第9話 初体験
「課長、怖いです」
「綾瀬さん、最初は誰でも怖いものです。思い切りが大切ですよ、思い切ってやればいいんです」
「いいんですか。私、いっちゃいますよ」
「ええ、いってください」
えい。
ああ、押しちゃった。たったこれだけで、1億も動いちゃったの。
「まだ、これだけでは振込は完了しませんよ。今は二段階で承認が必要で。この後に私が振込の承認をしたら、先方の口座に振り込まれるんですよ」
ほえー。今は銀行に行かなくても振込処理ができるだね。でも、結構厳重に管理されてるんだなぁ。最近、経理の汚職とかハッキングなんかの問題があるからかな。
西園寺課長からの振込の仕方を教えて貰って、実践してみた訳だけど、あまりにも簡単すぎて、びっくりしたわ。
Excelで振込先の情報を記入して、そのデータを取込むだけで振込が完了してしまうなんて、何て便利なの。
課長が来るまでは、1件1件相手の振込先や金額を入力して振込処理をしていたらしい。それをExcelからいっきに取込できる様にしただけで、業務効率がものすごい改善したらしい。それに振込手数料も激減したらしい。流石、元銀行員。こんな方法知っているなんて凄いわ。
この方法なら私でも処理できるわね。安心したわ。
「それじゃあ、今日は後10分で定時だから、日報を書いて、帰る準備をしてください。明日は支払手形の作り方をお教えしますね」
「え、もう終わりですか」
「はい、我が課は定時退社率100%ですよ」
周りの人達を見ると、皆さん片づけを始めている様子だった。毎日ノー残業を貫いているのは流石ね。お隣の財務課はまだまだ業務を続ける様子。同じ部署なのにこの差は――大丈夫なのかしら。不満とかでないのかな。
このフロアは財務部で一部屋を使っているので、広々としている。営業部は全32人で使っていたので狭かった。しかし、この部屋は、財務課7人、会計課5人で使っているので、広々としている。
思っていたよりも業務環境が良すぎるわ。最初にいた総務課の受付は夏は暑く、冬は寒いという最悪な環境だった。だんだんと良い環境に異動してきて、私、ダメ人間になってしまわないかしら。
17時ちょうどに職場を後にし、外に出る。もうじき冬なのにまだ外が明るい。今から帰ると早すぎないかしら。
ふと、携帯を見るとお姉ちゃんからLINEがあった。
「私からのプレゼントは受け取ってくれたかしら。職場恋愛を楽しんでね♡」
「余計なお世話よ。早く結婚してしまえ」
そう返事をしておいた。お姉ちゃんは向こうで彼氏を作って、結婚間際である。素直に凄いと思う。外国語が一切できない私は一回も海外に行ったことはない。国際結婚なんて考えられない。結婚式も向こうでするなら私は行かないわよ。日本が一番なのよ。私は絶対にこの国を出ないわよ。トイレにウォシュレットの無い国には行かないわ。
出国しない決意を新たに、電車に乗るために駅に向かっていると、営業先から戻ってきた早川君とすれ違った。
「あれ、綾瀬さん、帰るの早いね。まだ17時10分だよ」
早川君は私が異動になったことをまだ知らないらしい。
「お帰り、早川君。私、本日付で会計課に異動になったんだ。だから定時退社なの」
「え、会計課。あの魔王のいる部署に異動になったの? 大丈夫だったの?」
魔王って、私の彼にちょっと酷くない?
「そんな事ないよ。やさしく仕事を教えてくれたよ。見た目と違っていい人だったよ」
「ホントに? 洗脳されてない? とてもじゃないけど、信じられないよ。何かあったら言ってね。助けに行くからね」
「多分ないと思うけど、何かあったら電話するね」
そういって、早川君と別れ、駅へ向かった。
もう。失礼しちゃうわね。何も無いわよ。
駅に着くか着かないかという頃合いで、たっ君からLINEが入った。
「今日、一緒に帰らない?」
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