1.10 魔が遣えし物
「おいおいおいおい、こっちゃ南側だぞ……!? どぉやって街越えてきたってんだ……?」
首を振りながら独り言のように言い、森の奥を見るグラッツ。
「グラッツさん、まさか――いや、違いますよね……?」
呼吸が震える。
おかげで声も震える。
頭を占める嫌な予感。蘇る最悪の記憶。
その可能性を言葉にせずに、グラッツに否定を求める。
もしかしたら、ウノが知らないだけで森の中には地鳴りや咆哮のような音を出す木が生えているのかもしれない。
そんなこの世界に無知なゆえの勘違いであるという僅かな望みをかけて。
だが、グラッツから期待した言葉は返ってこない。
ただ眉間に皺を刻み、不穏な音の響く方角を睨みつけている。
「――歩けるか?」
ほんの1秒ほどの沈黙、けれども重く苦しい沈黙ののちにグラッツはウノに問いかけた。
「え、あ、はい……大丈夫です」
「よし、じゃあ、ウノは門まで戻って――」
再びの咆哮にグラッツの言葉が遮られる。
先程よりもはるかに近くで聞こえたその声に警戒しながら、グラッツが背負う大剣に手をかける。
「うそだろ、おい……。いくらなんでも早すぎねぇか……。――ウノ! 早くいけ! 門兵のとこまで!」
「グラッツさんも、一緒に……!」
「それじゃあすぐ追いつかれちまって2人ともおしめぇだろうが! いいから行け!」
ウノの方を見ることなく叫ぶグラッツ。
鬼気迫るその横顔に、いつもの陽気さは微塵もない。
“英雄”グラッツであっても余裕のない状況なのだ。
たった1年かじっただけの剣術しか持ち合わせていないウノがいては足手まといにしかならないのは明白。
なら、唯一の取り柄の逃げ足を生かすべきなのだろう。
震える拳を握って湧き上がる悔しさと不甲斐なさに耐え、
「――わかりました。助けを呼んできます」
「……ありがとよ」
視線だけウノに向け、少し頬を緩めるグラッツ。
その微笑みに僅かばかりの勇気をもらったウノは剣をしまい、もと来た獣道へと戻ろうと師に背を向ける。
――と、そのときだった。
不自然な影がウノとグラッツを覆った。
思わず空を見上げると、大きな黒い塊が跳び上がっているのが見えた。
「まじかよ……!」
その塊は、重力によって地に引き寄せられ、落ちて落ちて落ちて、激しい水飛沫をあげながら泉の中に着地した。
「森の中を跳び越えてきたってのか……!?」
水飛沫が収まり、飛来してきた巨大な物体の姿が露になる。
それを見たウノは絶句する。
泉がただの水溜りのように見えるほどの巨大な犬の体。
その体から生えた3つの頭。
真っ赤な6個の目玉がウノを捉え、3つの口が唸りながら牙を見せつけている。
巨大な犬に向かって大剣を構えるグラッツが、まるでおもちゃの人形のようにさえ見えてしまう。
おぞましい、巨大な怪物の姿。
――魔物だ……!
僅かな望みも消え去った。
逃れようのない事実が目の前で唸り、牙をむいているのだ。
呼吸が速く、荒くなっていくのを感じる。
冷汗が頬を伝う。
右足の痛みでさえ遠く鈍く感じるほどに脳が思考を止めてしまっている。
「ウノ! 走れ!!!」
その叫び声でウノの思考が僅かに動く。
――そうだ、助けを呼びに行かないと……!
立つのもままならないほどに震える足を必死に持ち上げ、引きずるように走り出す。
踏み出すたびに右足の傷が痛むが、そんなことを気にしてはいられない。
獣道へと入って行くウノを追おうと構える巨大な犬の魔物に、
――ドォォン!
