第一章 動きだす歯車

1.1 美女からの逃避行

 ――1年後――


 買い物かごを持った若い女性に、小さな子どもを連れた家族連れ、淑やかに散策する老夫婦。

 多くの人々がそれぞれの目的のために往来している。


 特に区切りはないものの、自然と大通りの端に寄って歩いている人々の間を時折馬車が通り抜けていく。


 左右に並ぶ建物は、靴屋に服屋に雑貨屋にパン屋とウィンドウショッピングで半日過ごせそうなほどの充実ぶり。


 そんな大きな通りが最も混んでいるであろうお昼時。


 行き交う人にぶつかることもお構いなしに走り抜けていく少年がいた。

 腰にさした剣を覆い隠すほどの長さの羽織を纏い、フードを目深に被っている。

 飛び出した彼とぶつかりそうになった男性が怒号を浴びせるが、立ち止まることはない。


 風に吹かれてフードの脱げた少年がちらりと背後に注意を向ける。

 彼が気にしているのは、憤慨する紳士。ではなく、さらにそのずっと後ろから追いかけてくるある女性だった。


 遠くからでもわかるサラツヤな黒髪に、モデルを生業としても一生食べていけそうな抜群のスタイル。

 見かけた人は性別問わず振り返ってしまうほどのその姿は眉目秀麗の模範のようである。


 そんな彼女が、身なりのいい男性の甘い文句に一切耳を貸すことなくただひたすらに少年目指してやって来ているのである。


 追ってくる美女の姿を確認すると、少年は「毎度毎度しつこいな」と文句を漏らす。

 短く切り揃えられた黒髪をくしゃりと掴み、苦々しい表情を浮かべる彼は、美女と会話するのが恥ずかしくて逃げ惑っているわけではない。


 彼女のお目当てはどうやら彼の持つ必殺技”治癒長寿ヒールエイジュ”のようで、半年ほど前から度々少年を付け回している。

 1年前、転生してきたその瞬間に、これのせいで死にかけた思い出のある彼は得た教訓『ヤバい奴には捕まる前に逃げろ』を実践している次第なのである。


 聞き心地のいい高い声で「待ちなさあぁい!」なんて叫ぶ彼女は、店の外にまで並べられた商品の詰まった木箱に気付かず躓いてしまう。


 驚く客と店主に平謝る美女の姿を遠くから確認した少年は、


「今のうちだな……」


 と逃げ切るためにスパートをかける。


「おいおい、『転生者もどき』がまた逃げてらい!」

「ヒッヒッヒ、自分の命がそんなに惜しいかよ、弱虫ウノくん!」


 昼食を求める客で溢れる料理屋のテラス席。

 美しい追っかけをまこうと走る少年にヤジを飛ばす酔っ払いが2人。


 片方はフサフサのまつ毛を強調するかのように、バシバシと瞬きをしながらビールをあおっている。

 もう一方の男は、狐のように釣り上がった目をさらに釣り上げながら笑っていた。


「嫌なやつらに見つかったな……」


 美女から逃げ切る好機に、酔っ払いの相手をしている余裕はない。

 目もくれずに男らの横を駆け抜けようとするが、


 バシャ。


 狐目男がジョッキに並々と注がれた酒をウノへと勢いよく浴びせた。

 晩夏といえど、昼時の太陽はまだまだ熱し盛り。

 冷えた酒も瞬く間に目が回りそうな刺激臭を漂わせる気体へと変化していく。


 頭髪や羽織などからビールを滴らせ、突然の横やりに立ちすくむウノ。

 呆然とする少年を見て、2人ともなんとも楽しそうに高笑っている。


「ヒヒ、ごめんよ、手が滑っちまった!」


 狐目男が空になったジョッキをプラプラと天空に掲げながら言った。


「ハーッハッハ! 連れが悪いねぃ、なんなら、俺の“地獄豪火ヘルバーニング”で乾かしてやろうかい?」


 フサフサまつ毛の方の男がそう言いながら掌に炎を灯した。

 着火剤など経由せず、掌の上の虚空に突如として現れた熱源は、まつ毛男の赤ら顔をさらに紅く染める。


「お前ら、いい加減にしろよ……!」


 ウノは怒りのこもった瞳で睨み付け、腰にさした剣を抜かんと手をかけた。


 こちらから何か仕掛けたわけでもないのに、何故か幾たびも彼らの憂さ晴らしに付き合わされているのだ。

 ウノは我慢の限界だった。


「おぉ、怖い怖い……」


 微塵も気持ちのこもっていないセリフを吐きながら、まつ毛男は手に灯る炎の勢いをさらに強める。

