、九

 どうやら、学校帰りの様だ。

 実は、家に帰るまでの間に今日の夜ご飯が匂いでわかっていた。調味料から、使う肉の種類、今日のお昼ご飯の匂いまで感じ取った。

「今日は豚の味噌煮?」

 靴を脱いですぐに大きな声で言った。豚と味噌の組み合わせは、最近気に入っていた。

 リビングから母の声がする。その声は、金切り声をわざわざ押し殺していることを伝えようとする声だった。

「ねぇ、ユアンはさ、なんで今日の夜ご飯がわかるの?」

 またこの質問だ。うんざりと答える。

「だから、匂いがするんだって。昨日はなかったでしょ。豚肉。だから今日は豚肉の料理かなって」

「だって、そんな豚肉なんてまだ冷蔵庫にしまったままなのに!!」

 徐々に絶叫しながら母は言った。リビングの扉のガラス越しに母が立っているのが見える。

 僕は急いで扉を開けようとした。待って、僕を怖がらないで。

 扉に手をかけると、辺りが暗いことに気がつく。夜だ。いつもなら僕がとっくに寝ている時間になっていた。

 リビングからはテレビの音と、箸と茶碗がぶつかる音がした。そしていつもと少しだけ違う、洗剤の匂い。

「ねぇ、ユアンなんだけど、最近なんだか怖いの」

 母の声だ。父が適当な相槌を打つ。

「ふーん、どうしたの?」

「今日ね、冷蔵庫の中に豚肉があることを当てたのよ」

「鼻がいいのか。すごいな」

「ちょっと、すごいじゃないの。私なんだか怖いの。まるでユアンが超能力を使ってるみたいで」

「んーに言ってるんだよ。そんなはずないだろ。きっと君を脅かすために一芝居打ってるんだろ」

 と言い、父が笑う。自分の言ったことに笑ったのか、テレビを見て笑ったのか、分からない。

「ちょっと! こっちは本当に気味が悪いんだから!」

 食器がぶつかる音がする。机を叩いたのだろうか。

「おいおい、ユアンが起きたらどうするんだ。って、ユアン、そこにいるのか?」

 と、父が扉越しの僕に気がついた。僕はリビングの扉に背を向け、返事をする。

「うん、ちょっと、お腹が減っちゃって」

「そうか、でもこの時間はもう寝てないといけないよ」

 足音がこちらに近づいてくる。扉がガタンと開いた。

 「なぁ、ユアン、今母さんから聞いたけど、今日の夜ご飯を帰ってすぐに当てたらしいじゃないか。すごいなぁ」

 僕は、何も言わずに続きを聞いた。

「でも、いったいどうやって当てたんだ? 母さん、気味悪がってるぞ。お前が超能力者なんじゃないかって。種明かしして母さんを安心させないと」

 僕はいつまでも黙っている。父さんも母さんもずっと黙っていた。仕方ないので、父さんの顔も見ずに言う。

「ただ、鼻がいいだけだよ。冷蔵庫の中のものが匂いでわかるんだ」

 父さんは最後まで聞かずにまた、少しだけ怖い口調になった。

「だから、本当のことをいいなさい」

「本当なんだ……」

「だから!」

父が怒鳴る。僕は怖い。ただ、嘘じゃないんだ。本当にいろんな匂いを感じるんだ。信じてよ。例えば……

「父さん、いつもと違う石鹸の匂いがする」

 父さんにだけ聞こえる小さな声で言った。

「な、なんだ。脅してるつもりか」

 父も小さい声で、怒りを押し殺して言った。僕の背中を強く叩く。

「もういい。寝なさい」

 待ってよ! 父さんが何処かに消えてしまう気がして、急いで振り返ると、そこには片腕のないラム・シュウがいた。

「気味が悪いかい? 腕が飛んて行っちゃったんだよ。ねえ。これって、誰のせい?」

 ラム・シュウがそう言って、走ってどこかに行こうとする。まって、僕はそんなつもりじゃなかった!

 追いかけようとすると、ラム・シュウの千切れた右腕が僕を掴み、揺らす。

「ねぇ! ねぇ! ねぇ!」

 僕をつかむ力がどんどん強くなる。あぁ、なんでそんなに揺らすの? やめてよ! 手を引き離そうとするがうまくいかない。あまりに強い揺れで気分が悪くなってきた。なんだか様子がおかしい。実家にいたはずなのに、今は別の場所にいる。しかしここはどこだ? 目が霞んでよく見えない。

「この野郎!」

 と女の子の声。次の瞬間、右のほっぺに激痛が走る。ビンタ?

「なに!」

「なに! ってこっちのセリフ。ぼーっとしてんじゃないよ!」

 次第に視界がはっきりしてきた。そして、意識も。どうやら僕は幻覚を見ていたようだ。

「今、どうなってる」

「こっちが聞きたいよ。何で急に棒立ちになったの?」

「モク・ユクは?」

「ちょっと質問に答えてよ。モク・ユクはさっきユアンが目を切って倒れてからそのままじゃん」

 モク・ユクに目をやると、地面に寝転びながら笑いが止まらないようだ。

 どうやら、本当に一瞬の出来事だったようだ。さっきの幻覚は僕の体感よりも早くに終わったらしい。

 また、甘い匂いが鼻をついた。とっさに服を脱いで口に当てる。

「この匂い、嗅いだらまずい」

「え、うん、わかった」

 イトが自分の服を脱ごうするが、それはよくない気がして、僕の服の袖の部分を渡した。二人で一枚の服を使うのは不便だがしょうがない。

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