これは禁忌の物語

石谷 弘

これは禁忌の物語 ~第一章より抜粋~

 全身の傷が沁みないか怖いのだろう。木枠の縁を両手でしっかり掴んだまま、つま先から恐る恐るケーの身体が湯の中に沈んでいく。

 昨夜、ボロボロの濡れ鼠のような姿で戸を叩いたこの少女は、家の主であるイエン師の声に導かれて来たのだという。

 だが、その声は留守を預かるトリンの兄にしばらく世話をしてやってくれと言うと、依り代の石ころだけ残して消えてしまった。


 不安と心細さと好奇心の綯い交ぜになったよく動く瞳が急に焦点を失う。

 まただ。

 非番だったとはいえ、窮屈な桶風呂で向き合って座るこの少女がトリン達警備の目を掻い潜って国境の川を渡れたことも不可解だったが、時折見せるこの瞳が更に不安を呼び起こした。

 初めは疲れて休んでいるのかとも思ったが、視線の先に見えないはずの何かがあることに気が付くまでそう時間はかからなかった。

 それは例えば、調合部屋として使っている離れであったり、闇夜の薬のための地下室だったり、数秒後に窓から見える弓を背負った兵士の姿だったりした。

 見えてる? もしそうなら殺すべきか?

 間諜は排除する。子どもであろうと、後の被害を考えれば当然のこと。けれど、それをイエン師が誘導するとは考えにくい。

 そもそも、トリン達魔法使いとは異なり、対岸の国では魔法の存在そのものを否定している。その忌避の仕方は激しく、トリン達の先祖を排除して国を分割した程なのだ。

 そんな国で未知の魔法が生み出されるとは考えにくいのだけど。

「……の。あの」

「うん?」

 つい考えに耽ってしまった。疑いを悟られないよう、優しい笑顔を作って見せる。

「こっちの人はみんな使えるんですか?」

「魔法のこと?」

 こくりとケーが頷く。

「使うだけなら使えるけど、役に立つくらいなのは半分くらいかな。気になる?」

 再びケーが頷く。

「国では見なかったから。それに、みんな使っている時の顔が楽しそうで」

「やってみる?」

「え?」

 気を許した訳ではない。が、別に秘密でもないから、知られても問題はないだろう。

「この辺ではね、親から子に手ほどきをする時の簡単な歌があるの」

 そう言って、トリンは首まで浸かる。少しだけ湯があふれた。

 目を閉じ感じる右手の脈

 向き合い感じる左手の脈

 己の命は己を巡る

 足の先から瞼の裏まで

 巡る命は身を離れ

 水と成りて身をさする

 風と成りて葉を揺らす

 飲み込めなかったのか、きょとんとした顔のケーに今度は言葉で説明する。

「温かいお風呂で力を抜いて、指先に神経を集中させると自分の脈が分かるでしょう? それを指先、反対の手の指先、腕、お腹、足と色んな場所で脈を感じるの」

「脈」と不思議そうにケーが繰り返す。

「そう。ここまでは魔法とは無関係。で、それができたら、今度は脈の感覚を全身で滑らかに動かしてみる。例えば、右手から腕、肩と来て左手の指先まで」

 目を閉じて湯を抱くように両手を前に出したケーが息を止める。合わせるようにトリンも息を止めた。

 ふわり。動きの無い湯の中で、一瞬、不自然な揺らぎがトリンの膝をさすった。

「っぱは」

 息が続かなくなり、緊張が解ける。

 一度聞いただけでここまでできるなんて。私の時は二十日以上かかったのに。

 初めから使えたのかもとは思いつつも、負けず嫌いの性格からつい嫉妬が芽生える。

 だから、これはただの当て擦り。

 しゃらら、ぽろろ。

 何もない水面が突然円を描いて泡立つ。その流れの端がケーの肩を撫でた。

 ケーは目を白黒させて驚いているが、実際のところ大した差はない。単に水面で動きが派手だったから派手に見えただけだ。

 子どものような真似をしてしまった、と微かな自己嫌悪を感じた時、明かり取りの窓から差し込んだ夕日が煤で真っ黒な板壁を照らし出した。

 仕方ない。少し罪滅ぼしでもしようか。

 深く息を吐いて気を整える。湯を一気に拡散させて霧にすると、壁が見えない程朧気になった風呂場に虹がかかり、おとぎ話の世界が立ち上がった。

 湯を一握り持ち上げる。兎の形に整えると、虹の上を跳ねるように動かしていく。村の水場で野菜を洗いに来る子ども達相手によく遊んでやっていたので、ケーの目から見える位置に合わせるのも慣れたものだ。

 一通り遊んでケーの緊張が解れたところでお開きにする。

 色々疑ったところで、兄の師匠からの預かり子だ。断る選択肢などない。しばらく一緒に過ごすなら懐いてくれた方がいいに決まっている。殺すのはその後でも構わない。

 それに、そう思っているのは自分だけではないらしい。

 風呂から上がり、着替えたケーの衣の背中には真新しい背守りの赤い糸が縫い付けられていた。衣自体も古着を仕立て直して、ケーの身の丈に合わされている。

 なんだ。兄さんもやる気じゃない。

 少女の髪に櫛を入れながら、疑いは一度棚上げにしようと決めたのだった。

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