんよ。さ、入って入って」

「ではお邪魔します」

 番傘をたたむ一連の動作がとても様になっていて、見慣れている僕でなければ誰もが目をくぎ付けにされてしまう事だろう。

 赤い花があしらわれた真っ黒な草履を彼女は玄関で脱ぎ、わざわざ正座して整え、隅の方に置いた。番傘も、下駄箱のそばに立てかける。

 僕は家の中に雪が入ってこないように手早く戸を閉める。

 彼女の足跡は、雪で覆い隠されて見えなくなっていた。


 僕は雪乃を居間まで案内しながら、今まで思っていたことを聞いてみることにした。

 軽く後ろを振り返って、

「なあ、雪乃ってどうしていつも着物なんだ?」

「どういうことかしら?」

 彼女はかわいらしく首を傾げた。

「いや、制服以外でお前の洋服姿見たことないなって」

 雪乃は制服の時以外はいつも着物を着ている。

 昔からいつも気になっていたが、出会った瞬間に和服を着ているのが当たり前のように思えてきて、そんな思いは吹き飛んでしまうのだ。

 ようやく、今日聞くことが出来た。

 どんな答えが返ってくるだろうと待っていると、彼女は困ったように眉をハの字に曲げ、

「どうしてなのかしら?」

「え?」

「考えてみたのだけれど、わたしにも分からないの。何時もこれを着ているから、もう癖になってしまっているのかも知れないわ」

「ふーん、癖ねぇ……」

 同じような服を買ったり、着たりするのと似たようなものなのだろうか。

 そう考えてみると、意外と普通な理由だったようだ。

「雪乃は和服美人だけど、洋服も似合うと思うけどな。ほら、明治とか、大正時代の令嬢みたいな感じがして」

「令嬢だなんて……それは流石に言い過ぎよ。でもありがとう。そういう言葉を口にしてもらえるとやっぱりうれしいわ。あなたが望むのなら、そうね……明日あたりにでも着てこようかしら」

 口元を着物で隠し、くすくすと楽しそうに笑う。

 洋服を着てくると言うが、どんなのを着てくるのだろうか。

 雪乃に似合いそうな服で、冬に着れるものとなるとかなり限られると思うのだが、男の僕には分らないところもあるのだろう。

 というか、別に明日じゃなくて、暖かくなってからでもいいと思う。 

 雪乃にそれを聞いてみると、

「善は急げと言うでしょう? それにわたし、もうあまり長くはいられないんだもの。あなたの願いぐらい叶えてあげたいわ」

 彼女の口元は微笑みを湛えているが、瞳は涙で潤み、視線を下に落とした。口角のほうを見ると、下に落ちようとしているそれを、必死に持ち上げているようだ。

 今まで彼女の悲しそうな表情は見たことが無かった。

僕の前では笑顔でいたい、という事なのだろう。

「長くいられないって……どういう事?」

「そのままの意味よ」

「どこかに引っ越すのか?」

「……そう捉えてもらって構わないわ」

「何処に?」

「それは……言えないの……」

 段々と声が震えてきている。

 その震えが余計、雪乃の様子に痛ましさを与えた。何時もどこか余裕そうな、僕のことを揶揄ってくる子供のころからの年上の幼馴染ではなく、ただ一人の、か弱い女の子なのだと思えた。

 今ここで抱きしめてでも止めないと、永遠に会えなくなってしまうような、そんな感じがした。

 すると雪乃は震えた声のまま、嬉しそうに笑い、

「ありがとう、そんなふうに思ってくれていたのね。でも駄目よ。わたしに触れるのは」

 また声に出てしまっていたらしい。

 雪乃は昔から、僕が彼女に触れることを許さない。もちろん、逆もまたしかりだ。

そんなことを昔から言われ続けた所為で、今では僕も触れることを躊躇うようになってしまった。だから、さっき僕が抱きしめないとと思ってしまったのは、僕自身もよく分からない事だった。

