それなのに

@kumazu7777

第1話

 ――あいつのキスが好き。

 あいつの、キョトンとした顔が、ちゅるんとした薄い目が、私の目を捉えながら、ゆっくり、ゆっくりと近づく。互いの唇と唇が触れるか、触れないか。そんなギリギリのところで、あいつは止まる。吐息、煙草臭い。おまけに酒臭い。

 ……まただ。やめて、と思うのに拒めない。その目に弱いんだ。親鳥に餌をねだる小鳥のような目をしているくせに、私という私を全て貫いていく、その瞳に、弱いんだよ。

 ハグも、触れるだけのキスも。舌を絡ませ合う、大人なキスだってした。


 ――なのに私たちは、恋人じゃない。


 私は彼の、彼女じゃない。



「あぁ~‼ きもちわっる‼」

「あんたマジさあ、調子乗って飲みすぎなんだよ」

 甘ったるさが混じった、鬱陶しい声が、女子トイレに響き渡った。洗面台に体を寄せて、騒ぐ彼女たちに通路を作る。アルコールで顔を火照らせた彼女たちがバカ騒ぎをしながら、私の後ろを通り過ぎていくのを、鏡越しに見届ける。

 しかし、危なかった。気づけば、もう五分ほど鏡の前でぼうっとしていたみたいだ。早く、彼の元へ戻らなければ。

 手に持ったままになっていたリップを丁寧に、丁寧に、唇に塗りなおす。んまっ、と唇を擦り合わせる。

 ーーうん、可愛い。この前、新宿の百貨店で買ったリップ。薄いピンクベースに、オレンジが混じった色。そしてその上から、うるおいたっぷり、ラメたっぷりのグロスを重ねる。さっき考えていた私と彼の関係のことなんて、この綺麗な唇を見れば、大丈夫だって思える。

 前髪もおっけー、ファンデもよれてないし、チークも……うん、塗りすぎてない。

 くるっと一回転し、全体を確かめる。おかしいところはない、おっけー。

 仕上げに石鹸の匂いがする香水を一プッシュ。

 今はたぶん汗臭くないけど、これからきっと、いや絶対に、汗臭くなる。

 たぶん、いや、かなりの確率で、おそらく……ううん、今回こそ。


 私は彼に、抱かれる。



「おまたせ〜」

 卓で待っていた彼――松田裕貴に声を掛ける。

「お〜」

 彼は左手に持ったレシートから目を離さずに、欠伸混じりな声で応えた。

「んーじゃあ行くか、前のとこでいいっしょ?」

「うん」

 彼が財布を持ち、座席からのっそりと立ち上がる。私は慌てて自分が飲み残した、カシスオレンジを一気に飲み干した。沈殿していた濃いアルコールの味が食道を通過する。別に、これで酔いが回ったりなんてことは、ない。

 彼はそんな私になど目もくれず、レジに向かって行ってしまった。

 店員さんが彼から受け取ったレシートをスキャンし、本日の代金を告げる。料理はあまり頼まずに、二人ともメガジョッキのハイボールを二杯ずつと、カクテルを一杯ずつ。毎回、これくらい。

 店員さんの声に、すかさず彼は、「個別で」と答える。毎度のこと。

 財布からお札と小銭を出して、すでに置かれている彼の支払いの上に自分の分の代金を重ねる。会計を済ませ、「ごちそうさまでした」と店員さんに伝えると、店員さんは「ありがとうございました!」と溌剌とした声で応えてくれた。

