愛羅の学校④

「店長、お疲れさまでした」

「はーい。今日もありがとうね!」

「いえいえ、それでは失礼します」

 時刻は二二時過ぎ。退勤処理も終わり店長と別れの挨拶を交わした龍馬はバイト先である書店をあとにする。

 あのうるさい客、愛羅は漫画を奢られるとすぐに店を出ていった。『早く漫画を読みたい』といっていたが、これ以上は邪魔をしないようにと気を遣ってくれたのだろう。素直じゃない愛羅である。

「ふー、疲れた……」

 龍馬の自宅は書店から南側に位置している。バイトも終わっているため自宅方向に歩いていくのが普通だが――龍馬には一つ野暮用が残っていた。足の方向を自宅とは真逆の北に変えて歩みを進めていく。

「今日も寒いなぁ……」

 十一の中旬を迎える頃。街にはイルミネーションを彩る準備が始まっている。今日の冷え込みは一段と酷く、マフラーをしてもなお冷気が肌を刺してくる寒さだ。ポケットに手を入れ、暖を取りながら目的地に向かっていく。

 歩いて一◯分。その場所に到着する。

 龍馬の瞳が映し出しているのはブランコに滑り台、砂場に木製のベンチ。周りを白のフェンスが囲んだ小さな公園である。

 そこにポツンとした人影が一つ。予想していた通り木製のベンチに座っている金髪の女の子がいたのだ。

 後ろ姿しか見えていないが、その人物が誰であるのかは予想するまでもない。龍馬はこれのためにバイト終わりに毎回確認にきているのだ。

「はぁ……」

 白くなるため息を吐きながらフェンスを回り、入り口から公園内に入る龍馬はベンチに向かって距離を縮めていった。


「今日もいるよ……夜遊びギャルさんが」

「ん、別に遊んでたわけじゃないけどね。バイトお疲れさま、センパイ」

「お疲れじゃないって。そんなところにいたら風邪引くから。寒くないの?」

「ふつーに寒い。マフラーちょうだいセンパイ」

「はいはい」

 龍馬がくることを確信していたのだろう、愛羅は当たり前にマフラーをねだってくる。

 愛羅はバイト先で見た服装となにも変わってはいない。高校の制服のまま。この寒さであるにも関わらず膝よりも上のスカートを履きむちっとした小麦色の足を出している。

「はい、マフラーどうぞ」 

「んー、そこはセンパイからアーシに巻くとこだよ? 首を絞めないくらい優しくね」

「全く世話が焼けるんだから……」

「あれ、いうこと聞いてくれるんだ? 断られるかと思った」

「ああだこうだやり取りしてたらもっと愛羅の体が冷えるでしょ。風邪でも引かれたりしたら困るんだって」

「にしし……。そっかそっか。今のはオトコポイント高いかも」

「そんなのはどうでもいいですよっと……」

 愛羅の後ろに回り長いマフラーを小首に巻いていく龍馬だ。さすがにここで意地悪はしない。首が苦しくならないように緩く調節しながらも冷気が入り込まないように隙間を埋める。