 まつ毛男の顔を覆わんばかりの熱の塊。

 微かな風で舞い踊る炎は、すぐそこにある主のまつ毛を燃やすことはないらしかったが、狐目男は熱さに耐えかねて席を立ち、離れたところで傍観に徹していた。


 腕二つ分ほどしか離れていないウノにとっても、その熱の威力を皮膚で感じ取るのは容易なことだった。


 生きとし生けるすべての生き物が共通して持つ本能的な「火」に対する恐怖心。

 彼の恐怖心は本能だけではなく、経験に由来するものも多分に混ざってはいるのだが、たじろぎ、逃げ出したいという気持ちが早くもウノの心に芽生えだす。


 柄を握る手に、熱さに反応したものではない汗が滲む。


 剣では無形の炎を切り裂けない。


 ――手を切りつけるか?


 いや、手以外からも炎を出しているのを見たことがある。

 他の場所から出された火であぶられたらおしまいだ。


 ――剣を投げつけてその隙に逃げる……。


 は論外だ。

 一矢報いることはできるかもしれないが、この剣は捨て石にできるほど軽いものではない。


 そもそも相手は2人。

 今は離れたところで静観してる狐目男も、ウノが反撃すれば黙ってはいないはずである。


 大人2人が少年1人に嫌がらせしているこの状況は何度もあったが、救いの手が差し伸べられたことはない。

 今回だって同じことだろう。


 考えるまでもなく、ウノに与えられた選択肢は初めから1つしかなかった。


 ――何もせず逃げる……!


 ウノは震える手を剣から離し、怒りをぶつけることを無理やり諦め、自分の身を守るために店から駆け離れた。


「ヤバい奴からは逃げる、そうやって1年過ごしてきただろ。今更何しようってんだよ……」


 昼間から行われた酔っ払いによる騒ぎを我関せず、だが気になる、と遠巻きに様子を伺っていた人々の間を荒々しく通り抜けていく。


 背後から2人の嘲笑う声を浴びながら、それでもウノは走り逃げた。


 丸焦げになり、動けないところを彼女に捕まってしまうことは何としても避けたかった。

 思い出せ。1年前の痛みを。

 ただ切り裂かれた恐怖を。


 これは最適解だったのだ。


 そう自分に言い聞かせる。

 噛み切れた唇から、悔しさと怒りが溢れ落ちた。


 

 時間にしてみれば、走り出してほんの数秒後くらいのことだろう。

 男らのいた店の方で、ガシャンという大きな音と、人々のどよめきが聞こえた。


 振り返り、集まる人々の隙間を凝視したところ、ひっくり返った男らの頭上に、これまた同じくひっくり返ったテーブルが乗っかっているのが見えた。

 その横では、なぜか木箱を帽子のように被った美女が満足気にパンパンと手を払っていた。


「ぐずぐずしてたらあいつに捕まるとこだった……。危なかった」


 そう、安堵すると同時に、ウノを追いかけるでなく、酔っ払いの相手をしたことを不思議にも思うのだった。


「おい、これは何の騒ぎだ」


 通りの向こう側から、銃を携行した警備兵がやってきていた。

 いつの間にか大勢集まっていた野次馬たちが、面倒事はごめん、とばかりに離散していく。


 ウノも警備兵の世話になりたい訳はなく、無様に転がる酔っ払いたちと勇敢な美女を尻目にまた駆け出すのだった。


 胸にどろりとした重く苦しい感情を抱えたまま。


 彼女は兵士に事情でも聞かれているのか、そこから先は追ってくることはなかった。


ーーーー    ーーーー    ーーーー


 ウノは市場の賑やかで楽しげな声を避けるように、薄暗い裏道を力なく歩いてた。

 一日中ほとんどずっと日陰で、湿度が高く、そこかしこに水溜りがある。


 水分をたっぷり蓄えた土は粘土のように足跡を残し、ひとたび足の力の入れ方を間違えれば容赦なくすっ転ぶこと請け合いだ。


 ただでさえ、先程の出来事で気持ちが地まで沈み込んでいるといのに、更に転んでビールに泥を被せるようなことだけは避けたかった。


 ウノは足元に細心の注意を払いながらも、頭の中では別のことを考えていた。


「何で俺を追わずにあいつらの相手なんてしたんだ?」


 ――俺のためにやったことなのか?