 チェーン店の居酒屋の扉を開けて、彼はそそくさと、小さなビルから外に出る階段を降りていく。

 ーーたまにはさ、私がトイレから出てくる前に、かっこよく会計を済ませておいといてくれてもいいじゃん。

 かなえてくれそうもない期待を抱きながら、私は階段を下りた。


 むわっとした熱気に、身体を包み込まれる。夜になっても、日本の夏は暑い。一瞬にして、全身から汗が吹き出してきた。じゅわ、と服に染みこむのを感じる。

 外に出ると、先に階段を降りた彼が私を待っていた。

「いこ」

 そう言ってまた、彼はそそくさと、この飲み屋街を歩いていくのだ。


 ”前のとこ”に行くまで、彼と私は言葉を交わさない。というか、移動中は、基本話さない気がする。話すことが思い浮かばない、ということもあるし、単純に二人で歩く無言の時間が好きだからということもある。

 居酒屋の光る看板たちに照らされる、オレンジがかった金色の髪。ふわふわしていて柔らかそうだから、いつも触りたいと思うんだけど、触れないんだよね。

 ここはチェーン店の居酒屋が多いけど、あっちの通りにはお洒落なバーだったり、可愛いカフェがあったり、するんだよ。

 話はしないけど、彼の背中に、話しかけたりは、してる。

 寂れたビルの前に座って、騒ぐ大学生の集団。女の人にわざとぶつかって、怒鳴り散らす、よれたスーツ姿のおじさん。道路の真ん中で、ストローを指したストロングゼロのロング缶を持ってキメ顔をする女の子達。

 しかし、そんな人間も、景色も、気にせず。彼はフラフラと歩いていく。私はその一歩後ろをついていく。

 一歩足を運ぶごとに、じんわり、じんわりと私の胸に染みてくるものがある。それは、夏の暑さと、アルコール摂取によるものと――私と彼のこれまでとこれからの、せいだ。





 私と彼は、同じバイト先の同期。入ったタイミングも同じだった上に、シフトもよく被っていた。私が出勤すると大体彼がいたし、彼もそれが当たり前のようだった。

 大学は違うけど、年齢も同じで、学部も同じ。ノリも、似てる。趣味は……彼は清楚系アイドルグループが好きみたいだから、合わなかったけど。それ抜きにしても仲良くなるのは、ごくごく自然のことだった。

 めちゃくちゃかっこいい! とはならないけど、彼の顔を凝視しすぎたことはある。素敵……! とはならないけど、彼の言葉にじーんと心が揺れたことは、ある。

 だから”サシ飲み”に誘われたときは、単純に嬉しかった。アルバイトという場から飛び出し、二人で会うというだけで。何か、違うと思った。

 一回目は、主に私のことを。二回目は、主に松田裕貴のことを話した。そして二回目の帰り、あのチェーン店の居酒屋の扉を開けて階段を降りる前。「壁ドンっていいよね」なんて何の気なしに言ったら、(何の気なしにって言うけど、あの時の私には、何かしらはあったかも)彼は壁に私を追いやり、壁に手を着いた。そして、キス。一瞬の、キス。離れて、また近づいて、今度は唇と唇が触れるギリギリで止めて、私からするように仕向けてきた。

 三回目はまたあの居酒屋で飲んだ後。「どっか入ろうぜ」なんて、一の次は二と数えるように、息をするように言うもんだから、お酒の勢いもあって、そのままホテルへ。

 だけど、ホテルに入ったものの、最後まではしなかった。というより、始まってもいなかった。私と彼は脱いでもいない。ただベッドにダイブして、キスをいっぱいして、大人なキスもしたのに。それからハグをして寝ただけだった。

 なぜ、しなかったのかはわからない。

 告白されて付き合って、彼氏と彼女の関係になってから、するもんだと彼も思っているのかな、とも考えたけど、結局その後、彼から告白されることもなかった。

 だけどシフトが被れば、それなりに会話をしたし、関係性が崩れたと痛感することもなかった。

 付き合ってもいないのに、ハグをしてキスをしてホテルに行ったから、付き合えなかったのだろうか。

 ちょろい女だと思われてしまったから……?