「わっ、めっちゃあったかじゃんっ」

「さっきまで俺が巻いてたから……って匂い嗅ぐんじゃない!」

「いい匂いだから平気。クサくないクサくない」

「そ、そういう問題じゃないって。普通は抵抗とかあるもんじゃない? 男の俺がさっきまで巻いてたやつなんだから」

「アーシ、センパイのこといい感じで見てるからそんなのはないよ。ってか抵抗あるオトコからは借りたりしないって。気があるとか思われても困るしさ」

「なんか今のは愛羅の常とう句のように思えるけどなぁ。印象よく操作するための」

「なわけないじゃん。信じてもらんないかもだけど、これでもちゃんと相手は選んでるからね」

「つまり厄介なJKに目をつけられたってことなんだね……俺は」

「厄介とかいってるけど、センパイはめっちゃひねくれるかんね? あとはケチだし、カッコつけてるし」

「なんで三倍で返すんだよ……。せめて悪口は一つ」

「じゃ、フォローを入れるとしてアーシはそんなセンパイは嫌いじゃないけどね」

「あはは、それはどうも」

 バイト時には雑な対応をされ、今でいえば悪口を出す愛羅だが龍馬のことを気に入っていなければここまで構ってくることはないだろう。

「……で、愛羅。俺の上着も羽織る? まだ寒いだろうし」

「マジで今日はどしたん? 優しいことばっかすんじゃん」

「俺はいつも優しいって。今日だって漫画をご褒美にあげたんだから。で、上は着る?」

 身体が冷えている状態のままなにもしないなんてことはできない龍馬だ。見過ごしたのなら負い目を感じる。こればかりは誰だって一緒である。

「ううん、もうあったかいから平気。それにセンパイのその上着はクサそうだからやめとく」

「ならマフラー返せ。それも臭いだろうから」

「これ服じゃないからクサくない」

「屁理屈すぎる……」

 龍馬の善意を一蹴していく愛羅ではあるが、これは一つの気遣いである。マフラーを貸してもらっている分、これ以上龍馬を寒くさせないように……そんな想いを持っているわけである。

