第6話 過去のトラウマ

 不味いわ。非常に不味い。緊急事態よ。

状況を整理しましょう。

 まず、私の家には泊められない。

 次に、彼との交際はお姉ちゃんにはバレたくない。

 最後、彼とお姉ちゃんを会わせてはいけない。私が社長の娘だって知られてしまう。


 別に彼だったら知られてもいいとは思っている。知ったとしても態度を変えるような人じゃないもの。そう信じている。

 でも、怖い。どうしても話せない。

 また前の彼みたいになったらどうしようと震えが止まらなくなる。

 

 私の前の彼。最低の男。

 大学で同じサークルだった彼から交際を申し込まれ付き合い始めた。最初は普通のカップルだった。週に1、2回会って、ご飯を食べたり、デートしたり、エッチしたり。至って普通の関係で学生同士の質素な生活、それで十二分に幸せだった。

 彼が変わってしまったのは、私の実家に彼を招待してから……。私が社長の娘だと知ってから変わってしまった。

 最初は些細な変化だった。外食のときに私が払うことが増えたかな? 程度だった。

 だが、徐々に明確にお金を求めてくる様になった。

 そんな関係が上手く行くはずもなく、お別れを申し出た。すると今度はいつの間にか撮られていた行為の最中の動画を見せ脅してきた。

 まさか撮られていたとは思わなかった。そんな事をする人だったなんて思わなかった。でも、お金を払うのははっきりと断った。だって、パパが頑張って働いて得たお金をこんな男に渡したくはなかった。

 すると翌日には動画が流された。幸いなのは顔が映ってなかった事ぐらいだが、見事に大学の中では噂が広まってしまっていた。

 人間不審になった私は大学を辞め、実家に引きこもった。理由を聞いたパパによって彼は訴えられて捕まった。執行猶予だけだったが、それでもスッキリはした。

 動画は削除不可能なほどに広がってしまったので、もう諦めている。顔が映って無いからいいやと割り切った。

 その事件以降は実家を出て、名を変えた。綾瀬は母の旧姓でおじいちゃんに無理を言って、私を養子にして貰い、名前を変えた。

 それまでの交友関係もリセットしたので、私には小中高の同級生との接点は無くなった。当然だが大学の友人とも連絡は取っていない。携帯は変えたので連絡先も分からない。

 化粧も地味めの目立たないものにし、髪型と色も変え、別人としての人生をスタートした。

 そうでもしなければ、外に出られなかったのだ。

 でも、最終学歴が高卒の私には禄な就職先は無く、結局パパの会社にお世話になる事になった。


 たっくんに本当のことを言いたい。でも怖い。怖くて言えずに2年がたった。でも、ちょうどいい機会なのかもしれない。過去のトラウマに立ち向かうべき時が来たのかもしれない。


 まずは事情を全部知っているお姉ちゃんに話して相談にのってもらうべきかしら。

 でも、お姉ちゃんに相談するって事は彼との交際がバレることになる。

 あんな事があったせいか、私の交際相手に対してのパパの束縛が凄いのだ。自分が紹介した人以外との交際は認めないと言って譲らない。

 まあ、心配かけたし、あの時のパパの怒り様には吃驚したけど、私を想っての事だから、無下にもできず困っている。

 だから、家族にはたっくんとの交際を内緒にしていたのだ。


 本当、どうしたらいいのよ。


 あーーーー、しまった。考えてこんでいるうちに16時を過ぎている。

 しまった。会計課への提出書類が間に合わなかった。今日の提出は諦めないといけない。

「しぇんぱい。間に合いませんでした」

「えー。ボケっとしてたからもう終わったんだと思ってたのに」

 すいません、先輩。自分の世界に入ってました。

「この書類、どうしましょう」

「駄目元で会計課に持っていきなさい」

「先輩、一緒に――」

「一人で行きなさい」

 まあ、そうですよね。


 覚悟を決めて会計課へ走る。

 

 会計課の扉には本日の書類の受付は終了しましたの札がかかっていた。やはり駄目だったか。

 諦めて帰ろうとしたら声をかける人がいた。

「綾瀬さん、どうしたの? もしかして急ぎの書類かい? 受け取ろうか」

 み、宮澤さーん。神だ。宮澤神が降臨された。

「いいんですか! 課長に怒られたりするんじゃ……」

「いいよ、心配しないでも。課長は確かに見た目は怖いけど、課員を怒ったことないんだよ。それに綾瀬さんは唯一と言ってもいいくらい、うちの課長を嫌ってない人だからね」

「え、確かに嫌ってないんですけど、何で分かるんですか?」

 むしろ好いているですけどね。

「うーん。目かな。他の人は課長と話すと怖い目をして帰るんだけど、綾瀬さんはそんな目をしないからね」

 私、特別なことはしていないつもりだったのに、それが逆に特別なことだったのね。

 宮澤さんに書類を丁重にお願いして、部へ戻った。 


 助かった。今日は運が良かった――じゃない。これからの大問題が残ってるじゃないの。

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