3.寄り添うように
春が来てようやく足のギブスも取れる頃、私は六年生に進級した。
紅君とは違うクラスになった。
でも、それでかえって安堵した。
周りにいろいろ言われないために、あれからなるべく学校では話をしないようにして、それでも私は彼の姿を探してしまう。
どれほど遠くにいても、紅君にばかり目が行く。
そういう自分に疲れてしまった。
ごまかすことに無理を感じた。
だからもういい。
放課後、二人でこっそりあの赤い自転車に乗り、土手の道を『希望の家』へ帰る時間があるから、その他はもういい。
学校での紅君は、みんなの人気者の『紅也君』でいてくれたらいい。
――そういうふうに思っていた。
「ちい、ほら見て!」
紅君は自転車を漕ぎながら、どこからか飛んできて自分の服の袖についたピンク色の花びらを摘み上げる。
私にさし出した。
「……さくら?」
「うん。もうすっかり散ったと思ってたけど、まだどこかに花がついてるのがあるんだな……探しに行ってもいい?」
「うん」
私が頷くとすぐに、紅君はグンと自転車を漕ぐスピードを上げた。
ギブスが取れた時、『足が治ったから、もう自転車に乗せてくれなくてもいい』と言った私に、紅君は『嫌だ』と笑った。
『俺はちいをうしろに乗せて、もっといろんなところへ行きたい。だから嫌だ』
そう告げられて嬉しかった。
紅君が笑うたび、私を見るたび、どうしようもなく胸が騒めくのはなぜなのか。
その理由を私はもう知っている。
「ちい」と優しい声で呼ばれると、泣きたい気持ちになるのはなぜなのか。
その答えもわかっている。
だけど――。
(いつか伝えられるんだろうか……? 口に出して言うなんて、想像もつかない……)
抱えた想いは、まだ胸に痛いばかりだ。
だけどどんな未来でも、私はきっと紅君の姿ばかり探しているのだろう。
そういう自分は容易に想像できた。
未来の自分がおかしくて小さく笑うと、「何?」と背中のまま尋ねられる。
「なんでもない」と答えたら、「そっか」と短い言葉が返ってきた。
紅君と二人でいる時の穏やかな時間が好きだった。
よけいな言葉や気遣いなどいらない、二人の間の自然な空気が好きだった。
紅君と一緒だと私はいくらでも優しい気持ちになれる。
家や学校で感じる暗く沈んだ気持ちや、自分の中に渦巻く濁った感情を全て忘れ、綺麗な私でいられた。
二人で過ごす短いひと時が、私にとっては宝物のように大切だった。
「見つけた! ほら、あそこ!」
大きなお寺の境内の片隅に、その桜の木は生えていた。
さまざまな樹木が重なるようにして鬱蒼と繁っている中に小さくまぎれていた。
「すみません。桜……見せてもらってもいいですか?」
掃き掃除をしていたお寺の人をあっという間に捕まえ、紅君はもう中に入る許可をもらってしまっている。
「いいって! ちい、行くよ!」
「うん!」
ふり返って私を呼ぶ笑顔を、私も急いで追いかけた。
背の高い木々の間を縫うようにして、必死に枝を伸ばしている小さな桜の木は、ちょうど満開が過ぎた頃だった。
風もないのにハラハラと花びらが舞い落ちる。
下には黒い地面を覆うように、白い花びらの絨毯が広がっていた。
「綺麗……」
少し離れた場所からその光景を見つめる私を、紅君が手招いた。
「ちい、こっち。桜はこうやって見上げるの」
降り積もった花びらの上に、紅君はなんの躊躇もなくゴロリと寝転ぶ。
空中に舞い上がった幾百もの花びらが、紅君の髪に、腕に、体に、ハラハラと舞い落ちた。
(綺麗……)
今度は声に出さず、心の中だけで呟いた。
まるで雪に埋もれたように転がる紅君の上にも、絶え間なく新しい花びらが降り注ぐ。
「おいでよ」
呼ばれるままに、私も彼の隣へ行った。
そして紅君の真似をして、ゴロンと桜の絨毯の上に仰向けに寝転んだ。
その瞬間、彼が私に見せてくれようとした景色が、目の前に広がった。
無数の桜の花びらは、まるで霞みがかった春の空から直接降ってくるかのように、クルクルと回りながらほぼ一直線に、私の上に舞い落ちる。
わずかな風でも進路を変えてしまうので、吹き飛ばさないように呼吸に気をつけ、私は身動きもせず、ただ静かに空を見上げていた。
「桜の木の下に倒れてたんだって……」
私と同じように黙っていた紅君が、ふいに口を開いた。
「俺の母さん……生まれたばっかりの俺を抱いて、満開の桜の木の下に倒れてたんだって……そう園長先生が教えてくれた……」
「…………!」
私は思わず起き上がった。
私の上に積もっていた花びらが、静かにハラハラと地面へ落ちる。
「紅君……」
呼びかけても紅君は私のほうを見なかった。
腕を頭の下で組んだまま、ただ真っ直ぐに空を見上げて、語り続ける。
「ずいぶん痩せて、悪いところも体中いっぱいあって……だけどそれでも、幸せそうだったって園長先生は言ってた。『この子を……紅也をお願いします』って俺を見つめる目が、それはそれは愛しそうだったって……きっと自分の命をいっぱい削って俺を産んでくれたんだ……!」
紅君の眼差しは強かった。
自分が確かに愛されていると知っている者の、強い目だった。
私だって父が生きていた頃は、いつもあんな目をしていた。
恐いものなど何もなかった。
「母さんが最後に見た光景は、きっとこの……自分の上に落ちてくる桜の花びらだよ……だから俺は、春になるとこうして桜を見上げるようにしている……ちいにも見せたかった……見てもらえてよかった……」
「うん……」
にっこり笑った紅君に促されるまま、私ももう一度、彼の隣で横になった。
彼にとって特別な意味があるこの光景を、こうして私に見せてくれたこと、他の誰でもなく私に見せたいと思ってくれたことが嬉しくて、私の上に降り注ぐ無数の花びらは、次第に涙で滲んでいった。
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