「あ、センパイ。これ面白かったよ。やっぱ人の評価は当てにしない方がいいね」

 バックの中をガサガサ漁り、中から取り出してきたのは龍馬がご褒美に購入した【大賢者お兄ちゃんと引きこもり妹】である。

「どんなところが面白かった?」

「お兄ちゃん妹をめっちゃ構ってたとこ」

「う、うん……? 愛羅にとって趣味の合う漫画ならよかったよ。買った側としてつまらないとか感想出されるよりは嬉しいからね」

「センパイも見る?」

「いや、やめとくよ」

 漫画を手に取れば最後まで読まなければ気が済まなくなる龍馬なのだ。今日は……いや、今日も公園でのんびりと過ごすためにここに足を運んだわけではない。

「これって二巻はいつ出るの?」

「二巻までなら出てたはずだけど」

「え? 売り場に二巻なかったよ?」

「なら別のお客さんが購入していったんだろうなぁ。店長に二巻を仕入れるようにいっとくよ」

「あんがと。そうしてくれると助かるよ」

「了解。それじゃ愛羅、そろそろ俺の本題に入らせてもらうけど――」

「嫌だ。絶対帰れっていうもん」

「未成年だからいってるんだよ。二三時以降は補導される時間でもあるんだから」

「センパイが隣にいれば大丈夫じゃん?」

「なんで俺が付き合わなきゃいけないんだか……」

 龍馬は一ヶ月前、偶然この現場を見つけたのだ。

 バイト終わりに親友の雪也から連絡が入り、『一緒に飯食い行こう』との連絡を受け待ち合わせ場所に向かっていた時に。

 その日もすでに二二時を超えていた。

 プライベートでの関係がなかったとしてもよく関わる常連客なのだ。夜遅くにこのような現場を見つけた以上、放置するわけにはいかない。それが今もなお続いているのである。

「だってウチ帰ってもつまんないし、パパもママもいないし」

「両親は忙しいんだったよね?」

「そ、社長だから。特にこの時期は忙しいらしくてさ、アーシに構えない代わりにお金だけ置いていく。罪悪感だか知らないけど別にいらないっての」

「でも、両親を安心させるためには早く帰らないと駄目でしょ」

「安心したいならあっちが帰ってくればいいじゃん……」

 空に浮かぶ星々を見ながら口を尖らせる愛羅。

 未成年のうちに両親が他界したという龍馬の複雑な家庭もそうだが、愛羅も愛羅で複雑な環境がある。

「……センパイだけだよ。アーシのパパが社長だって知ってもふつーに接してくれんの。中にはアーシに奢ってもらおうとかそんな下心でくるヤツいるしサイテーじゃない?」

「下心で近づいてくるやつは最低だなぁ。俺は愛羅と接する時に目の中お金のマークに変えてるけど」

「うっわー。最後の言葉なければアーシの好感度上がってたのに」

「あーあ、それは残念」

「ぜんっぜん感情こもってないじゃんっ。少しは残念がれし!」

 肘で軽く突き軽いボディータッチをしてくる愛羅だが冗談だとは理解しているようだ。八重歯を見せた笑顔を向けてくる。

「センパイって下心ないでしょ? アーシが悪いことしたらちゃんと注意してくれるし、頑張ったらなんだかんだでわがまま聞いてくれるし」

「それって当たり前のことじゃない?」

「アーシにとっては当たり前じゃないんだって。だからそんな貴重な人材のセンパイは絶対に逃さないかんねーってことを今のうちに言っとく」

「ストーカーだ」

「スト女ーつってね」

「よし、マフラー返せ。犯罪者に貸すものはない」

「嫌だねーっ」

 マフラーに向かって手を伸ばし引っ張ろうとする龍馬だがそれよりも先に危険を察したのだろう。両手でマフラーをギュッと握りしめた愛羅は完全防御態勢を取る。

「にしし、渡さなーい」

 翡翠の目を挑発的に細めると笑声を漏らした。

「……全く」

「でもさ、センパイはJKに構ってもらえて嬉しいっしょ? アーシってこれでもガッコで人気あるし、この前もコクられたくらいだし」

「見る目ないなぁ……告白してきた男子は。愛羅と付き合ったらストーカーされるのに」

「ま、まだ引きずってるし! 弁明させてもらうけどアーシは人が嫌がることしないかんね? できるだけ敵は作りたくないしさ」

「俺にはとことん嫌がることをしてるくせに……」

「センパイはもっと特別なとこにいるからその枠に入ってないってこと」

「ただただ迷惑なんだけど……」

「それはごめんって」

 話も盛り上がっていることで楽しげな雰囲気に包まれる。足をプラプラとさせてご機嫌そうな愛羅だ。

「んー! 少しだけスッキリしたかも。ゆっくりセンパイと話せてさ」

「じゃあそろそろ家に帰ろうか。ここら辺は治安がいいとはいえ、絶対に絡まれないわけじゃないんだから」

「用事済んだら帰る」

「ま、まだ済んでないの?」

 ポケットからスマホを取り出した龍馬は時間を確認する。液晶に映ってるのは『22:31』の数字。補導時間まで残り三◯分を切っている。

「このままだと絶対時間伸ばされるから早めに釘刺しとくけど、二三時になったら問答無用で帰るからね俺」

「そ、そんな急かさなくてもいうって!」

「じゃあ早く」

「せっかちなんだから……」

 この瞬間、今までの楽しげな空気を切り裂くような冷風が一吹きする。無言から静寂が訪れた。

「……」

「……」

 本題を話すに当たって勇気を出すところがあるのだろう、数秒の間を空けて大きく深呼吸をした愛羅はゆっくりと口を動かし始める。

「あ、あのさ……今日、センパイのバイト先でした話あったでしょ? あの話、真剣に考えてほしい……んだけど」

「ごめん、その話ってのは?」

「だ、だから……あれだって。ア、アーシのお兄ちゃんになってってヤツ……」

「はぁ……。もうその冗談はいいって。それで本題は?」

「こ、これが本題なんだって。こんなことで冗談とか言わない。アーシはマジで言ってるから」

 恥ずかしさを隠すように左手でマフラーを抑えて顔の下半分を完全に隠している愛羅。口元からの感情を読み取ることはできないが、口調と目が本気だと訴えていた。気づけば冷気よりも肌をひりつかせるほどの真剣な空気が流れていた。

「あ、愛羅……とりあえず冷静になろうか。そうじゃないと話が進まないから」

「冷静だって。今のアーシを見ればわかるでしょ」

 確かに声色はいつも通りで声を荒げたりもしていない。それでも内容がおかしなことには違いない。『お兄ちゃんになって』といきなり要求されてなにも聞かずに頷く人間など絶対にいないのだから。

