Ⅵ
哲道が、椅子に深く腰かけて、当時のことを回想していると、「中沢くん」と哲道を呼ぶ声が聞こえた。哲道は、反射的に姿勢をただした。
声がした方をみると、そこには
「中沢くんが、なかなか帰ってこないから、教室がどこにあるか分からなくなって、あちこちを歩き回っているんじゃないかと思ったのだけれど……ここにいたのね。廊下を歩いていたら、教室の窓から光がもれていたから、もしかしてって」
また、霞とふたりきりになったことで、哲道の全身に、緊張がはりつめた。
「鶴橋さんは……僕を探してくれていたの?」
「ええ……それに、ずっとひとりぼっちでいたから、気にかけていたの」
霞は、「せっかくだから、少し話しましょう」と言って、哲道の前の席の椅子を逆向きにして、座った。哲道は、あれから十数年を経て、こんなに近い距離で霞と向かい合うことになるとは、思ってもいなかった。
「あのころ、中沢くんは、ずっとこの教室で勉強をしていたわよね。この教室、廊下側の窓がいつも開いていたでしょう……帰る時とか、ここを通るし、いつも見ていたわ。でね、ちょっと嫉妬していたのよ」
「嫉妬?」
「そう。私ね、本当は、ここで勉強をたくさんしたかったの。だけど、友達が、私を気にかけてくれて……ずっと話をしてくれたり、遊びに誘ってくれたりしたから、全然、それができなくて……」
「でも、あの大学に受かったんだよね」
「うん……家で勉強をしていたのよ。夜遅くまで」
哲道は、あのとき、霞が自分を気にかけてくれていたという事実に、十数年越しの嬉しさを感じたものの、もう、あのころに戻ることはできないという、どうしようもない事実が、それにかぶさってきた。
「ねえ……中沢くん、覚えているかしら。私が、よく上級生にからまれて困っていたこと。気にいらないって。だいたい、そうした理由で。いま思うと、私って、それだけいやな存在に見えていたのね……当時は、ほとんど自覚がなかった」
「鶴橋さんは悪くなかったよ。勝手に嫉妬して、言いがかりをつけてくる方が九十九パーセント悪いよ」
「へえ、一パーセントは、私が悪いんだ?」と、霞は、
「中沢くんはさ、私の味方だったよね」
「鶴橋さんの? そんな
「ううん、中沢くんは、私のヒーローだった」
霞は、まっすぐ哲道を見た。それにドキリとした哲道は、霞の肩の方へと視線を移した。そして、ひょっとしたら、霞は、記憶を間違えているのではないかと思った。哲道は、ヒーローになれるほどの存在ではなかったから。
「鶴橋さん、先生が呼んでるよって、何回きいたかな、その言葉。私を、上級生のひとたちから引き離してくれる、魔法の言葉。あと、よろけたって、ぶつかられて、散らばった教科書とかノートとか筆記用具とかを、拾ってくれたり……」
哲道の、抑圧していた恋心は、そうした形で表現されていたのだろう。
「もう、途中からは、からまれるたびに、またかけつけてくれるんだろうな……なんて思ってた」
霞は、記憶をたどりすぎたせいか、明るい表情のなかに、少しだけ、暗いかげを落としているようだった。強い風をうければ、揺らめいてしまいそうな、かげを。
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