本当に咄嗟に思ってしまったことなのだ。

「私に触れると病気をうつしてしまう……。だから、今は駄目」

彼女はいつも病気だと言い張っているが、僕は彼女がそういった様子を見たことが無い。

 唯一関係しているだろうと思えるのは、雪乃は冬の寒い間しか出歩かず、それ以外の時は家に閉じこもっているらしい。

 曰く、寒い空気じゃないと肺が耐えきれない。らしいが、真相は明らかだ。当然、僕が彼女に触れてはいけない理由も知っている。

 そんなことを思っていると、雪乃が頬を珍しく赤くしながら、

「それで……ね? もう一つ、言いたいことがあって来たの……」

「言いたいこと?」

 何だろうか? 僕が少し考えていると、

「わたしね、あなたのことが好きなの……」

「それは……何時も聞いてるから、知ってる」

「違うの……今のはそういう揶揄い目的じゃなくて……。その、えっと……本当の意味での好きって事で……」

「……え」

 顔を真っ赤にしながら、しおらしく俯いてもじもじとしている雪乃が紡いだ言葉の意味を理解して、一瞬遅れて僕の顔が熱くなるのを感じる。

 恐らく、彼女と同じように僕の顔も真っ赤に染まっている事だろう。

 僕の反応を見て、雪乃は続ける。

「もしもあなたがわたしと同じ気持ちでいるのなら、明日の黄昏時、わたし達が初めて会った場所に来て欲しいの。そしてその時に、改めてわたしはあなたに問うわ。その問いにわたしを抱きしめながら答えてほしいの」