 でも。

 付き合ってもいないのに、ハグをしてキスをした時点で、後悔なんて消すしかなかった。

 私の身体に魅力がなかったのか(脱いでもいないけど、抱き心地が悪かったのか)と結論付けて終わらそうとしたのに。彼は、また私を、サシ飲みに誘ってきた。

 友人に相談して、捻り出された答えは――「一夜限りの女だと見られているならば、これまでに抱かれているはずだから、体の相性を確かめ合ってから告白するタイプの人なのではないか?」という、答えにもなっていない予想だった。

 つまりは、今回の彼の誘いが、その答えになる。

 告白されるかな、なんて淡い期待もあったけど。そんな雰囲気にはならずに、今、二人が向かう先は、ホテルだから。

 最後まで進んでから、告白されることも、あるかもしれないけど、とりあえずは。

 ーー抱かれるって、思っておいた方が、いい。

 

 だから、私は。

 今日、彼に抱かれると、覚悟を決めてここにいる。





 黒のスキニージーンズに紫色のダボっとしたTシャツの彼と、膝より少し上の丈の白いフリルのワンピースの私は、ネオンサインが眩しい通りに到達する。

 居酒屋の光る看板よりも、こっちの看板たちの方が、眩しく感じる。

 彼はこの立ち並ぶホテルのどれにも反応を示さない。

 腕を組みあって、ゆらゆらと、ネオンに吸い込まれていく男と女。

 私は歩きながら、その男女がホテル内に入っていくのを、その二人の溶け合った影が見えなくなるまで見ていた。

 この通りを進んでいったちょうど真ん中あたりに、周りのホテルとは別格の南国リゾート風のホテルがある。その大きさはもちろんのこと、安っぽいネオンの光ではない、ほのかにゆらめくアルファベット。砂浜に照りつける太陽を感じさせるような、ウッドデッキとヤシの木の葉。ここに入ったら、たった一夜の夢じゃなくて、何泊もの旅行に来たみたいに、ときめくんだろうなって、前にここを通った時も思った。

 今日は、いや今日だからこそ、ここがいい、と彼に言おうとしたけれど、どんどん前進していく彼をどう引き留めてどう言葉を投げかけていいかわからなくて、結局言えなかった。

 名残惜しく振り返ると、先ほどネオンに吸い込まれていった男女と同じように、腕を組みあってゆらゆらと、二人の男女が南国へと吸い込まれていくのが見えた。

 ――私たちはどうだろう。

 私たちは、今、腕を組んでもいないし、手を繋いでもいない。

 彼はそそくさと、前へ前へ行っちゃって、私はそれにふらっとついていく。

 さっきの男女たちは、二人、同じ動きをしていた。なんなら、ゆらゆらと、一つの生き物のようだった。

 でも私たち二人は。ううん……二人、とも言えない。

 ただ別の個体が、歩いているだけ。彼に私がついていく、だけ。


 南国のホテルも、続くネオンの眩しさも通り過ぎ、古着屋の入った建物を曲がる。サイコロみたいなアパートが立ち並ぶ通り。そこにある、サイコロみたいなホテル。ホテル……というより、アパートの方が近い。

 ここが、彼の言っていた、”前のとこ”だ。

 ついに着いてしまった。

 ここに来ることは、今回のサシ飲みの誘いを受けてから、覚悟していたはずなのに。

 本当にいいのか。本当にこのまま……。

 覚悟とは裏腹に、迷いと、不安と、後悔と……緊張が一気に私の鼓動と呼応した。

 いや。迷いや不安や後悔は、これまでもたくさんあったけど、ドキドキしてしまうこんな純粋な気持ちは、考えないようにしていたのに。なんで、今になって……。

  一応用意しましたと言わんばかりの二台ほどしか止めることが出来ないであろう駐車場を抜けて、彼が自動ドアをくぐろうとするも、駐車場で立ち止まってしまった私に気づき、彼は止まった。

