0.3 1日目の終わり

突風。

 そして激痛。

 

「――ッ!?」


 ウノは声にならない声を絞り出すようにうめき、突如として体を貫いた痛みの元を触っていく。


 両腕、両脚、腰から頬に至るまで、ありとあらゆる箇所の皮膚が浅く切り込まれている。

 体の線に沿うように流れゆく温かく気持ちの悪い感触と、掌をべったりと染める鮮血。


 何が起こったのか理解できない。


 ――風……。切れてる……


 震えだす体と全身からの痛みの伝令を処理して満身創痍の脳ではこの程度の認識をするのが限界だった。

 例え、エネルギー満タンで脳みそばっちりフル稼働できる万全の体制でもこの現象を説明できたとは思えないが。


「徐々にエグられていくよりはましだと思うんだけど……使う気になった?」


 カタカタと小刻みに震え、恐怖に揺れる目を向けるだけの少年を見て、青年は憐みに似た表情を浮かべる。


「死んでほしいんだけど、死なないでね」


 再び風がウノの周りを纏い過ぎてゆく。

 先程よりも多くの肉を道連れにして。


「ぐぁああ!!」


 上半身を壁に預ける余裕すらもなく、どさりと倒れ込む。


 肩から、ふくらはぎから、腹から流れゆく赤き命の源を乾いた土がするすると飲み込んでいく。

 もはや裂傷の箇所を探す気力すら残っておらず、両腕はだらりと地に投げ出される。


 視界はぼやけ、懸命に打ち付ける心臓の音だけが頭に響いて聴覚もろくに機能していない。

 なのに体を巡る熱だけがやたらと鮮明に主張してくる。


 ――死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない……!!


 本能が迫りくる死の足音を必死に拒絶する。


 なんでこんな目に合わなくちゃいけないのか、とか、こいつ誰だよ、とか、何を求めてるのか具体的に言えよ、とか、今すぐ叫んでやりたいことは山ほどあるのに、彼の口から零れるのは飲み込み損ねた唾液だけ。


 ――ああ、あっけないな、どこまでも俺の命は。


 抗いと諦めの狭間で揺れ動く彼に、容赦なく地獄の門がその口を開く。

 ズオォォオン……、ズオォォオン……とむき出しの肉のさらに奥まで響く揺れと重低音。


 まともに機能していない目を必死に開き、近付く何かを視認する。


 そこには、平屋の木造家屋を軽々吹き飛ばし、耳鳴りをかき消すほどの咆哮をあげる巨大な――怪物、そう、怪物と形容するしかない物体の姿があった。


 家よりも巨大なライオンの頭からさらに山羊の頭が生えており、尾は大蛇。

 ライオンが牙を剥き出しに吼え、山羊の角が家を薙ぎ払い、大蛇が鞭のようにしなり辺りを砕いていくその姿、怪物以外なんと言えようか。


 目覚めたときから感じていた地の震えが比喩でなく本当に巨大な生物の足音だったとか、今までの人生の中で最高のジョークと言えるだろう。

 彼はそう自嘲する他なかった。


 体はズタボロで、意識も今にも飛んでいきそうな状態で、あんなに沢山いた逃げ惑う人の姿もいつの間にか全く見当たらない。


 唯一いるのは、ウノの身をズタズタに裂いた張本人、神秘的で残虐な青年のみ。

 そんな青年にとってもこの怪物の登場は想定外なのか、美しいその顔を苦悶に歪めていた。


 荒い呼吸で虚ろに目を開けているだけの少年と、ライオンと山羊の頭を生やした怪物を交互に見て、青年はウノへ向けていた右手を大きな獣の方へと変える。


「時間がない……、時間がないんだ……。後でちゃんとその肉削いであげるつもりだったけど……。このを潰されても困るからね……」


 そう、青年が呟くと同時に一陣の風が獣に襲い掛かった。

 ウノを瀕死に至らしめたものなどそよ風に過ぎなかったらしい。


 命を刈るために吹き抜けていく風は先程とは比べ物にならないほどの豪風で、あたりの家屋や散らばる木材を巻き込みながら怪物の肉を削ぎ落していった。


 唐突で明らかに敵対的なその攻撃に、怪物は大蛇の尾を振り回し、切り裂かれた傷口から噴き出す血液も厭わずに怒りを露にする。

 人であればひとたまりもないような深手であっても、規格外のバケモノには致命傷たりえないようだった。


「うーん、天は僕に味方してくれないか……。こうも無風じゃ分が悪い」


 悩まし気な表情を浮かべる青年だが、焦る様子は微塵もない。

 「困ったな」などと口にしながらも、この美青年が生み出しているであろう烈風は止むことなくライオンの胴を削ぎ、山羊の角を折り、蛇の舌を切り落としていく。

 

