第三章 蒼色の慈雨
1.新たな日常
「いらっしゃいませ」
古いガラス扉がガラガラと左右に引き開かれる重い音に、私は反射的に顔を上げ、同じ言葉をくり返す。
扉から入ってくる買いもの客は、時に初めての顔で、時によく見慣れた顔で、いくつかの決まったメニューの中から好きなものを注文する。
出来上がるまでの短い時間を過ごす店内は、腰かける場所さえないほどに狭い。
商店街の外れの小さな弁当屋――そこが十二歳からの私の居場所だった。
父の従兄妹だという叔母夫婦は、優しい人たちだった。
不幸な事件で母を亡くした私を、深くは詮索しないでそのまま受け入れてくれた。
「何もしないで居候しているのは、千紗ちゃんだって居心地が悪いだろうから」と時々は家業の弁当屋を手伝わせてくれ、こんな私でも少しは役に立つのだという自負も与えてくれた。
叔母たちのもとから、知りあいは誰もいない小学校と中学校へ通い、私は十六歳になった。
友達は一人も作らなかった。
自分のことを話さず、休み時間になるとふらりと教室からいなくなる転校生を気にかけ、声をかけてくれる子も、都会とは違いこの小さな町には多かった。
でもいつまで経っても馴染もうとしない私と、クラスメートの間の溝は、時が経つにつれ深くなるばかりだった。
人と交わるのが面倒だったわけではない。
話しかけてもらえるのはうれしかったし、優しい子たちに囲まれているのは、正直幸せだった。
だが楽しいことや面白いことがあると、すぐ考えてしまうのだ。
――あの子たちは今どうしているのだろうと。
『希望の家』がなくなり、そこで暮らしていた子供たちはバラバラに違う施設へひき取られた。
中には暴力が原因で別に暮らしていた親と、再び暮らすようになった子もいる。
(鈴ちゃん泣いてないかな……和真君は新しいお母さんとうまくいってるんだろうか?)
本来なら園長先生のもとで、まだみんな一緒に暮らしていただろうと思うといたたまれない。
(いつか……いつかみんなを訪ねて、一人一人に謝りたい)
それが私の心からの願いだった。
そして――。
(いつか私も、園長先生のように行き場のない子供たちの避難場所を作ってあげたい)
いつしかそれが、私の生きる理由になっていた。
そのために、もともとは行くつもりのなかった高校にも、夜間ではあるが通うことにした。
大学に進学し、福祉や教育について学ぶ。
そしていつか園長先生のように、本当に子供たちを思いやれる施設を開く。
そのために母が残してくれた貯金にも保険金にも、なるべく手をつけなかった。
あれほど傷つき、もう一歩も踏みだせないと思った事件から四年。
私は背中に十字架を背負いながらも、一歩ずつ小さな歩幅で、確かに前へ進もうとしていた。
「いらっしゃいませ」
私が弁当屋の店頭に立つ夕方に、店を訪れる客の半分は常連客だ。
「千紗ちゃん、いつものやつ」
「はい」
仕事帰りのサラリーマン。
二人暮しの新婚夫婦。
母のように女手一つで小さな子供を育てているシングルマザー。
特別な会話をするわけではないが、毎日のように同じ顔を見るのが習慣になると、来店のない日には「今日はどうしたんだろう?」と心配したりもする。
そういう中でも彼は特別だった。
毎日決まった時間に、毎日同じ弁当を三つ買いに来る若い男の人。
叔母さんと彼の会話で、最近近くの診療所へ赴任してきた医師の息子なのだと知った。
「父は、医者といっても雇われ医師だから安月給で……そのうえ僕が大学に進学したばっかりで、うちって実は、かなり貧乏なんです」
ボサボサの髪を雑にかき上げながら、大きな眼鏡越しに屈託なく笑うその人は、言葉とは裏腹にいつも笑顔だった。
野暮ったい大きなシャツを着て、いまどき珍しいぶ厚い眼鏡をかけた細身の青年。
どちらかといえば無愛想に店頭に立つ私にも、躊躇なく笑いかける。
「千紗ちゃん、今日もお得弁当三つね」
いつもどおりの注文に、仕切りの向こうの厨房から叔母が声をはり上げた。
「蒼ちゃん! 野菜も食べないといつか具合が悪くなるよ! あんただって医者の卵なんだろ? 千紗、私のおごりでいいから今日はサラダもつけといて!」
「はい」
頷いた私を慌てて両手で制し、その人――蒼之さんは急いで鞄から財布を取り出した。
「待って千紗ちゃん! お金ならちゃんと払うから! いやあほんと、小母さんにはかなわないなあー」
人の良すぎる笑顔でにこにこと笑う蒼之さんは、毎日休みなく働いている父親を少しでも助けるため、自分も医師を目指しているのだといつか語っていた。
おそらく患者や看護師に怒られても、こういうふうに笑っている優しい医師になるのだろう。
(うん……ぴったりだな……)