落雷が襲い掛かる。
「――おっと、ワンコロの相手は俺様だぜ……?」
大剣を振りかぶり、巨大な犬に鋭い眼光を向ける。
魔物は雷に僅かにひるんだ程度で、身を震わせるとすぐに姿勢を低く構えた。
標的をウノから目の前に立ちはだかるグラッツに変えて。
3つの頭が揃って怒りの咆哮をあげる。
それに返すようにグラッツの雄叫びが森に響き渡った。
ーーーー ーーーー ーーーー
ウノは走った。
実際には『走った』と言えるほどの速度ではなかったが、全速力ではあった。
獣道にせり出した細枝が体のあちこちにあたる。
幸い濃紺の羽織のおかげで直接皮膚へダメージをくらうことはほとんどなかったが、急く彼にとっては鬱陶しい障害であった。
だが、払い避けている余裕はない。
背後からは雷鳴や、剣と爪が擦れ合う音や、怪物の呻き声やが絶えることなく聞こえてくる。
それらの音が近づいてくる様子はないあたり、グラッツは魔物を足止めすることには成功しているようであった。
しかし、グラッツといえどもあの巨大なバケモノ相手に倒しきることは叶わないだろう。
もしかすると、足止めすらそう長くはもたないかもしれない。
本来、魔物討伐は複数人の転生者や守護兵軍を率いてようやく達成されるものなのだ。
1年前、ライオンと山羊と蛇の魔物を倒したグラッツだったが、それは風を操る青年が大幅に身を削いでいたからなんとかなっただけだ、と本人が後に語っていた。
魔物とはそれほどまでに強大で強力な存在なのである。
ゆえに、事態は一刻を争う。
枝が顔に裂傷を刻もうが、薄いかさぶたで塞がりかけていた右足の傷が再び開いて血が溢れだそうが、止まることは許されない。
少しでも早く、門のところまで行かなくては――。
息が苦しい。
酸素がうまく体に回らない。
心臓がうるさい。自分の呼吸がうるさい。
足は前に出ているはずなのに、どこまで行ってもずっと森の中で。
行きの倍以上の距離を進んだ気がするのに、目的の場所は見えすらしない。
道を間違えたのか、と不安がよぎるが一本道で間違えようはないはずなのだ。
進めば、前に踏み出せば、必ず着く。
ためらって立ち止まる暇はない。
「早くしないと、グラッツさんが……」
ぜぇぜぇと喉を鳴らしながら必死に足を踏み出す。
踏み出される右足のズボンは真っ赤に染まってしまっている。
幹を支えとするように手を伸ばし、木と木を伝うように進んでいく。
この木まで来たら、次の木へ。
無限に続いていく木の行列を掴み、離し、前へ。
どれほどの木を伝い歩いただろうか。
永遠かと思われた獣道の終わりがふいに姿を現す。
茶色と緑の世界のその先に、無機質な灰色の壁がそびえ立つ。
やっとたどり着いた。
街を守る石壁。
そして、門を守る2人の門兵のところへと。
足を引きずりながら森から出てきたウノに気付いたリックが駆け寄ってくる。
「君は、グラッツ様の弟子のウノくんだね? ――その足……」
リックは真っ赤に染まったウノの右足を見て、言葉を切る。
苦しそうに喘ぎ、大粒の汗を垂れ流しながら地にへたり込むウノの様子から、ただ事ではないことを察したようであった。
片膝をついてしゃがみ、ウノの体を支えるように手を添え、
「さっきから雷鳴や獣の鳴き声が聞こえてくるのが気になっていたんだけれど、狩りをしている音……ではないんだね?」
と静かに尋ねる。
「――ま、ものが、頭が3つの、犬の、魔物がきたんだ……!」
息も絶え絶えに紡いだウノの言葉に、リックは目を見開く。
いつもは爽やかさを湛える瞳が揺らめき、苦悶を顔に浮かべる。
そして、苦々しく吐き捨てるように、
「ケルベロスか……!」
魔物の名を告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます