第6話

「リコ? どこか具合悪いの」

 

 翌朝、自席で伏せっていた李心を心配して声をかけてくれたというのに、七海のことを正視すらできなかった。


「大丈夫だから、しばらく一人にして」


 七海が誰と何をしようが李心にどうこういう権利なんてない。でも、李心がシマ唄から距離を置きたいということを、彼女は誰よりもよく知っているはずだ。

 なのに、七海が唄者の英梨奈と、しかも自分に内緒で会っているということに、李心の心は重くとげとげしく、やり場のない苛立ちが膨らんでいく。


 昨日は絶対に七海を連れてこようと思っていたあしびばにも、結局また一人でやってきた。きっと店長に李心は友人がいないと思われることだろう。

 その通りだ。入学してひと月以上たつというのに、七海以外の生徒とはまともに会話もしていないのだから。


 路地を曲がったところで、ビルから李心とは違う制服姿の女子二人組が出てきた。その片方が、まるで珍しい動物にでも遭遇したかのような驚きの声をあげた。


「リコ? リコだよね!?」


 髪が少し伸びていたけれど、そこにいたのは李心のかつての親友、沙織だった。

 李心の心臓がどくんと強く跳ねる。鼓動がノミを振り下ろすように、李心の心を削り取っていく。


 ――やっぱりお祖父さんが偉大な唄者だと得だよね――


 脳裏にまたあの声が甦る。


「久しぶり! リコ、名瀬高だったんだ? 髪もショートにして雰囲気変わってたから、一瞬気づかなかったよ。リコは今年もグランプリ予選に出るんでしょ?」

 

 島唄グランプリ。

 その言葉が李心の胸の奥に得体のしれない重量でのしかかる。李心は俯き、口を一文字に結んで、おろした両手を握りしめた。

 李心と沙織たちの間に空白が生まれる。それはすぐに商店街の喧騒に溶けた。

 李心は顔をあげると、鋭い視線を沙織にむけて、怒りを突き抜けて悲しみをはらんだ声でいった。


「どうして、沙織はあたしがグランプリに出られるって思えるの? 沙織がどんな風に私の唄を聴いていたのか、なにも知らないままあたしはずっと一緒に唄ってきた! それを、沙織は……!」

「ちょっと待ってよ! どうしたのよリコ!? わたし、リコになにかした?」

「……まさか、覚えてないの!?」


 李心からシマ唄を奪った一言が、沙織の記憶にはかけらも残っていない。

 その苛立ちが李心の心を黒く焦がしていく。こらえようと思っても、悔しさや悲しさでぼろぼろと大粒の涙があふれてくる。

 李心は手の甲で目元をぐいっと乱暴に拭いながら、もう一度沙織の顔をじっと見据えた。


「……あたしは、もうシマ唄を唄うつもりはないよ。唄えばあたしの大切なものが壊れてしまう。唄はあたしの大切なものを奪っていく。だからグランプリにも出ない」


 島唄グランプリという唄者たちの目標であり、栄誉とされる舞台との決別を告げるように、そういい放って踵を返した。


「待ちなさいよ」


 怒気をはらんだ声が、李心を呼び止めた。

 李心は立ち止り、ゆっくりと振り返った。沙織の隣にいた女子生徒が李心を睨みつけている。

 彼女のくるんと丸まった髪が通りを抜ける風に踊るように揺れている。


「南李心。去年の島唄グランプリ、ジュニア部門の最優秀賞の受賞者よね。私の名前は福山ふくやま千尋ちひろ、覚えてるかしら?」

「……さあ、どこかで会いしまし……っ!」

 李心がいい終わる前にパシンと乾いた音が鳴った。

 頬に熱を持った痛みが走る。衝撃を受けたほうへ首をむけると、そこには平手をかざしたまま唇を噛みしめる千尋が立っていた。


「私は、去年のジュニア部門で奨励賞を獲ったわ……でもあなただって、そんなこと覚えていないじゃない! それなのに、自分の思い出ばかりを押し付けて、不幸のヒロイン気取り!?」


 李心と千尋の鋭い視線がぶつかった。アーケードの天井に据え付けられたスピーカーから、暢気な声でお買い得情報が連呼されていて、二人の間の張り詰めた空気にひどく場違いだった。


「やめて千尋!」


 沙織は千尋の体にしがみつき、二歩、三歩と後退って李心と距離をとった。


「ごめん、リコ。大丈夫だった?」

「別に平気だから。それじゃあ」


 リコはくるりと回れ右をする。その後ろ姿に、千尋は沙織の腕の中でもがくようにして叫んだ。


「逃げないでよ! あのとき、盗み聞きしたんでしょ? 私と沙織の会話」


 李心は足を止めて振り返った。


「……廊下まで会話がきこえてきただけ。盗み聞きしたんじゃないから」

「だったら話が早いわ。あなたの唄よりも、沙織のほうが上手だといったのも私よ。だってそうでしょ。私はあなたが彼女と唄うずっと前から、一番を目指して、沙織と何度も挑戦をしてきていたの。でも私たちが何年もかけて目指してきたその座を、ジュニア最後の年、突然現れたあなたがあっさりと奪っていった!」

「……あたしだって、じいちゃんのコネで賞を獲ったわけじゃない!」

「そんなこと、いわれなくてもわかってるわよっ!」


 千尋が叫ぶ。沙織が「もういいから!」と千尋の肩を抱いて必死に止めようとしていたが、千尋の感情は壊れた水道管のように、とめどなく溢れ出る。


「そんなことわかってる! でも、そう思わないとやりきれなかった。私たちの時間はなんだったのって。沙織はそんな私の気持ちを汲んで、慰めようとしてくれた。あなたを貶めるつもりでいったんじゃないわ!」


 沙織の腕に力が加わり千尋を抱きしめると、彼女は少しずつ声のトーンを落としていった。


「だってあのとき、沙織はいったのよ。『でもやっぱり、リコのほうが上手だった。ちょっと悔しいけど、最優秀賞の椅子は、来年、ちゃんと実力で取り返してみせる』って。そして、『おめでとう』をいうために、楽屋であなたが戻ってくるのをずっと待ってた! 待っていたのに、あなたは戻ってこなかった! あなたこそ、沙織を傷つけていたこと、全然自覚していないじゃないの!」


 嗚咽が混じった千尋の声が刃となって李心の心を切りつけた。

 あのとき、耳に届いていたのは、沙織の千尋にむけた慰めの言葉の一部。自分はその一部分だけを切り取ってひとりで傷ついていた。けれどそのとき、李心もまた沙織のことを深く傷つけていたのだ。


 驚愕と困惑、そして深い悲しみと後悔とをごちゃまぜにした視線で、李心は沙織を見た。


「もう、しょうがないな、千尋は」沙織は困ったように笑う。

「沙織……あたし、あのとき……」


 指が震えている。その手で声にならなかった吐息を受け止めるように、李心は顔を覆う。


「軽はずみな言葉で、千尋を慰めようとしたから……ごめんね」

「だって……あたしのほうこそ、沙織のこと、何もきかずに……勝手にじいちゃんのことを……ごめん……本当に……」


 最後は言葉にすらならない嗚咽が漏れるだけだった。

 涙が指から伝い落ちる。そんな李心の姿に、沙織は千尋を抱きとめていた腕をそっとほどくと、柔らかに目を細めた。


「ねえ、リコ。もう一度、舞台に出てみない?」

「でも、あたしは……沙織のことを傷つけたのに、そんな都合いいこと……」


 すると、千尋が不機嫌そうにいった。


「いいじゃない。ジュニア部門最優秀賞。偉大な唄者の孫。それでもう十分でしょ。けど、私も沙織ももっと上手くなる。里英梨奈だって超えてみせる」


 ――里英梨奈。

 その名を聞いて、李心の脳裏には七海の姿が浮かんだ。英梨奈と親し気に話していた七海。彼女もまた英梨奈の唄に魅了され、彼女を目標にするのだろうか。


「ごめん、リコ。でも、やっぱりわたしはまたリコと唄いたいよ。島唄グランプリの舞台の上で」

「でも……あたしには、もう一緒に唄う人はいないから」

「大丈夫だよ、リコ」


 沙織が笑った。

 それは出番直前の舞台袖で、ガチガチに緊張していた李心にむけて、微笑みかけたときと同じ、陽だまりのような笑顔だった。


 ――大丈夫だよ、リコ。大好きなお祖父さんに届けるつもりで唄えばいいんだから――


 そうだ。あのとき、沙織がそういってくれたから、あたしは舞台で最後まで唄い切ることができたんだ。どうして、そんな大切なこと忘れていたのだろう。


「シマ唄は縁を紡ぐから、きっとリコにふさわしい相方が見つかるよ。だから、お互い頑張ろう。わたしたち、親友からライバルになったんだから」


 沙織は李心の手を包み込むように両手で握った。

 やがて、放心状態の李心からそっと両手を離すと、沙織は「じゃあ、またね」といい残し立ち去ろうとした。はっと我に返った李心はその背中にむけて、大声で叫んだ。


「沙織、ありがとう! グランプリのとき、そばにいてくれたこと……あたし、まだお礼いえてないままだったから!」


 沙織は振り向く。

「おめでとう! わたしも、まだ伝えてなかったから!」

 

 二人の後ろ姿を見送る李心の指先には、微かに沙織の体温が残っていた。

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