第2話
「怖くは、ないのですか」
木村は小さく、川面に向かって聴く。
「なあに、そなたほどではない」
佐々木はそう答えると、ピュッと風を切って竿をあげ「うむ、いかんな」とつぶやいて針先を見ると「さすがにいくつも獲物はかからぬかよ」と自嘲気味に笑って木村を見た。
「獲物は、私、なのですか」
木村は不機嫌そうに呟き、葦の隙間を走る小さな生き物に目を遣った。
「気になるのか、茅鼠が」
「ええ、私の郷にはいないもの、いえ、ご承知の事でしたね」
佐々木はそんな木村の様子を小さく鼻で笑って一瞥すると、小さな針先に練り餌を擦り付ける。一つ一つの動作は緩慢だが、その所作の一つ一つが堂に入って、まったくの隙さえ見せない。
木村は、ゴクリと唾を呑み込んだ。
「私は、恐れているのでしょうか」
「恐れてはいないのか」
木村の問いにそっけなくそう問い返すと、佐々木は再び釣竿を川に投げる。
「そう、ですね、私は恐れているのだと思います」
そう答えて、木村は朝露に冷え始めたその両腕をさすった。
やむにやまれぬ事情で、木村はこの男を追って雪深い郷から江戸にまでひとりやってきた。そして、目の前の男が、佐々木孝右衛門というこの男が、いかに恐ろしい人間であるかは、郷里のうわさで嫌というほど知っていた。
「あなたのお噂は、聞いておりますゆえ」
ただ座っているだけのその姿、竿さばき。
噂に偽りはない、木村はそう確信していた。
「そうか、それは恥ずかしいことだな」
「恥ずかしい、のですか」
「ああ、若いというのはそれだけで恥ずかしいものだからな」
佐々木の言葉に、若侍である木村は再び不機嫌そうな表情を浮かべる。
「まあ、人というものはいくつになっても恥ずかしいものだ。若いころはそれが恥ずかしいと気づかぬだけ」
言いながら佐々木は「コンコン」と乾いた咳をした。
「そなただけではない、みな恥ずかしいものだ」
子供のように不機嫌になった木村の心中を正確に察したのか、佐々木はそういうとまたしても器用に片手で煙管に火をつける。
ふわりと紫の煙が上り、甘いにおいが漂った。
――この匂い、知っている
漂う香に顔をしかめ、木村は再び茅鼠に目を移す。
一心不乱に葦の根方に縋り付く小さな生き物。
そう、あの時の俺もそうだった。
物言わぬ亡骸となった父の身体に縋り付き、ただ泣き叫ぶだけの子供。
そして思い出した、この匂いは縋り付いた父の亡骸から匂っていたもの。生臭い血の匂いの中で、くっきりとその甘い匂いだけは覚えている。そしてそれは。
隣の男が、佐々木孝右衛門が仇の首であることを決定づける匂いだ。
だからこそ伝えなくてはならないと思った。自分が生きてきたあかしと、そして、この男がもたらしたことの結果を、それは、礼儀のように思われた。
そう決めて、木村はゆっくりと口を開く。
「父は、最低の男でした」
木村の言葉に、佐々木は答えない。
ただ黙って煙管をくゆらせ川面の竿先を眺めるのみ。
「殺されて当然の男、あれは天罰だ、正義の裁きだ。そんな声の中で私は育ったのです」
木村はそういうと、過去に思いをはせた。
まだ十歳になったばかりのころ、木村の本宅に押し入った佐々木孝右衛門は、左右平の父玄侑を殺害し、その妻、そう、左右平の母ときをかどわかすと血刀を手に藩を出奔した。
そののち、残された左右平は遠縁の家で肩身の狭い暮らしを始める。
そしてそこで、いやというほど父の悪評を聞かされた。
さらに、そのおまけとばかりに、いやというほど仇である佐々木孝右衛門の名声をも聞かされて育ったのだ。
しかし、それは真実。確かに父は悪評の似合う、そんな男であったらしい。
郷里の噂では、父は次々に身分の卑しい女に手を付け、飽きたらごみ屑のように捨てる好色漢であったらしい。
しかも、藩侯ですらおいそれと口を出せない血筋をかさに悪行の限りを尽くした卑劣漢でもあったらしい。
それゆえ、どこにどれほど兄弟がいるかもしれないから気をつけろ、そんな言葉とともに耳の腐り落ちそうな事どもをいやというほど聞かされて左右平は育った。贅を尽くした暮らしを送っていた幼き日々のその責を負わされるように。父玄侑への仇討のような言葉を一身に受けて、育った。
事実、そんな父の姿のその端緒を左右平は覚えていた。
家には行儀見習いの下級武士の娘がいつも数人住んでいたのだ。そして、そんな女たちが、父や母とともに寝間に入っていく姿を何度か見かけたことがあった。
下級武士の娘でも分け隔てなく接する優しい両親。そう無邪気に思っていた左右平も父の悪評を聞きながら大人へと成長していく中で、その意味を知り、井戸の陰で何度も嘔吐した。何度も嘔吐し、涙をこぼし、そして、心に決めた。
自分は立派な武士になろうと。
佐々木孝右衛門のような、ひとかどの武士に。
「清廉潔白、質実剛健。まさに武士のかがみ」
「ん、何か言ったか」
「いいえ、こちらのことです」
そして、その男が今は隣に座っている。
憧れ追い求めた、憎き仇の首が、そこにある。
剣を持てば鬼、離せば仏。命をなげうって挑む者には容赦なく自分のすべてをぶつけてその覚悟のほどに応じて生殺を操り、傷ついた未熟な敵は、敵であろうと手当てをし、そしてその業を惜しげもなく教え伝える。
人を救うに理を問わず、抗うに敵を問わず。
そしてついに、父のひどい仕打ちに耐えかねた母が墓地で首を吊ろうとしていたところを助けた。藩侯ですら逆らい難いその巨悪に、ひるむことなく白刃ひとつで挑みかかり、見事その本懐を遂げた三国一の武士。
その所業に何人の無辜の民が喝さいを叫び、そして感謝したのか。
左右平に向けられた人々の視線を思い出すだけで、その大きさなら身に染みてわかる。
「あなたは今、郷里で神となっておりますよ」
事実、出奔し取り潰しとなった佐々木の本宅跡にはちいさな祠が立っている。
はじめは、木村玄侑の悪行に悩まされていたどこぞの商人が建てたものだったらしい、しかし時とともに、それはまさに神ともいえる扱いに変わっていた。剣を志す者、文で身を立てようとするもの、立身出世を望むもの。そして、男子を授かった母親などが訪れ、どうか佐々木様のごとき立派な男になれますようにと手を合わせる。
人によっては、それを、佐々木神社というものもいる。
「どうですか、神になった気分は」
「恥ずかしいことだ、死んでもおらぬのというのに。だが、なるほどそれでというわけか……」
佐々木は困惑の表情を浮かべ、深く長い息をたばこの煙とともに吐き出すと、ひざを鳴らしてその灰を打ち捨てた。
「ええ、藩としては、重役を殺した咎人が、それこそ神になったので始末が悪い」
「さもありなん」
時が経つにつれ、藩内で高まる佐々木の評判。
しかし、武士の本懐は上意下達の忠義であるとする藩の思惑は、藩の重役を切り捨て妻を奪って逃げた男のその評判を捨てておくわけにもいかず、とはいえ藩の境を超えて佐々木を追うわけにもいかず。
結果、亡き木村玄侑の忘れ形見である木村左右平に白羽の矢が立ったというわけだ。
木村もまた、藩から押し付けられるように届いた仇討ち御免状に、そのすべてを悟った。抗うつもりもなかった。また、佐々木孝右衛門に会ってみたくもあった。
剣の腕も十人並みの木村に、仇を討つ気などみじんもない。
ただ、会いたかった。憧れの男に。
「あなたが江戸にいる、その行方はすぐにもつかめました」
「隠してはおらんからな」
「ええ、あからさまに残る足跡は、たどりやすかったですよ」
そう、佐々木の足取りは目の前に転がるようにくっきりと残っていた。
普通、一生をかけても巡り合えない仇の首に、たった四半月ほどでたどり着くことができたのは、このわざと残していたのではないかと思えるほどに、くっきりと残る佐々木の足取りのおかげだ。いや。そうではない。
きっと。
「わざと、なんですね」
「さてな」
そういうと佐々木は懐から小さなおはぎのようなものを出して川に放り投げた。
それは、そのあたりに細かな粉をまき散らしながら川へぼちゃりと落ちる。
「いまのは」
「撒餌だ、糠を炒ったものに少々魚粉を混ぜてある。おかげで」
そういうと佐々木は数間先の葦の根方を見つめた。
「魚も集まるが、鼠もまた、な」
見れば、先ほどの茅鼠がきょとんとこちらを眺めている。そして、そんな視線に気づいたからなのか、またしても目の前の葦にとりつくと細かにかじり始めた。
一心不乱にかじっている、しかし、先ほどとまったく変わっていないように見える。
なんと小さく不憫な生き物か。
木村はいったんはそう思い、しかし、すぐに思い直して茅鼠を見つめる。
茅鼠の小さな身体に比べて、葦の大きさは、まるで大木のようなものに違いない。そう思えたからだ。
ただ一心不乱に葦をかじり、それをどうするつもりなのかは知らないまでも、きっとこれを切り倒そうと挑んでいるに違いない。その身体から見れば巨木のごときそれを、小さな身体一つで倒そうとあがいているのだ。
「気になるか、茅鼠が」
再び、佐々木は先ほどと同じことを聞いた。
「ええ、健気なものであると、見上げたものであると、そう思います」
木村の素直な口ぶりに、佐々木は小さく「フッ」笑うと意外なことを口にした。
「木村玄侑の御子息殿、よければわしの下で剣を学ばぬか」
「なんですって」
木村はとっさに立ち上がる。
その後ろで、茅鼠がさっと姿を消す音がした。
「わしを殺すためのその剣、わしが鍛えてやろうというのだ」
佐々木の奇妙な誘いに、木村はただ立ちすくむばかりであった。
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