6.告解
あの日から紅君が夕方に私を迎えにくることはなくなった。
まるで自分を追いつめるように宣言していたとおり、どうやら本当に学校へも通っていないらしい。
「紅也は退学するって言ってるんだけど……さすがにそれは……もし気が変わってやっぱり通いたいってなった時、簡単にもとに戻れるものではないでしょ? だからしばらくは様子を見る……ひょっとしたら休学かな?」
何があっても変わらずに私が働く弁当屋を訪れる蒼ちゃんは、私を責めはしなかった。
私と紅君の間に何があったのか、知りはしなくても薄々感じているだろうに、それをどうこう言う人ではない。
変わらずに向けられる笑顔が苦しかった。
「ごめんね……千紗ちゃんにもいろいろと力になってもらったのに……」
ふいに謝られるから慌てて首を振る。
力になるどころか、紅君に助けられていたのは私のほうだ。
困った時は、いつも助けてくれた。
何度も守ってくれた。
そう思うだけで、また泣きそうな気持ちになる。
「もしまた紅也が学校へ行くって言いだしたら……その時はよろしく、先輩!」
明るくかけられた声に、頷くことはできなかった。
さすがにもうできなかった。
「私、蒼ちゃんに謝らないといけないことがある。そして聞いてもらいたいことも……」
足元に伸びる自分の影を見つめたまま重い口を開くと、蒼ちゃんがふうっと大きな息を吐いた。
らしくない溜め息に驚いて顔を上げると、優しい顔で私を見下ろしてくれていた。
「うん、待ってた……いつか千紗ちゃんからそう言ってもらえるのを……ずっと待ってた……だからそんな顔しないでいいよ……嬉しいよ……」
こういうふうに、蒼ちゃんはいつもかけ値なしの優しさを与えてくれる。
私などに惜しみなく与えてくれた。
その蒼ちゃんに、これ以上秘密を抱えなくていいのだとほっとする。
安堵して涙が零れ、自分がこれまでどれほどそのことを苦しく思っていたのかを、改めて自覚した。
「私がこの町に来る前に住んでいたのは、紅君が育ったあの街……そして私たちは同じ小学校に通う同級生だった……」
そういう爆弾発言から始まる昔話を、蒼ちゃんはひどく驚いたりはせず、穏やかに聞いてくれた。
私が言葉に詰まった時は助け舟を出してくれるし、言いにくいことはさらりと先に口にしてくれる。
あいかわらずの心配りがありがたかった。
「そっか……紅也と一緒に事故に遭った女の子って、千紗ちゃんだったんだ……どうりであの街でいくら探したって見つからないわけだ……」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい!」
膝につきそうなほど深々と下げた頭を、ポンと軽く叩かれた。
内心、蒼ちゃんがそういうふうに私に接してくれることはもうないだろうと思っていたので、ひどく驚いた。
(…………え?)
「謝らなくっていい……本当は思い出すのだって苦しいでしょ? なのに僕に話してくれた……それが嬉しいよ。ありがとう……だから千紗ちゃんは余計なことは気にしなくっていい」
「蒼ちゃん!」
驚いて顔を上げると、やはりいつものように笑ってくれている。
思わずその笑顔に手を伸ばして縋りつきかけ、私はそういう自分を慌てて諫めた。
(ダメだ……ダメ)
「でも……そっか……そうだったんだなあ……」
蒼ちゃんは苦笑しながら、自分のボサボサの髪に手をつっこむ。
ギュッと両目を瞑り、前髪をかき上げながらそのまま空を見上げた。
これほど動揺した蒼ちゃんを見たのは、初めてだった。
そう思ったから――気がついた。
そういえば出会った時からほぼ、私は蒼ちゃんの笑顔以外の顔を見ていない。
まるで生まれた時から笑顔だったかのように、いつも優しく笑っている人だから、不思議に思わなかったが、考えてみればおかしな話だ。
(いくら蒼ちゃんだって、嫌なことや辛いこと、悲しいことだってあるはず……なのにいつも笑顔だなんて……)
無理していたのだろうと思う。
いや、無理をさせていたのはおそらく私だ。
「ごめんなさい、蒼ちゃん……」
声に出して言うと、蒼ちゃんが私へ視線を戻した。
ぶ厚い眼鏡の向こうから私を見つめる優しい瞳。
いつ見てもそれだけは紅君とそっくりだ。
私がそういうことを考えてる間も、蒼ちゃんは苦しさを滲ませながら――やはり笑っている。
「謝らなくっていいって……千紗ちゃんには絶対に譲れないものがあるって、僕はちゃんとわかってたんだから……どう? たいしたものでしょ? ……でも、紅也に対しては態度が違ったから、ああ僕じゃダメなのかな、なのに紅也ならいいのかななんて、みっともなく落ちこんだりもしたけど……そっか……最初から紅也だったんなら納得だ……千紗ちゃんの譲れないものってあいつだったんだなあ……」
「蒼ちゃん……! 私……」
私が蒼ちゃんに惹かれていた気持ちは嘘ではない。
このまま彼の隣にいようと、一時は本気で思った。
以前自分が紅君にしてもらったように、蒼ちゃんの力になりたいと願った想いは、確かに本物だった。
ただ、やはりそれでも紅君が私にとって特別だった。