「どうした?」

 のっそりと彼が戻ってきた。

「ちょっと……酔っちゃったみたい」

「いつものことじゃねえか」

 嘘だよ、酔ってない。

 いつも、も、酔ってなかったよ。

 酔っぱらったふりをして、彼にくっついたりするのを楽しんできたけど、そんなのは、あまり意味がなかったことを、彼と二人で飲むのが四回目にもなれば、さすがに気づく。

「暑いから早く中入ろうぜ」

 だけど、酔っぱらっていた方が、何かと都合が良いのは、女も男も同じね。



 靴を脱ぐ。ついでに、脱ぎ捨てられていた彼の光沢のある黒い革のサンダルを整えてやる。

 前と同じ部屋。覚えてる。所々剥がれた、薄いグレーの壁に、ギラギラと輝く、プラスチック製のような大粒のシャンデリア。主張が激しい、四角いベッド。

 同じ。

 同じだけど、前よりも、身構える。

「あ~頭いてぇ」

 掠れた声でそう言うと、彼は腕を横に大きく広げながら、ベッドにダイブする。

 シャワーは、浴びないみたいだ。

「伊藤、そんなとこに突っ立って何してんの」

「あ、いや別に」

 彼は仰向けになり、また、私の名前を呼ぶ。

「こっち来ないの? 伊藤」

 一歩、一歩、彼が待つ方へ。

 変に意識をしすぎるな。まだ、始まってない。

 胸に何か重りを引っかけられたみたいだ。膝が外れそう。肘が痛い、手が、震えてる。

 ベッドのすぐ傍まで来た。

「……おいで」

 彼が、私の手首を握って引っ張った。

 握った、だけだったかもしれない。

 煙草の臭いが、全身に広がった。


 気づくと私の上に見えたものは、肌色と、あのうさん臭いシャンデリアだった。

 息も切れ切れに、さらに細まる彼の目が見える。

「なあ……このまま、しちゃう?」

 来た。

「……」

 喜んでいいのかもわからない、はち切れそうな胸の高鳴りを感じながらも、負けじと冷静になる私の脳みそ。

 まだ。まだだ。

 私は、そんなにちょろくない。

 即イエスは、ガバガバすぎる。

「伊藤。黙ってるってことは」

 ――いいんだよ。

 どうせ、私もあなたも、初めてじゃ、ないでしょう。

 初めてじゃないけど、二人では、初めて、か。

「いいの?」

 ついに、ようやく、やっと。

「うん」

 進む。


 私の上にまたがって、無我夢中でぶつかる彼を見て、彼が、こんな風に全力で動いている姿は、初めて見たと思った。

 普段ぶすっとしている彼が、汗を垂らしながら、息を荒くしながら、声を出しているなんて、こんな時しか見れないんだ。

 あの、たれ目のくせに普段は目つきがヤクザみたいな彼が、どうでもいいような顔をして仕事をこなしてた彼の、この妖艶な姿に、痺れてしまった。

 居酒屋のアルコールが全身を駆け巡って、身体全部が痺れて、痺れて痺れて、痺れて、たまらなくなった時。

「あ、かりっ!」

 今まで聞いたこともないくらいの、彼の全てをぶつけた声が、室内に響いた。





 ちゅん、ちゅんちゅん。

 すずめの鳴き声に目を覚ます。

 ――朝だ。

 股関節に鈍い痛みを感じながら、音を立てないようにベッドから起きあがる。

 隣で眠る、彼の鳴き声は、「ぐおぉ、きゅぴい……。」爆睡。可愛い。

 ローテーブルの上に置かれた、プラスチックみたいなガラスの灰皿は、文字通り灰で染まっている。

 洗面所へ向かい、アメニティを物色し、メイクなどの身支度を素早く済ませ、まだ鳴いていた彼の肩を揺する。

「…ゆ、松田。朝。起きて」

「……んぁ? あ~? ……あ、伊藤か。」

「おはよう」

 目をしばしばさせて、のそのそと体を起こす彼。

 顔はやっぱりすずめみたいだ。

「あ~~頭いてぇ」

「いつものことじゃん」

「うっせえ」

 ふふ、と緩まる口元を抑えようとした瞬間、寝起きの気怠さには耐えがたい、軽快な、それでいて無機質な音楽が流れた。

