0.2 最悪の目覚め
少年はまどろみの中で、思考が動き出すのを感じた。
――俺は……寝てたのか……。
全身で感じ取る重力の方向と、頬に当たる硬い感触でうつ伏せの状態であることをぼんやりと理解する。
掴むように動かした掌で、地面が砂であることを知る。
――なんで、こんなとこで……。
浮き上がってきたばかりの意識では自分の状態を正しく認識するのは難しかった。
何か温かな夢でも見てたような気がするが、よく思い出せない。
そもそも、自分の記憶が正しいのであれば、思案を巡らせられるような状態であることが異常なのだ。
いくつもの疑念が脳内でこだましていたが、身辺整理が先であると結論付け、少年は段々と思い通りに動かせるようになってきた感覚器官を働かせる。
地面が一定のリズムで震えている。
まるで、巨大な生物が行進しているかのように。
暗闇の中で、人々の絶叫が響き渡っている。
――いや、暗闇ではない。目を瞑っているのだ。
彼は固く閉じた両瞼を無理やり持ち上げる。
目に入ってきたのは、数多の足だった。
勢いよく迫りくる足たちは、寸前のところで彼を避け、跨いでいく。
地面に寝転がる不自然な少年なんぞに構っている余裕はミリほどもないと言わんばかりに通り過ぎていく人々。
その様子を見るに、このあたりの状況はかなり悪いのだと察する。
上手く力の入らない腕で、生まれたての小鹿のように上半身を起こし、人々の逃げ惑う原因は何かと辺りを見回した。
と、その時、彼の腹に衝撃と鈍い痛みが襲う。
「ぐ、ぉお」
低い呻き声を漏らしながら腹を抑え、うずくまる少年の上に、被さるように青年が転げ倒れてくる。
どうやら急に起き上がった障害物をよけきれずに躓いてしまったらしい。
金髪をなびかせながら、よたりと起き上がった青年は、腹をおさえる少年の両肩を掴むと薄緑色の双眸で彼を見つめる。
「医者を、探している」
金のまつ毛に囲われた緑の瞳。透き通りそうなほどに白い肌と薄紅色の唇。
老若男女に関わらず、見かけたものはみな恍惚の吐息を漏らしてしまいそうなほどに美しく中性的な風貌。
そんな青年が発した言葉は、蹴ってしまった少年に対する謝罪でも心配でもなかった。
少年はただ目をパチクリとさせ、この美しき青年の発言の意図を掴みあぐねていた。
何か言うでもなく、水面の魚のようにただ口を開閉するだけの少年の様子から、自分の欲しい情報は持ち合わせていないと判断したのか、緑眼の青年は少年を見捨て、人の流れに乗ろうとする。
その寸でのところで少年が青年のズボンの裾を掴み、
「待って、ここはどこ? なんデ、みんな逃げてる? なんで俺は生きてる?」
脳内をめぐっていた疑問が口をついて出た。
熟考されることなく吐き出された言葉は片言で、途中で声が裏返る有様だった。
青年は翡翠のようなまなこを見開き明らかに驚愕した様子で少年の姿を頭のてっぺんから足の先まで見ている。
今、ようやく少年の全身像を認識したかのように。
そんな青年を見て、少年は彼に習うように自分の姿に視線をおろす。
あちらこちらが裂いたように破れ、上着はボタン1つで辛うじて前を閉じられている。
さらには砂を被り黒い服が薄茶へと変貌を遂げてしまっているというひどい格好。
汚くはあるが、どこに驚く要素があるのだろうかと疑問に思う少年だったが、金髪緑眼の青年の服装を見て彼の表情にも合点がいった。
麻のような材質のシャツとズボンに身を包んでおり、その上下の衣服は青年の秀麗なその見目に似つかわしくないほど古びていてあちこちほつれている。
そして、逃げ惑う人々もこの青年と大差ない格好をしているのだ。
いくら原型をとどめていなかろうと、少年の服が青年らの服よりも上質なものであるのは一目瞭然である。
ましてや学ラン。
学生という身分を象徴するその服飾は、有象無象の人波にあってひときわ異質であった。
「――転生者か?」
――テンセイシャ?
青年が発したその言葉の意味を理解するよりもはるかに早く、少年の口から言葉が零れ落ちる。
「俺は、異世界より来たりし転生者だ。名をウノという。必殺技は”
まるで予め用意されていたセリフかのように。
さきほどの片言とは打って変わって、発した本人が驚き目を白黒させるほどの流暢さ。
これを聞いた青年の表情は少年とは比べ物にならないほどに変貌した。
瞳孔が開き、鋭く睨みつけるその顔は獲物を捉えた肉食獣を彷彿とさせる。
身の危険を感じた少年――ウノは青年から少しでも離れようともがくが、寝起きの体はそれを許してくれなかった。
立ち上がり損ねた彼は、無惨にも顔面から地面へとダイブ。
「使え、すぐに! 今、すぐに!」
「ちょっと、待ってくれ、自分で言っといてなんなんだが、意味が分からないんだよ! てんせいしゃ? ひっさつわざ? 何か知ってるなら教えてくれ!」
深いダメージを負った鼻を押さえ、流れでてくる生温かい液体の感触を掌に感じながらウノは全霊で訴えかける。
だが、その懇願が受け入れられることはなく、青年はウノの胸ぐらを掴み引きずり、人波の端の石壁に叩きつけた。
背中を強打し「ぐぇ」と小さく嗚咽のように声を漏らすウノ。
指を鳴らせばパチンと消えてしまいそうなほど儚げな白い肌と華奢な四肢からは到底想像できない力強さだった。
人は見かけによらないんだな、などと今思うべきでない感想がよぎる。
そんな青少年によるいざこざも、混乱に支配されたこの場では誰の意に介されることもない。
つまり、ウノの置かれた状況は孤立無援の絶対絶命というものであった。
自力でこの場を切り抜けるしか手はないのだと悟り、何か突破口はないものかと目だけを動かし辺りを探る。
右から左へと流れていく人の波。
蹴り上げられた土は砂埃となって辺りを覆う。
誰かの靴の片割れや、今夜の副菜になったであろう葉物が落ちてはいるが、打開するにはどれも心許ない。
さらに絶望的なのは、ウノの精神が冷静とは程遠い狼狽の極みだということ。
その上、脳と体の半分は眠りから抜け出しきれておらず、残りの半分は痛みに悶えて使い物にならない始末。
諸葛孔明であったならいざ知らず、御年15の少年では羽扇でなく白旗を振りかざすのが関の山である。
頭を垂れ、見逃しを嘆願しようとしたとき、
「エマが、待ってるんだ……」
「え? ま?」
この青年の発言はさっきから一方通行。
会話というキャッチボールをする気がサラサラないように感じられる。
ウノは全力で困惑を顔で表現する。
会話が成り立たないなら、それ以外の方法で意思を伝えてやろうという作戦である。これが今の彼に思いつく最大の抵抗だった。
場面が違えば爆笑をかっさらうこと必至の変な顔でさえ、青年の表情を変えるには至らないらしい。
青年は人を見ているとは思えない冷酷な視線を向け、
「時間がない。許してほしい」
と告げると、ウノの方へ右手をかざした。
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