そうしようなどと頭で考える間もなく、自然と体が動いてしまった。
だから蒼ちゃんが自分を卑下する必要などない。
できることなら『私は蒼ちゃんのことも大好きだ』と言ってしまいたい。
しかしそれは絶対に口にしてはいけない言葉だ。
「紅也に本当のことを話さなくていいの?」
とても悲しそうな瞳で、それなのに表情だけは無理に笑顔を作り、どうして蒼ちゃんは私のことばかり気にするのだろう。
もう放っておいていいのに、知らんふりしていいのに、それでも気遣ってくれる。
「うん……前に蒼ちゃんが言ってたのと、私も同じ気持ちだから……思い出しても辛いことが多いから、紅君には思い出してほしくない」
蒼ちゃんは詰めていた息を少し吐いた。
「ありがとう……ごめんね……あいつにとって千紗ちゃんは、きっと特別だったんだろうにね……そして千紗ちゃんにとっても……でしょ?」
いつの間にか固く組まれていた蒼ちゃんの両手が、小さく震えている。
まるで祈るような格好で胸の前に組まれたまま、カタカタと震えていた。
「蒼ちゃん……」
だめだ、私のほうが、もう胸が痛くてたまらない。
これほど優しく、愛情に溢れた人を、どうして私は傷つけることしかできなかったのだろう。
初めから背を向けていればよかったのか、深く関わらないようにすればよかったのか、後悔ばかりが募る。
紅君ともう一度ひきあわせてくれたのは蒼ちゃんだ。
感謝のしようもないのに、私は何も返せない。
彼が望んでいたものは何か――よくわかっているのに、それは決して与えられない。
「蒼ちゃん……」
「千紗ちゃん!」
私の呟きと、蒼ちゃんの叫びが重なった。
蒼ちゃんは深く俯き、私へ背を向ける。
「ごめん……ちょっと、今はもう無理だ……今度会う時はきっといつもどおり笑うから……笑えるようになってるから……だからごめん……」
蒼ちゃんが何を言いたいのかはわかる。
ひょろりと背の高い背中が、小刻みに揺れている。
それは私が見てはいけない姿だ――蒼ちゃんがおそらく誰にも見られたくない姿だ。
だから私は蒼ちゃんへ背を向け、駆けだした。
「ごめんなさい……蒼ちゃん!」
懺悔の言葉だけ、彼の傍に残すように叫び、その場から逃げた。
涙は止まらなかった。
当然だ。
あれほど自分を大切にしてくれた人に、酷いことをした。
酷いことしかできなかった。
たとえ蒼ちゃんが、次に会う時は平気な顔をしてくれても、何事もなかったかのように笑いかけても、自分で自分が許せない。
もう許せない。
(会えないよ……! もう蒼ちゃんにも……紅君にも会えない!)
おそらくそれがいい。
私は紅君に記憶をとり戻して欲しくはないし、蒼ちゃんをこれ以上傷つけたくもない。
ましてや、私のせいであの仲のいい兄弟の関係がおかしくなってしまうのは、絶対に嫌だ。
(私が一人……いなくなればいい……)
そう決意して、叔母たちが営む小さな弁当屋へ駆け戻った。
夜間高校を卒業して大学に合格したら、叔母たちの家からは出ようと、もともと思っていた。
母が残してくれた貯金や保険金を使い、自分でアルバイトもして、一人で生活する。
二年半後に実行しようと思っていた一人暮らしが、少し早くなったと思えばいい。
しかし、一人で住みたいと申し出た私に、叔母はいい顔をしなかった。
「そりゃあ、私たちのところが嫌で仕方がないって言うんだったらしょうがないけど……そうじゃないだろ?」
「そんなことはない! 絶対にないよ!」
「だったらここに居な。店も家もぼろで、うちは貧乏だし、学校にも遠いけど……千紗が寂しくなった時、私たちは一緒に居てあげられる。あんたに必要なのはそういうことだよ」
「叔母さん……!」
涙が溢れた。
叔父と叔母は口調が丁寧なわけではなく、態度も荒っぽい。
しかし私がここへ来た当初から、惜しみなく愛情を注いでくれた。
それはよくわかっていた。
以前に一度だけ、叔母に話してもらったことがある。
叔母夫婦は望んでも子供が持てなかったのだそうだ。
だから行き場のない私のことを、『章兄さんがくれた私たちの子供だ』とすんなり受け入れてくれた。
これ以上なく大切に守ってくれた。
「ちょっと気分を変えたいんだったら、ニ、三日友達のところへでも行っておいで。自分じゃわからないだろうけど、あんたずいぶん思いつめた顔をしてるよ……千紗。そんな時に焦って答えを出したって、あとで後悔するだけだ……ゆっくり考えて、それでもやっぱりここを出て行きたいって思ったなら、またそう言いな。話はそれからだ」
「うん、わかった」
愛情いっぱいの叱責に感謝し、店を出ようとしたら叔父に呼び止められた。
それまで黙って私と叔母の話を聞いていた叔父は、ビニール袋に入った弁当を私に掲げてみせた。
「弁当持ってけ、千紗。友達のぶんも二つ。お世話になりますって、ちゃんとお礼言うんだぞ」
「うん」
本当の両親と言ってもいいほど、真剣に私と向きあってくれる二人にひき取られ、私は本当に幸せだったのだと、改めて実感した。
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