 だが、バケモノもその見た目に相応しいバケモノじみた生命力で標的と定めた青年に襲い掛かっていく。


 樹齢1000年の大木でさえも霞む太さの前足を青年の頭上めがけて振り下ろす。

 巨体で遅いその攻撃を易々と避ける青年に、待ち構えていたかのように尾の大蛇が大口あけてかぶりつく。

 体を捻り、紙一重でかわし飛びのく青年。

 

「接近戦は苦手なんだ。勘弁してほしいな」


 軽い身のこなしで、ウノからも怪物からも距離を置くと、再び青年のターン。

 立派なたてがみを震わせ咆える猛獣の四足に無数の裂傷が刻まれていく。


 ガクンと膝を折るように倒れ込むが、その脚を軸とするように半回転し、大蛇が再び青年の頭をかじりとらんとする。

 青年がかがんだその僅か上を蛇の頭が通過する。


 一瞬の気の緩みが死に直結するであろうその状況で、愉楽に顔を綻ばせた青年は、時折、実に楽しそうに笑い声を漏らしながら次々と怪物に斬撃を与えていく。


 もはや異次元のその戦いを夢の出来事かのようにウノは眺めるしかできなかった。


 身を裂く風を操る美青年にライオンと山羊と蛇のミックス怪獣。摩訶不思議な存在たちが奇々怪々なバトルを繰り広げている。

 それだけで、常軌を逸しているのは違いないが、


 ――なんで、俺、生きてんだ……?


 と死にかけている少年は思案する。


 最期に見たのは目前に迫りくる電車だった。

 骨の砕ける音も脳天を貫く痛みも確かに覚えている。

 ――思い出したくはないが。


 全身を覆うような激痛と熱で朦朧とする意識を携える今の状況は、確かに死したあの時よりもウノを苦しめる。けれどもこの苦しみが、生の実感を与えていることもまた確か。


 心の奥底で生きたいという願いが渦巻いて、身勝手なことに事切れることを許してくれない。


 ――あいつが、……俺が、言っていた『てんせいしゃ』が、『転生者』ということならば、俺は……どこか遠くの別世界で生まれ直したということなんだろう。


 有り得ない、と思うが、今まさに自分は生きていて、進化論も物理法則も無視した戦闘を目撃しているという事実は揺るぎない。


 必殺技とは何なのか、なぜ理解していないことが口をついて出てきたのか、知りたいことが尽きはしないが、とりあえず自分が”異世界転生”したことを飲み込むことにする。


 ――にしても前途多難すぎるだろ……。


 息をするのがやっとの少年が自分の境遇を嘆いたとき、攻防を繰り返していた青年に大蛇が鞭のように直撃する。


 蟻を払ったかのように青年の体が吹っ飛び、石壁に激突。

 衝撃で崩れた壁が石礫となって覆い被さった。


 舞い散った粉塵から怪物が現れ、体中から血しぶきをまき散らし歩み来る。

 手負いの獣は次のターゲットを死の淵にいる少年に決めたようだった。

 自らの存在を知らしめるように天に向かって咆哮し、ゆっくりと、だが確実にウノの方へと歩を進める。


 やっとこさ自分の境遇を一部だけだが理解するに至った少年に、早くも訪れた死の危機。脳内は警鐘を鳴らしまくっているが、この場から逃げるための体力は微塵もない。

 乾いた大地に赤い水分を与えるだけの彼は、受け入れ難い死を覚悟するしかなかった。


 せめて目だけは閉じておこうと瞼をおろしたとき、閉じていてもわかるほどの閃光と雷鳴が轟いた。


 一度覚悟してしまうと撤退は早いもので、落ちてしまいそうになる意識を何とか手繰り寄せ、現状把握だけでもせねばと無理やり目をこじ開ける。


 何故か動きを止めている怪物が、スローモーションのように倒れ込む。

 ズシィィン……という地響き。その衝撃による風と砂埃がウノの視界を奪う。


 しかし、彼は見た。


 倒れゆく怪物の頭上に佇む男の姿。

 巨大な剣を獣の首に突き刺し、四方へ弾けるエネルギーを纏うその姿は、まるで天の怒りが具現したかのようだった。


 この情景を見たものは、きっとみな口を揃えてこう言うだろう。

 ――『神を見た』と。


 眼球に飛来する砂粒から守るように目を瞑ったウノは、僅かに繋ぎとめていた意識を遂に手放してしまうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る