2.サヨナラ
私にとって何よりも大切な約束を、紅君と交わしたあの日――私は全てを失った。
抱きしめてくれる腕も、注がれる優しい眼差しも、さし伸べられた手も。
ようやく手に入れたと思った未来への希望は、何もかも無残に打ち砕かれた。
他の誰でもない。
私自身のせいで――。
火事になった『希望の家』へと向かう途中で交通事故に遭った私と紅君は、結局、園へ辿り着くことはできなかった。
澤井に放火された古い木造の建物は、あっという間に火が燃え広がり、中にいた子供たちの生存は、一時、絶望的とも見られたらしい。
しかし子供たちと一緒に火の中にとり残された園長先生は、決して諦めなかった。
最初の二人を両腕に抱えて火の海から出てくると、すぐにまた全身に水を被り、火の中へ戻ったという。
何度も何度も――。
園長先生の手によって子供たちはみんな助け出され、結局、その火事では誰一人傷つかなかった。
消防車の到着と同時に、精根尽き果てて倒れた園長先生を除いては――。
全身火傷だらけで走りまわった園長先生は、そのまま帰らぬ人となった。
救急車で搬送されていく先生に、『希望の家』の子供たちは泣いてすがり、それはそれは可哀相だったと、あとになってその場にいた人から聞かされた。
私も涙が止まらなかった。
子供たちにとっては唯一無二の存在。
私にだって「辛かったらいつでも私のところへいらっしゃい」と手をさし伸べてくれた大切な人。
(なんでこんなことになってしまったんだろう……!)
そう思えば思うほど、私は自分を責めずにはいられなかった。
澤井に刺された母も、意識が戻ることなく亡くなった。
背中の裂傷と何箇所もの骨折で、三日三晩生死の境を彷徨った私が目を覚ました時には、もう何もかもが終わっていた。
誰にもお別れを言うこともできなかった。
私よりもひどい容態で病院へ運ばれた紅君は、事故を知って訪ねてきた彼の実父により、自宅近くの病院にすでに転院させられていた。
彼がどこへ行ったのか、私には知る術がない。
いや、知ろうと思えば担当の医師にでも、尋ねることはできたのかもしれない。
でも私はそうしなかった。
どう考えても、園長先生と紅君がこういう酷い目に遭ったのは私のせいだ。
澤井が警察に捕まり、周りの人がどれほど「あなたのせいじゃない」と言ってくれても、「私がいなければ」「私が希望の家に関わらなければ」という後悔の気持ちは、心の中から消えない。
忘れることなどできない。
だから――。
(きっともう会わないほうがいい……紅君が無事なら……それでいい……!)
私は医師づてに、紅君の怪我が命に関わるものではなく、少しずつ回復に向かっていることだけを教えてもらい、それ以上はもう聞かなかった。
(ごめんね紅君……ごめんなさい園長先生……お母さん……)
後悔と悲しみの涙は枯れることなく、いつまでも私の心を支配していた。
何もやる気が起きず、実際何もしないままの夏が終り、秋が過ぎた頃、私は退院した。
行く宛てはなかった。
母が私名義の貯金と保険金を残してはくれたが、母と澤井と三人で暮らしたアパートには戻りたくなかった。
紅君がいなくなった学校にも――。
マスコミにも小さくとり上げられた事件を心配した父方の遠い親戚が、私に連絡をくれ、田舎に越してきたらどうかと勧めてくれた。
私はこの町を出ることにした。
冷たい風が吹く頃、片手に下げた鞄に収まるくらいの少しの荷物を持ち、駅までの道を歩いた。
空はどんよりと曇り空で、まるで私の心境のように今にも泣きだしそうな天気だった。
紅君といつも自転車で走った土手の道。
川の向こうに今日も変わらず煙を吐き続ける五本の煙突を見ていると、自然と涙が浮かんだ。
あの工場で、毎日頬を煤で少し黒くして働いていた母はもうどこにもいないのだ。
『千紗……なんて顔してんの! ほら笑って、笑って!』
父が亡くなってから、せいいっぱいのから元気で私を励ましてくれた笑顔しか、今は思い出せない。
『ちい! 見て! もうつくしが出てるよ!』
何を見ても何を聞いても、それが紅君からの知らせならばどんなことでも私にとっては特別だった日々が、胸に痛い。
痛い――。
『いつか迎えに来てもいい? 俺がこれから住む町に……いつか、ちいも連れて行ってしまっていい?』
叶う可能性がなくなった約束が悲しくて、涙が零れる。
まるで私の涙に呼応するかのように、空からも大粒の雨が降りだした。
天気があまりよくないと、背中の傷が痛む。
事故でできた大きな背中の傷を、私は敢えて目立つまま残した。
「女の子なんだから、わからないようにしたほうがいいんじゃない?」という医師の勧めは断った。
この傷は私の十字架だ。
私のせいで不幸にしてしまった人たち、命を失った園長先生、みんなへの懺悔の思いを抱えて、私はこれから生きていく。
だから見た目などどうでもいい。
決して忘れたりしないように、体に刻みつけられているくらいがいい。
次第に強くなっていく雨足が、地面を叩き始めた。
跳ねた泥に、靴も足も茶色く染まる。
伸ばしっぱなしの私の長い髪を伝い、雨が滴り落ちる。
全身ずぶ濡れになって歩きながら、ほっと安堵した。
いくら止めようとしても溢れる涙。
母と暮らし、紅君と自転車で走ったこの町は、どこへ行っても何を見ても、思い出が多すぎる。
一人とり残された私には、それが重すぎる。
我慢できない涙を隠してくれる雨は、きっと天からの贈り物だ。
いつも私のことを心配していた母や、園長先生からのプレゼントだ。
(だから……だから今だけ……!)
大きな雨音が全てをかき消してくれることに感謝し、私は小さな子供のように泣きじゃくりながら歩いた。
涙で頬が濡れているのか、雨で濡れているのか、
誰が見ても見分けなどつかないことに感謝し、泣いた。
今日でこれまでの自分とはお別れだと心し、声を上げて泣いた。
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