雨を降らせる話
馬永
雨を降らせる話
夏の雨に出くわすとテルちゃんを思い出す。
「室内での熱中症に注意」は既に世の中の常識になっているようだが、未だに人工の風が好きになれないのと、どうしても電気代が勿体ないという感覚が抜けないために、真夏でも我慢できる限界ギリギリまでエアコンをつけないことが多い。都内の高台にある自宅の窓を開け放して汗だくになりながら、自分もとっくに昔の経験値による判断を頑なに信じる年寄り連中の仲間入りをしているなと苦笑していると、突然、カーテンが揺れ、慌ただしい音が耳に届いてきた。暦の上ではとうに残暑になっているのに、毎日のように繰り返される、バケツどころか風呂桶の底を抜いたような夕立だ。いや、既に夕立という心やさしい響きは過去のものとなり、今では線状降水帯によるゲリラ豪雨という恐ろしい名称に変わってしまった。地面に叩きつけられる雨の雫や雨音からは暴力的なもの、何かしらの怒りのようなものを感じる。
(これは絶対にテルちゃんの仕業ではないな…。)
半世紀近くほど前の話とはいえ、小3の夏休みのことは今でもけっこう覚えている。四国で生まれ育った私はこの年、弟の出産を控えて体調の思わしくなかった母が入院したことで、市内にある自宅から車で1時間ほど、県境の山間部にあった母方の祖父母の家に預けられた。4歳の妹は父と一緒に市内にあった父方の実家に行き、父はそこから仕事場へ通っていたらしい。母の退院までの1ヵ月ほど、一切父親が私の方に顔を出さなかったことを考えると、親戚間でいろいろあったことは今ならば想像つくが、当時の私としては何の状況もわからず、車で1時間しか離れていないとはいえ、とんでもない田舎に一人だけ取り残されたと思っていた。
母の実家には祖父母しか住んでおらず、しかも2人ともまだまだ働いていたので、昼間は私一人になった。自分で言うのは恥ずかしいが、真面目だった私は一人でもきちんと勉強する小学生だった。預けられた翌日から夏休みのワーク、自由研究、工作、作文、ポスターまできちんと一人で、黙々とこなした。午前中の勉強を計画通りに終わらせ、正午になると祖母が用意してくれた昼食を食べながらTVで夏休みならではの特集、視聴者から寄せられた恐怖体験をドラマで再現する『あなたの知らない世界』を観て、「一人で観るんじゃなかった」と後悔しながら食器を洗うというのが日課になった。
最初の日、食器を洗い終わってふと困った。午後からやることを思いつけない。何しろ、家の中に「勝手知ったる」が何もないのだ。こうなると自宅より圧倒的に古く、広い木造のこの家が急に恐ろしくなったりする。先ほど見た『あなたの知らない世界』のせいもある。友達もいないし、当然行く宛もなかったが、今度は本当に『知らない世界』をぶらぶらすることにした。
歩いてすぐ行ける距離に神社があることを発見したのは、預けられて2、3日目だったと思う。道路から見て東に伸びる、舗装されていないゆるい坂道の先に鳥居が見え、さらに向こうには木々の間から石の階段が見えていた。自宅のある市内でも神社は珍しくはない。毎年の初詣は家族で歩いて行ける大きな神社に行っていたし、自宅にいたら毎朝参加していたはずのラジオ体操の集合場所は近所の小さな神社だった。そうした知っている神社の鳥居に比べ、見つけた鳥居はさらにかなり小さなものだったが、それをくぐった先の石段は、下に立ってもまだ終点が見えないほど、予想以上の長さと角度で上へ続いていた。揺れる木漏れ日に引かれるように息を弾ませながら、苔むした石段を登ってみる。全身から汗をかきながら上へ上へ。急に、あれほど生い茂っていた木々たちがそこだけポッカリとない空間が広がった。眩しさでくらんだ眼が慣れてくると、正面にお社が見えた。手洗い場やお守り・おみくじ売り場の類は一切なく、人の気配も全くない。お社だけがそこに圧倒的に存在していた。
「やめて」
突然聞こえた声に飛びあがるほど驚いた。
すっかり辺りを散策した私はいつのまにお社の縁の下に潜り込み、そこに無数にあったアリジゴクの巣にまず驚き、次にその辺りをウロウロしていたアリを捕まえようとしてそのアリの大きさに驚き、めったやたらにアリをアリジゴクの巣に追いやっていたところだった。
縁の下に座り込んだまま顔を上げると、お社の縁に、にょいと突き出されたひざから下の2本の素足と、その素足の間に下をのぞき込んで逆さになっている丸い顔が見えた。声の主は裸足で縁から飛び降ると、こっちに振り向いた。逆さだった顔がまともになった。
「やめて」
子どもだった。背丈は当時の私と同じくらいか。男の子か女の子かはわからない。髪は短くも長くもないおかっぱ頭で、私が見たことのない真っ白い服を着ていた。その子が私の目をまっすぐに見ながら続けた。