 ……彼のスマホからだ。

 彼は枕元に置いていたスマホをサッと手に取り、画面を確認した。

 こんなに朝早くから、電話。

 背筋に、伝う、冷たさ。

「……悪い。ちょっと出てくるわ」

「え」

 一瞬にして、彼がドアの前に移動する。

「ちょっと、松「ごめんって」

「ごめんって、あかり」

 スマホに向けて必死にそう言う彼は、ハイブランドのサンダルを踏みつぶし、部屋から出て行った。



 あかり。

 あかりって、言った。

 誰だろう、なんて、考える必要はない。

 考えるの、やめよう。


 ーーだけど。

 昨日のは、ただの、言い間違いじゃなかったんだ。



 ぼうっとベッドの上に座り、剥がれかけたグレーを眺めていると、彼がドアを開けて部屋に戻ってきた。額には、汗が滲んでいる。

「俺、シャワー浴びてから帰るから、お前、先に帰んな」

「え? なんで」

 ……目が合わない。

「いいから。帰った後連絡するから。」

 持ってきた小ぶりの鞄を強引に持たされる。

 ……目が、合わない。

「あ、待って。その前に。会計の半分、出してって」

 そう言って彼は、私の頭を撫でた。

 先程押しつけられた鞄から、自分の財布を取り出し、お札を数枚、彼の手のひらに置く。

 お釣り、なんて考える脳みそは、もうなかった。

 とりあえず、何もなかったかのように、彼がよくやるように、自然に、この瞬間だけは、接しよう。挨拶だけすればいい。

「…じゃあ、またね」

 じゃあね、と言いかけて、またね、に変えた。またね、だと信じたい。

「おう」

 彼は自身の手のひらに乗ったお札に向けて返事をした。

 もう、ドアを開けて、外に出るだけ。

 陽の光を浴びれば、こんな、こんなぐちゃぐちゃな気持ちが、少しは晴れるだろう。

 しかし、私は何を思ったのか、言ってはいけないようで、言わなきゃいけないような言葉を、私は彼に、強引に押しつけてしまった。

「…私の名前は。私の名前は、朱肉の朱に、里って書くの。読み方は、しゅり。しゅりだよ」

 あかりじゃ、ない。

「は?」

 彼の間の抜けた一声が、閉まるドア越しに聞こえた。

 早く、ここから飛び出していきたかった。

 でも、飛び出していきたくもなかった。

 相反する二つの感情が乱雑に私の心を荒らしているのを感じながら、私は走って、太陽の元に出た。





 チェックアウトの時間を過ぎても、それから数時間経っても、彼から連絡が来ることはなかった。

 このまま、彼からの返事を待っても、おそらく彼は連絡をしてこない気がする。

 今後のバイトのシフトが被ったら、どうなるんだろう。

 どうなるか、今までの彼を顧みるに、どうにもならないか。

 このまま、何事もなく過ぎ去らせてしまえば良いことはわかっていたけど、ダメだった。

 彼とのつながりを信じて、せめてもの期待を指先に込めて。

『今日はありがとう! 楽しかったよ!』

 そのメッセージへの返信が来たのは、さらに数時間後のことだった。

 どこか遠くを、その薄い目で見ながら、煙草を咥えながら指を僅かに動かしたんだろう。返信とも言いたくない、彼の返信。

『おう』

 即既読をして即返信をするのは、気持ち悪いかな。

 一時間くらい待って、先程よりも弱まった指先の力で、打つ。

『またサシ飲みしようね!』




 三日後、あの日から初めて、彼とバイトのシフトが被った。予想通り、彼は何もなかったかのように、私に話しかけてきた。

 バイトをこなし、家に帰って、誰もいない部屋に「ただいま」をして。

 そこから、ベッドに座って、うさん臭いシャンデリア……じゃなくて、ただの、丸い蛍光灯を見る。

 ーー何も、なかった。

 私が、“あかり”じゃなくて“しゅり”だから?