財布の中身を必死に探っている様子を頭の上から見ていたら、ふいに上目遣いに視線を向けられ、ドキリとした。
「なに? どうかした?」
いつもぶ厚い眼鏡に隠されている蒼之さんの目は、眼鏡のない位置から見ると私のよく知る人に似ていた。
――どんなに忘れようとしても、決して忘れられない人――紅君。
「なんでも……」
あわてて視線を逸らすと、その先にわざわざ移動してまで顔をのぞききこまれる。
「千紗ちゃん……?」
どちらかといえば面長の顔も、細すぎるほどに華奢な体つきも、真っ黒で硬そうな髪も、蒼之さんはまったく紅君に似ていない。
だが時々ちらりと見える目元だけ、いつも笑顔なところと、相手の心の機微に敏感なところだけ、とてもよく似ている。
「なんですか?」
失礼にならない程度にぶっきらぼうに答える私にも、蒼之さんの笑顔は崩れない。
「うん……なんでもない。また、明日ね……」
にっこり笑ってうしろ手に手を振る姿が、また忘れられない少年のそれと重なり、私はブルブルと首を横に振った。
「千紗……?」
叔母が訝しげに問いかける。
どうやら私の様子がおかしいと察してくれたらしい。
私の周りにいる人はどうしてこれほど優しいのだろう。
私自身は何も恩を返せないどころか、迷惑ばかりかけているというのに。
「もうすぐ学校に行く時間だろ? 今日はもう上がりな……一人でも面倒臭がらずにちゃんとご飯食べるんだよ? あんただって蒼ちゃんと変わんないくらい、食事には無頓着なんだから」
「……はい」
叔母が苦笑する気配を背後に感じながら、私はつけていたエプロンを外した。
夕食用にと叔母がくれた弁当を持って店から出ると、裏口近くの塀の横に、その蒼之さんがしゃがんでいた。
「あーあ、そんなにがっつくなよ……今日はちゃんとたくさん持ってきたからさ……」
背中越しにのぞいてみると、五匹もの野良猫が彼の前に集まっていた。
買ったばかりの自分の弁当は塀の上へ置き、彼が手にしているのは煮干しの袋だろうか。
にゃあにゃあと懐っこく鳴く猫に、まるで人間相手のように自然に話しかける背中を見ていると、思わず頬が緩む。
(本当に優しい人……きっと誰が見ていても見ていなくても、変わらずに優しい人……)
気がついたら蒼之さんが、しゃがんだ体勢のまま、私をふり返っていた。
「千紗ちゃん……!」
にっこりと笑いかけられ、逆に私の表情は凍りつく。
笑顔の作り方は、四年前のあの日に忘れた。
大好きだった紅君の笑顔を思い出せば思い出すほど、私自身は笑えなくなる。
どことなく紅君と印象が被る蒼之さんの笑顔は、私にとっては見ているだけで心がひきつるようだった。
「もう今日は帰るところ? これから学校?」
「はい」
私が笑うのを苦手なことも、尋ねられなければ決して自分からは口を開かないことも、全部わかっているかのように蒼之さんは接してくれる。
それが、彼は本当に優しい人なのだと思うところであり、きっと良い医師になるだろうと思う所以でもあった。
「ここで猫を集めてたらやっぱダメかな……お弁当屋の裏だもんね……」
私の出てきた裏口と、幸せそうに煮干しをほおばる猫たちを代わる代わる見ながら、蒼之さんは申し訳なさそうに頭を掻く。
私はゆっくりと首を振り、彼の隣にしゃがみこんだ。
「大丈夫ですよ……叔母さんも叔父さんも野良犬や野良猫を放っとけない優しい人だから……行く宛てのない私を拾ってくれたみたいに……」
「千紗ちゃん……」
呼びかけられてはっとした。
穏やかな蒼之さんの雰囲気に安心し、つい錯覚を起こした。
まるで紅君の隣にいた頃のような感覚で、余計なことを話してしまった。
「私……!」
立ち上がって急いで背を向け、走り出そうとしたら背中に声がかかった。
「千紗ちゃん! 実際三つ年上なわけだけど……ごらんのとおり僕は頼りないし、君ほどしっかりもしてないから、『さん』はいらないよ……敬語もいらない!」
ふり返ると蒼之さんも私と同じように立ち上がり、こちらを見ていた。
提案はしたものの落ち着かない様子で、困ったようにこちらを見ている姿は、確かに彼が言うようにあまり年上らしくはない。
だからといって「さん」づけでないなら、いったい何と呼べばいいのだろう。
「蒼ちゃん……?」
叔母が彼を呼んでいるままに呼びかけてみると、蒼之さんがにっこり笑った。
それは、私が思わずドキリとせずにはいられない、紅君にどことなく似た満面の笑みだった。
「うん。それでいいよ。千紗ちゃん……」
紅君を初めて名前で呼んだ時の焦りと緊張が、その瞬間、私の胸に甦った。
ありありと甦った。
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