「アーシはもう決めてるから。センパイをお兄ちゃんにするって」

「そんなわがままが通るわけないでょ……。演技をしてまでほしいわけじゃないんだから、俺は。愛羅のいう等価交換はできないよ」

「……マ、断られることくらい予想してたけどさ。センパイにメリットはないようなもんだし」

「じゃあ――」

だからちゃんとアーシなりに考えてきた。センパイに頷いてもらう方法を」

「頷かせるだって?」

「ん」

 一言だけ返事する愛羅は再び学生カバンを漁り始める。頷いてもらう方法がこの中に入っているのだろう。

「愛羅には悪いけど頷くことはないよ。常識的な話じゃないんだから」

 恋人代行のバイトをしている龍馬にとってはブーメラン発言だが、これは未成年の愛羅を思ってのこと。断りの言葉で早めに諦めさせようとしたその時、龍馬は信じられないものを目にすることになる。

「はい、これでどう?」

「は、はあっ!?」

 静かな夜街で大声を出してしまう龍馬。それはカバンから愛羅が取り出したものが全ての原因。

 愛羅の細い手先には茶封筒が握られ、開け口からは札の半分が顔を出されていたのだ。パッと見、一◯枚以上の数が出されている。

「迷惑費とか全部含めて一五万入れてる。これで一ヶ月の契約で結んでよ。この金額なら悪い条件じゃないでしょ?」

「な、な……」

 お金を使った交渉に言葉が出ない龍馬だ。愛羅がポンと出した金額は二ヶ月間働かなければ稼ぐことのできない金額。このお金さえあれば学費がかなり楽になる。カヤに負担が多少なりと取り除ける。それでも未成年の愛羅からお金を受け取るというのは非常識だ。天使と悪魔のささやきが左右から聞こえてくる。

「そんな固まってないで早く返事聞かせて」

「ちょ、ちょっと待って。第一に高校生が持ち歩く金額じゃないって一五万は……」

「話逸らすなし。これでも足りないならコンビニでもっとお金下ろしてくるけど。カードも持ってきてるから」

「足りないわけじゃないから! そういうことじゃないって!」

 一五万円という金額。これが足りないと思う者は金銭感覚が完全に狂っているだろう。このお金があれば一ヶ月は優に生活ができるのだから。

「じゃ、アーシのお兄ちゃんになってくれる?」

「冗談じゃないってのはわかった。わかったけどさ……、このお金があれば遊びにいくなり漫画買うなりゲーム買うなり好きなようにできるでしょ? お金を出してまでどうしてお兄ちゃんにこだわるのか教えてよ。そこが引っかかってる」