「あ、ああ、分かった」

 恥ずかしそうに言う彼女の言葉に、僕は強く頷く。

 此処は男として、しっかりと応えなければならないような気がした。

 すると、雪乃は嬉しそうに、そして恥ずかしそうにはにかんだ。

「じゃあどうする? せっかく来たんだからいっそのこと、晩飯食べて……」

 帰る? と言い切る直前、廊下にある曇りガラスから、車のテールライトの赤い光が見えた。思わずそっちを向いてしまう。

ぼんやりと見える車と形から、母さんの軽自動車だ。

「こんな時間に帰ってくるなんて珍しい……雪乃?」

 話の途中だったことを思い出し、彼女のほうに向き直したが、そこにはもう、誰もいなかった。

 ただ、小さな雪の結晶がひらりと宙を舞っていた。やがてそれはゆっくりと床に落ちて、融けてしまった。

 一滴の水滴だけが残った。


 がらがらと音を立てながら、母さんは戸を引いた。

「ただいま」

「お帰り、珍しいね」

「……」

 母さんは何も答えない。

 いつからだっただろう。父さんや母さんの態度が素っ気なくなり、家に帰ってこなくなったのは。僕の問いにも、彼女達は本当に必要最低限しか答えない。

 いつからだっただろう。彼女たちの僕を見る目が、忌み嫌うようなものを見る目になったのは。

 慣れたと思っていたのだが、それは普段関わることが無かったからだ。久しぶりにその姿を見て、平然としようとしていたが、心中はあまりいいものではなかった。

 向こうが僕のことを無視してくるのだから仕方がない。

 僕も、向こうのことを無視して雪乃のことを考えることにした。

 母さんが居間に行くよりも早く、僕は居間に戻ってストーブの前に陣取って考えをめぐらせる。

 雪乃は明日、初めて会った場所に来てくれないかと言っていた。それはつまり山の頂上、そこの少し開けたところにある小さな祠の前のことだろう。

 十年ほど前の記憶を思い出し、思い出に浸っていると、母さんがヒステリーに声を荒げた。

「もうやめてよ! まだあなたそんなこと言ってるの!?」

「……」

 僕は答えない。

 そしてまた、声に出てしまっていたらしい。そういえば関係が悪くなったあの時も、こうやって思っていたことを知らず知らずに口にしてしまった時だったか。

 母さんは頭をかきむしりながら、

「あなたの所為で私まで変な目で見られるのよ!? 如何して何もしないでいてくれないの!? あなたが雪女だなんて言うから……!」

 と何やら叫んでいるが、もうどうでもいい話だ。

 彼女の目に、恐怖と、憎悪が宿っているように感じられた。

 彼女は僕のことを思って叫んでいるのではない。

 自分の評価だけを思って叫んでいるのだ。

僕の悪癖の所為で近隣住民から変な目で見られること。それだけを恐怖し、そしてそれを引き起こした僕を憎悪していた。

そろそろうんざりしてきた僕は、ストーブを消し、自分の部屋に行くことにした。

「――! ――!」

 後ろではまだ母さんが叫んでいるが、戸を閉じれば聞こえなくなった。

 もう、どうでもいいことだ。

 この日、僕は炎が嫌いになった。


 黄昏時の山の頂上。そこにある、少し寂れた小さな祠に僕は足を運んでいた。

 父さんも母さんもいつものように会社に行っている。心の底から僕のことなんてどうでもいいらしい。あんなに取り乱していた母さんも、朝には元通りになっていた。

 太陽が傾いていて、西日が森の木々をかき分けて差し込んでくる。今は雪は降っていないが、風の流れや雲の厚さから夜になれば降るだろう。

 太陽が沈むのが遅くなっている気がする。

 上を見れば、木々のつぼみが膨らんでいた。

 今夜が最後の雪になるだろう。冬が過ぎ去ろうとしていた。

「おーい、雪乃。来たぞー!」

「あら、思ったより早かったわね」

「ああ、少し早く着きすぎたみたいだ」

 昨日の約束通り、真っ白なワンピースを着た雪乃がいつの間にか背後に立っていた。所々にあしらわれたフリルと、雪の結晶の意匠が彼女に似合っていた。

 ふふっと何時ものように微笑みを浮かべている。

 昨日の恥じらいがまるで嘘のようだ。もっとも、一日時間が空いているのだから落ち着けないこともない。

 実際、僕も思っている以上に落ち着いていた。

 僕の想いをしっかり伝えるために。だからこそ、緊張や興奮といった不確定要素を介在させたくない。

「じゃあ、聞かせてもらおうかしら」

 雪乃が射干玉色の髪をかきあげた。ほんのりと赤い、かわいらしい小さな耳が露わになる。平静を装ってはいるが、緊張を隠しきれていなかった。

 僕は冷たく乾いた唇を舐めて潤し、

「ああ、雪乃。僕も好きだ」

「しっかり考えて言ったの?」

「そうだ。夜中、布団の中でずっと考えていた。そのせいでほら、寝不足になって隈が出来てる」

 僕は目の下を指さした。

 なんて応えようかとずっと考えていたが、結局シンプルなものになってしまった。

 雪乃はそこを僕の傍にやって来てまじまじと見やり、

「告白する日にそれはなくない?」

「言うな。時間がなかったんだ」

 痛いところをつかれてしまった僕は顔が熱くなるのを感じて頬を掻いた。

 雪乃が可笑しそうにくすくすと笑う。

 太陽が沈み切り、厚い雲が空を遮った。だが、ぼんやりと月は見えていて、月光が僕らを照らす。

 しんしんと雪が降り始めた。

 場所も相まって、世界に僕と彼女の二人しかいないような、そんな魅惑的な錯覚に陥ってしまう。

 彼女も同じだと嬉しい、そう思った。

 そう思って雪乃の瞳を見ると、彼女の瞳は熱っぽく、僕の瞳を見つめていた。

 僕はそれが少し可笑しかった。思わずクックックと含み笑いをしてしまう。

 雪乃がムスッと頬を膨らませる。

「何が可笑しいのかしら?」

「い、いや……君が熱っぽい視線を僕に向けるのが可笑しくて可笑しくて……雪女なのにね」

「雪女がそんな視線を向けちゃ駄目なの?」

「悪いって訳じゃないけどさ」

 また含み笑いをしてしまう。

 そうやっていると、雪乃が僕の顔を見上げながら、悲しそうな顔をしていた。

 彼女は二度三度口を開閉した後、意を決して、

「ねぇ、本当にいいの? わたしと居るっていうことは、もう二度と人間の生活には戻れないのよ?」

「ああ、構うもんか。昨日、もうここに居場所はないんだって突きつけられたからね。……それに」

「それに?」

「雪乃がいなくなるのはもう、嫌なんだ。ずっとそばにいたい。そばにいて欲しい」

 僕は感情のままに、彼女の手を取った。

 雪乃は雪女だ。だから、彼女の手を握る僕の手が凍っていくのを感じる。彼女の顔が一気に赤くなった。そして自虐気味に、しかして嬉しそうに笑って言った。

人間あなたに恋した雪女わたしも馬鹿だけど、雪女わたしに恋した人間あなたも馬鹿ね」

 そう言って彼女は、僕の胸に空いている手をそっと当て、目を閉じながら、赤らめた顔を近づける。

 僕も目を閉じて、それに応じた。

 冷たい、氷のような唇が僕の唇と触れ合う。

 僕の意識は、春に溶ける雪のように、静かに溶けていった。

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