 そんな考えが頭をよぎる。

 ウノは呆れるほど楽観的でご都合主義な想像を打ち消すように激しく頭を振った。


 これはそうであってほしいという願望に過ぎない。

 きっと、元々、あの特徴的な目元の酔っ払いたちに因縁でもあって、それを晴らすための行動でしかないんだろう。

 昼間から飲んだくれて所構わず憂さ晴らしするような奴らだ。その可能性の方がずっと高い。


「そもそも、俺のためにあんなことやる意味がどこにあるんだよ」


 だが、ウノの心に最もひっかかっているのは彼女の目的ではない。

 彼女は、炎を操る男に立ち向かい、見事に報復を果たしたという事実。

 威勢よく吠えるだけ吠えて、震えながら逃げ出した哀れな男とはあまりにも対照的だ。


「何のための鍛錬だよ。このやろっ!」


 やけくそになって蹴った石が跳ね転がり、ぽちゃりと水溜りのところで止まった。

 水に浸った石を見捨て、跨いでしまおうと足元に注意を向けたとき、今にも泣き出しそうに口をへの字に結んだ顔が写り込んだ。


 ――『弱虫の転生者もどき』にお似合いの顔だな。


 と波打つ水溜りの中の顔が力なく笑った。



 ビールを滴らせ、水溜りに情けなく笑いかけているこの少年は、まつ毛男に『もどき』と揶揄されてはいたが、正真正銘の転生者である。

 約1年ほど前に息絶えたはずの15歳のウノ少年は、あの世ではなく、別の世で目を覚ますこととなった。

 15歳の姿のままで。


  正式な名前を”ヴィエンデンバートル”というこの街に住む人々にとって、『転生者ウノ』の存在はそう珍しいものではないらしかった。

 というのも、不定期ではあるものの、それなりの頻度で転生者なる出自経歴不明の不審者が突如現れているからである。


 目覚めた瞬間、死地を彷徨うはめにはなったウノだったが、なんとか生き延び、秘儀『ヤバい奴からは逃げる』を駆使して1年間再び死ぬことはなく過ごしてきた。

 そうして過ごすうち、この世界について色々とわかったことがある。


 その中の1つが必殺技についてである。


 まつ毛フサフサ男が使っていた“地獄豪火ヘルバーニング”なるものを思い出してほしい。

 まつ毛男も狐目男もウノと同じ転生者であり、前触れもなく現れた炎は転生者特有の力によって生み出されている。


 狐目男もウノも転生者は例外なく力を有した状態でヴィエンデンバートルにやってくる。

 この力を転生者は口を揃えて『必殺技』と呼ぶ。


 “必殺”という名に相応しく、彼らの持つ力は生物の命を刈り取ることに特化した性質を持つ。

 凶暴で凶悪な”魔物”という生物に脅かされている街の人々にとっては、転生者たちは共存に利のある存在なのである。


 必殺技には様々な種類があり、まつ毛男は火を操ることができるが、狐目男の方は火ではなく水を操ることができる。

 ”水脈弾丸アクアバレット”という名のその必殺技も、もちろんウノは身をもって体験したことがある。


 今日は、転生者でなくても実行可能なビールをかけるという嫌がらせだったわけなのだが、鬱憤を晴らすという目的においては、狐目男は技を使うよりも遥かに素晴らしい手段を取ったと言えよう。


「あいつらなんか、必殺技が使えなけりゃ、ただの飲んだくれのおっさんなんだよ。今に見てろ、必殺技なんて使わなくても、俺の剣技で……こうだっ!」


 ウノは胸に渦巻く不快な感情を右足にのせて、見捨てかけた水溜りの石めがけて振り下ろす。

 しかし、ぬかるんだ足場では、激情に任せた蹴りを支えきることはできなかった。

 ウノの視界はくるりと空を向き、激しい衝撃とともに、ビールからの泥を浴びるという最悪のフルコースをいただくことになってしまったのであった。


 泣きっ面に蜂とはまさにこういう時に使うのだろう。

 石への八つ当たりに失敗したウノは、もはや立ち上がる気力もないほどに消沈していた。

 もういっそのこと、このまま泥たちとランデブーを決め込んでやろうか、なんて考えていると、


「こんなとこで昼寝か? あんま寝心地よさそうではねぇな」


 という声とともに、ウノの視界は誰かの影に覆われたのだった。


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