 愛羅は賢い。そんな大金を使ってまで仮のお兄ちゃんを作ろうとしている理由がきっとあるはずだ。

「それ言って断られたらなんにも意味ないじゃん……。センパイはただ頷けばいいんだって」

「内容が内容なんだからお金を出されただけじゃ呑めないよ。むしろお金を使ってまで頼もうとしてるのがおかしいんだから」

「…………」

 成人を迎えている龍馬は思考も大人であり目先のことだけでは動かない。大人の対応に強く口を閉じた愛羅は大金の入った封筒を太ももに下ろす。

 先ほどと同じような無言。重苦しい空気が包み込んだ。

「ほら、ゆっくりでいいから愛羅の言えそうなタイミングで教えて」

「……それで笑ったりしたら急所蹴る。マジで」

「その時は好きなようにしていいよ。この空気じゃどんな面白いことを言われたって笑えないから」

 嘘偽りない言葉。どんなにツボの浅い人間でも龍馬のような回答に至るだろう。ジョークも飛ばせないくらいに殺伐とした雰囲気だ。

 そのまま五分が過ぎた頃、心の準備ができたのか愛羅は固執している理由を話し始める。

「ア、アーシ……さ」

「うん」 

「アーシ、ずっと我慢してるんだって……。でも、もう限界……なんだし」

 これだけでは要領が掴めない。『なにが限界なの?』と龍馬が聞く寸前に俯きながら愛羅は言葉を紡ぐ。

「朝起きても一人。ガッコから帰っても一人。ご飯を買いにいくのも食べるのも全部一人……。パパママは忙しいからテストでいい点とっても教えらんない……。こんなの寂しいに決まってんじゃん……。なんでアーシだけこんな環境でさ、みんなズルいって……」

「愛羅……」

 いつも明るい愛羅はそこにはいない。顔に影が差し心の底を打ち明けたそんな様子。そこで初めて龍馬は理解する。

 なぜ愛羅が龍馬がいる日に限って来店するのか。褒めるように要求してくるのか。流して褒めてもなお嬉しくするのか。邪魔をするように構ってくるのか。軽口の言い合いを嬉しそうにするのか――。

 それは寂しい日々を過ごしているからこその行動だったのだと。悲しい気持ちを誤魔化すためにしていたこと、それにも限界がきたからこその願いなのだと。

「もうこんな年だし、寂しいとか誰にも言えっこない……。お金だけ渡されてもなんの意味もないんだって……」

 愛羅の両親は社長の立ち位置にいる。『仕事に影響ができないように』と家族に打ち明けることもできないのだろう。そして。家庭環境を伝えることで友達に同情されることも嫌だったのだろう。

 龍馬だってその気持ちは強いほどわかる。成人を迎える前に両親が他界したという家庭環境は親友の雪也にさえ話していないのだから。

 龍馬と愛羅の決定的な違いは『きょうだい』がいるかどうか。龍馬には姉というカヤがいる。喋り相手にも相談相手にも構ってもくれる身近な存在。

 だが、愛羅は一人っ子だ。

 喋り相手も構ってくれる相手もいない。独りぼっちな時が多く、心の鬱憤を晴らすことも難しい。愛羅はまだ高校二年生。両親の支えが必要な時期。そんな親に代用できるものを必死に見つけていた。その代わりとなるものとして見つけたのがお兄ちゃんという存在だったのだ。

「あのねぇ……もっと早く相談してよ。そんな悩みは」

 面白半分でお兄ちゃんを作りたかったわけではない。寂しさを埋めるためにお兄ちゃんを作りたかった愛羅なのだ。前者と後者では曲折するように捉え方は変わる。龍馬が出した結論はただ一つ。『見過ごすことができない』だった。