「アリジゴクはアリを食べる。アリは逃げる。どっちもいい。」
声は口から発せられているというより、頭の中に直接聞こえてくるような気がした。
言っている意味はよくわからなかったが、自分が何となくいけないことをしているという負い目はあったので、自然と言葉が出た。
「ごめん。」
「ううん。なら、いい。謝れる子、いい子。」
そして、私はテルちゃんと毎日遊ぶようになった。テルちゃんが何歳で、どこに住んでいて、どうして一人で神社にいて、そもそも男の子なのか女の子なのか、今思えば不思議なのだが、全く聞いてみる気にもならなかった。そういえば、なぜ「テルちゃん」という名前を知ったのだろう。聞いた記憶はないのに。しかも、「てるちゃん」ではなく「テルちゃん」だという確信がある。
「テルちゃんと遊ぼう」と思って神社に行き、縁の下にもぐりこむ、しばらくするとテルちゃんが上からぴょんと飛び降りてくる。2人でニヤッと笑いあったら、あとはテルちゃんの後をついて回るだけでよかった。カブトムシやクワガタムシがいる木、スズメバチにあっちにいってもらうおまじない、蚊がよってこなくなる葉っぱの汁、お腹がすいたら食べるグミの実、のどが渇いた時に飲める湧き水の場所…全部、テルちゃんが教えてくれた。テルちゃんは言葉少なめだったが、目を見ると言っていることはわかる気がした。
何日くらい経ったろうか。夕方近く、2人で山頂近くのブナの木に登って、太い枝に並んで腰かけて空を見ていると、テルちゃんが西の空を指さした。
「あの雲、見てて。」
遠くには大きな入道雲がそびえるように沸いていて、手前にはいくつかの小さな雲が漂っている。テルちゃんが指しているのはそのうちの一番小さい雲だった。
「あの雲が何?」
「ふん」
私が聞くと、テルちゃんはニタリと笑って、雲に向かって指をちょいちょいと動かしだした。その動きに合わせて雲が動いているように見える。
「えぇ~!テルちゃん、雲を動かせるの!?」
「ふふん。」
次にテルちゃんは手を右に大きく降り始めた。すると小さい雲は明らかに他の雲と反対の方向、テルちゃんが手を振る方へと動き出し、ついにはそこにあった別の雲と一緒になってしまった。
「すごい、すごい、すごい!もっともっと!」
「ふふふん。」
驚いた私がせがむのに気を良くしたのか、その後もテルちゃんは手前にあったいくつかの小さな雲を動かし続けて、しまいにはとうとう一つの大きな雲ができあがってしまった。
「あ!しまった。」
テルちゃんは小さくつぶやくと手を止め、急に私の方へ向き直した。
「もうすぐ雨が降る。」
「え、こんなに晴れてるのに?」
「でも優しい雨。優しい雨は大丈夫。」
「優しい雨?」
「そう。すぐ止む。止んでから帰れ。」
そうこう言っているうちに、急に雨が降り出した。空は晴れたままとはいえ、結構な雨足だ。雨の匂いがする。空を見上げていた私が顔を降ろすと、横にいたはずのテルちゃんの姿はもうそこになかった。そして、テルちゃんの言う通り、優しい雨はすぐに止んだ。
その翌日もテルちゃんと会ったのか、自宅に帰る前にさよならを言えたのか、記憶にはない。弟が生まれて自宅に帰ったのは、夏休みも残り少なくなっていた頃だ。その後、1年に1度あるかないかの頻度とはいえ母の実家に行く度にあの神社の縁の下やブナの木に登ってテルちゃんを待ってみたが、あの夏以来、会えたことはない。ただ、テルちゃんが教えてくれたカブトムシがいる木や湧き水の場所はそのままだった。
残暑も残りわずかとなった。テルちゃんのことを思い出す度に、たまには帰省してみようかという気になる。が、もう何年も叶えていない。
あの神社の縁の下は今もあのままだろうか。優しくない雨はまだ止みそうにない。
おわり
<あとがき>
知り合いから聞いた話、なので実話だったりします??最初に話としてまとめたのは20代で、構想としては随分前からあったわけですが、今回、20年ぶりに改めて書き直してみたところ、『天気の子』にすっかり先を越されてしまいました。(次元が違いすぎますね、はい。すみません。)
『あなたの知らない世界』というのは私が子供の頃、毎年夏休みのお昼に放送されていた、心霊研究科の新倉イワオさんが解説者として登場する番組です。視聴者の体験談を再現ドラマにして数本ずつオムニバス形式で流すという、いわば『世にも奇妙な物語』の走り。決して怖い話ばかりでなく、ほっこりするものもありました。元ネタはアメリカのTV番組『アメージング・ストーリー』かも(映画化もされました)。
雨を降らせる話 馬永 @baei
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