 気まずくされる方が、マシだった。だけど彼は、何もなかったかのように。

 私が、いとう、しゅり、だから?

 私の脳みそは、彼が「あかり」と呼んでから、“あかり”で食されている。

 バイト中、彼に何を話しかけられたのかも、覚えていない。彼と、私と、“あかり”のことでいっぱいで、その日までをどんな風に過ごしたのかも、覚えていなかった。


 あかり、あかり。“あかり”は、彼の。


 どこかで、分かっていた、私と彼の関係。

 見ないように、目を逸らしてきたのは、私だったのかもしれない。

 彼の中での、私の存在は。


 “あかり”の……

 “あかり”の……



 そして、私は荒らされる。

 餌をねだる、小鳥によって。



『明後日、またシフト被ってるよな? その後、飲み行かね?笑』





「……で、告白されなかったと?」

 店内の照明に照らされて、百合子の真っ白い肌が余計に白く見える。

「うん」

「しかも、“あかり”って言われて、挙げ句の果てにはその人から電話、ねえ……」

 百合子は、注文したレモネードソーダをストローで、からん、と揺らす。しゅわ、と泡が舞う。

 黄色い小花柄のノースリーブがよく似合う、目の前に座る彼女は、臼井百合子という。私の尊敬している友人だ。百合子には、彼のことを逐一報告し、相談に乗ってもらっていた。