「……うん、気が変わった。その契約結ぶよ」

「っ!?」

 大きく頷いた龍馬は愛羅の手から茶封筒を奪い取った。言葉だけでなく自ら行動で示したのだ。

「よくよく考えたら一ヶ月一五万円は破格だしこれを受けないなんてどうかしてる」

 一五という札を数えることなく茶封筒に戻したのは龍馬なりに愛羅を信頼している証。

「同情すんなっての……。それが一番嫌なんだし……」

「いや、してないけど」

「同情した顔してんじゃん。ウソつくなし……」

「その言い分なら俺は常に同情した顔をしてるんだけど」

 龍馬は本当に同情なんてしていない。同情されたくない嫌さは知っているのだから。

 ただ、普通よりも優しい顔を浮かべているのは間違いないだろう。愛羅の心情を理解すれば当然のことだ。

「それに愛羅に同情してたらお金は受け取らないって。俺の利益になると思ったから受けただけ。そこは間違えないでよ」

 というものの、お金を受け取った理由は同情していないと示すためではない。契約を交わした状況を作ることにより愛羅に気を遣わせないため。

 この現状なのだ。契約金を受け取ったがどう扱うのかは決まっているようなもの。

「その言い方ウザいし……。じゃあなんで理由とか聞いたし……」

「だから気が変わったんだって」

「ウソばっかり」

「……まぁ、お金をもらった分の契約はちゃんと守るから安心してよ。契約を結ぼうとしたってことはなにをしたいかは考えてるんでしょ?」

「考えてる、けど……」

「了解。じゃあ次はその考えたことをするとして、本題も終わっただろうしそろそろ帰ろう? もうすぐ補導の時間になるから」

 再度、スマホの電波時計に目を通した龍馬はベンチから立ち上がり愛羅に促す。

「今日も送ってくれんの……?」

「夜遅いんだから一人で帰させるのは心配なんだって」

「あんがと……センパイ」

「その代わり今日のことは全部秘密にしてくれる? いろんな人にバレたらお互いに不都合があるだろうから」

「アーシから頼んだんだから秘密にするって。この関係を崩したくないしさ」

 どこか恥ずかしがるように金髪に手を伸ばす愛羅だ。それでも表情がいつも通りに戻っている。それだけで救われた気分だった。

「って、ほら早く帰るよ。早くベンチから立ち上がって」

「んー、センパイと手を繋がないと動くスイッチ入んないかも」

「え……?」

 お金を受け取った時点で契約の開始。今までにはなかった甘え方を見せてくる愛羅だ。

「わ、わかったよ……。ただ、愛羅と違って手を繋ぐとかあんまり慣れてないからそこは突っ込まないでよ?」

「アーシもおんなじだから一緒」

「はいはい、信じられない」

「あー、もしかして嫉妬してる? アーシの手をそんな独占したかったんだ?」

「俺に手を繋ぐように要求してきたのはどっちなんだか」

 呆れたように近づく龍馬は、差し出された愛羅の手を握ってベンチから立ち上がらせた。

 愛羅の手はしなやかで熱を帯びたように温かい。思いっきり力を加えようものなら折れそうなほどに細い指先でもあった。

「って、センパイ慣れてないとか言いつつ、ためらいなく握ってきやがるじゃん……」

「握ってきやがるってなんだよ。愛羅から頼んできたんだからこうなるって」

「それでもふつーに慣れてるとこだかんね。センパイ照れもしなかったし」

「迷惑客相手に照れたりする要素はない」

「ハーッ!? もういい絶対照れさせさせてやるし!」

「はいはい期待してます」

「ウッザ! 煽んなし!」

「はははっ、それはごめん」

「笑うなし! 謝るなしっ!」

 龍馬の煽りにますますヒートアップする愛羅だが、本気になっているわけではない。場を明るくするためのもの。

 相談時のような空気はもうない。バイト先であるような騒がしさがある。


 その帰り際である。

「……ね、お兄ちゃん。さっきのあれ、アーシの本心ぽいやつもセンパイを落とす作戦だったとか言ったら……怒る?」

「涙出そうな目をしてた時点でありえない」

「そ、そそそそんなのしてないし」

「はい嘘つき」

 毎度毎度バイト先で邪魔をしている愛羅だからだろうか、この下手に強がった姿を見てちょっかいを出したくなる龍馬だった。

「――ッ!? ちょ!!」

「ん?」

「ん? じゃないし! い、いきなり頭触ってくんなしっ!」

「こーんなにも立派な兄に対して嘘をつくからでしょ?」

 隣に並びながらポンポンと愛羅の頭に優しく手を置く龍馬は、安心させるように冗談を交えながら微笑んだ。

 そんな表情で一瞬目が合えば愛羅の勢いはすぐに収まる。

「べ、別にウソとかそんなんじゃないっての……バカ。バカお兄ちゃん」

「はいはい」

 悪口を連発で飛ばされるが、それ以上の抵抗はなく頭を撫でられながら顔を下に落とした姿を見れば誰だってわかるだろう。これが愛羅なりの照れ隠しだと。そしてもう一つ、愛羅が呼び名を変えていたのは気にしない龍馬である。

 今日という日を境に、二人の関係に変化が生じたのは間違いないだろう。

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