 松田が、最後まで事を進めてから、告白するタイプではないか、と予想してくれたのも、彼女である。

 彼と初めて繋がったあの日、“あかり”と言われたあの日、“あかり”から、彼に電話がかかってきたあの日。

 告白がなかったこと、進んだようで何も進んではいなかったこと。

 そのくせに、また彼はサシ飲みに誘ってきたこと。

 それらを、百合子に共有した。


 夏の暑さに負けず、蝉がけたたましく鳴いて、命を謳歌している。

 それに比べて私は、冷房が効いたカフェで、どうにもならなそうな相談をしている。

 白、黄色、そして窓から見える、青い、青い空。夏がよく似合う百合子と、私は……全身真っ黒コーデに、真っ赤なリップ。

 長い睫毛を離して、澄んだ瞳で百合子は言った。

「……朱里」

「ん?」

 百合子が口を開く時は、いつだって、私を濁った世界から救い出してくれる。そう信じているのが、私の甘さではある。

 でも、だからこそ、どんなにぐちゃぐちゃでも、百合子と会話をする時だけは、私は凛としていられる。

 百合子は太陽みたいで、私は、百合子に会う時だけは、光を見ていられるんだ。

「……私ならやめる」

「うん。前も言ってたね」

 長い上下の睫毛をくっつけて、ゆっくりと離して、百合子は話す。

「……彼は、やめといた方がいい。やめた方がいいとは思うけど、朱里の想いを知っているからこそ、強くは言えない。やめろ、とは言えない」

「……うん」

 嘘、偽りという言葉が、絶対に似合わない百合子の優しさが、心に染み渡る。

「でもね」

 一呼吸おいて、百合子は続ける。

「また彼に会う――明日の夜までに、しっかり考えな」

「わかった」

「彼のことも……その”あかり”って女のこともね」

 嬌笑し、レモネードソーダを、一口。百合子の視線は、私ではなく、テーブルに置かれた、私が使ったおしぼりあたりに向けられていた。

 彼もよく伏せ目がちになって、ななめ下を見ていたな。

 百合子も、彼も、どこか醸し出す雰囲気が似ていると、百合子に言ったら怒られそうなことを、思った。





 真っ赤なリップを取りかけて、やめて、彼に会う時は毎回塗っていたオレンジがかったピンクのリップを、今日も塗ってきた。グロスも、同様に。

 潤っていた唇が、もう乾いている。

 相変わらずの、あの居酒屋に来ている。冷房を効かせているはずが、酔っぱらった人間たちの熱で、全然涼しくなかった居酒屋。――だけど今日は、ひどく涼しい。

 一人残された席で、私は決意を固めていた。


 彼が、トイレから帰ってきたら、聞こう。

 彼の気持ち。私のことを、どう思っているのか。

 百合子の言った通り、百合子と解散した後、彼のことを、ひたすら考えた。

 ”あかり”のことも。

 両目を腫らしながら、熟考して、辿り着いた。

 私が一番知りたいのは、彼の、私への気持ちだ。

 ”あかり”も、気がかりだけれど。

 ”あかり”じゃなくて、私を。

 伊藤朱里のことを、聞こう。


 よし、と自らを奮起させたのも束の間。ピコン、と鳴いた、彼のスマホ。

 え? あいつ、携帯置いていってる……。

 彼が飲んでいた、レモンサワーのグラスの横に、光る画面。



『ゆうき~~何してるの?』

 ピコン。

『さっき会ったばっかなのにもう会いたいよぉ~~』

 ピコン。

『ゆうきも私に会いたい?』

 ピコン、ピコンと鳴り止まない四角いスマホ。

 画面上には、

 あかり の文字に、あのぶっきらぼうの彼が、人生で絶対使うことはないだろうと思っていた――大きな、赤いハートのマークが浮かんでいた。


「ただいま~トイレで吐きそうになってたわ」

「ああ、そう……」

 こういう時ほど、賢く機能する、私の脳みそに、嫌気がさす。

「ねえ松田」

 ドサッと座って、レシートを眺め始めたこいつに、言う。

「あかりって「ん?」

 消されそうになる私の声。それならもう一回。

「あかりって、誰?」

 聞くと決めていた質問とは違う質問。それでも、初めて核心を突いた。

「あかり? 誰だそれ」

 目は、合わなかった。

「それより今日も行くっしょ?」



 『彼は、やめといた方がいい』

 百合子の透き通った声が聞こえた。



「うん」

 私はその太陽から、目を背けた。





 ネオンの燦爛さと、アルコールと、真夏の夜の暑さに目が眩む。

 私の一歩前を、あいも変わらずに、そそくさと進んでいく彼。やっぱり柔らかそうな髪をふわふわさせて。

 目の端に、ヤシの木の緑が見える。

 ――あかりさんとは、ここに行くの?

 しわしわで、ダボダボの背中に、問いかける。


『私ならやめる』

『彼は、やめといた方がいい』

 私なんかに真っすぐに向き合ってくれた――目を背けきれていなかった――優美な百合子。


『……あかり』

 電話に出て、への字に曲げていた口の端っこを、上げて、焦りつつも、甘い、甘い声で名前を呼んだ彼。


 浮かんでは消え、浮かんでは消える、二人の、声。

 あかりさんの声は、可愛いのかな。

 何か詰まったような、低い声の私とは違って。



 目の端に、何度か映る、重なり合った影達。私たちは、どう足掻いても、重なり合わない。

 ふらふら、ふらふらと、私と彼は、あの四角いアパートみたいなホテルに向かっていく。

 どこかでわかっていた、彼の、私への気持ち。


 何もなかったし、この先もどうにかなる、なんてことはない。

 ただ、あかりさんの影を重ねながら、彼は私と接するだろう。


 どんなに酔っぱらっても、階段は上手に降りれていたはずだった。

 私はいつから、下に、落ちていったんだろう。



 ハグも、キスも、深いキスも。それ以上のこともした。

 なのに、私は彼の彼女じゃない。

 


 それなのに、私は、私と彼の、この剥がれそうなグレーな関係に、酔いしれている。

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