第3話 分かり合えないなんて嫌だ
暗闇が大阪の街に沈黙と喧騒をもたらす時刻、藍は高校時代に使っていた机に向かってノートに色々なことを書き綴っていた。そこには今日あったことからスウェーデン語にまつわる話や、琳音と泣き合ったその後などを淡々と、それでいて
『琳音と泣き合った後、どうすればお互い泣き止むのかわからなくて泣きながらコーヒーを飲もうと台所を借りた。インスタントコーヒーの粉をカップの中に入れると、琳音がまだ悲しみや寂しさを含んだ声で俺に近づいてこう聞いてくる。「ブルール、これはなあに?」って。正直、五歳なのにインスタントコーヒーを知らないのはまずいと思う。残念だけどここで分かってしまった。俺と琳音は分かり合えないと』
そう書き終えた後、藍は頬杖をついてため息を吐いた。それはとても長くて大きなため息で、藍自身がそれの大きさや長さに困惑するほどだ。やはり閉鎖的な社会で暮らすレッテと、一般人である自分は分かり合えないのだと感じて、初めてあの前任者の苦労を思い知った。
きっと子供好きだった彼女でさえも、この育ってきた社会の風習や慣習の差に悩まされて、あるいは琳音の世間知らずさを嫌というほどに感じたから徐々に相手をできるという自信をなくして行ったのだろう。
だが、自分は将来教師になる男だ。もしかしたらこの将来、秋山呉羽のような一般人に扮して普通の小学校に通うレッテも現れるに違いない。それにはまず、レッテがなぜあのような閉鎖的な社会を築き上げたかを知らなくてはいけない。
義務教育や高校時代にさらりとスウェーデンの製薬会社が販売していた薬がきっかけで起きた薬害事件で、インデル症候群を持つ子供が生まれた。彼らがその社会を築くきっかけになったと教わってはいたが、藍はすっかり忘れていた。
気軽な辞書サイト的なところで、できるならレッテ社会を統括するという団体のサイトを参考にしたほうがいい。藍は初めて自分で買ったiPhoneにあるchromeでその団体について検索する。『レッテ社会 統括 団体』。それで検索して結果に出ると、関連項目や人物に『
高屋敷琳……。もしかして彼女が琳音の母か? 彼は興味を持って琳の項目をタップする。すると、生年月日とともに彼女の水着姿の写真がデカデカと掲載されていた。どうやらレッテ社会の世界的な美人コンテストのものらしい。それで、彼女はその日本代表だったと。
……ああ、いけない。これでは本題から脱線してしまう。藍は改めて、検索画面に戻って検索し直した。するとトップには『全日本インデル症候群連絡協議会』なる名前のサイトがあり、サイトの紹介に「一九六二年創設の、歴史あるレッテによる、レッテのためのレッテの社会の創造を目指して創設された団体です」とある。これだ。藍はそのサイトをタップした。
すると、サイトが重いのか、読み込みには時間がかかり、その間に彼は日記に琳音についての情報をノートにまとめていく。
『琳音くん 身長 一一三センチ 体重 一三キロ 誕生日 四月一日 日本語が不得手。日本語と英語とスウェーデン語の混ざったもの、通称ヤヴェンスカ(Javenska)を話す。知的好奇心が高い少年だが、世間知らずなところが多い。このヤヴェンスカを直さないといけない』
時給三千円、一日三万円以上のシッターの仕事だ。彼がきちんと日本語を話して、外に出られるようにしてあげないといけないと、つくづく思わされる。藍と琳音は分かり合えない。それでも、外に興味を抱かないのは不味いと考えてしまう。どうか、あの子が普通の社会である大阪の街に出られるように、四月の授業が始まるまでにしないといけない。
そのためにはまず、レッテの社会を知らないといけないのだ。気づくと、スマホには既にサイトがきちんと開かれていた。
メニュー画面を開いて、さまざまな項目があるのに驚かされる。連絡、会員用ページ、会員申請、協議会の歴史などと言ったページがあるが、一番下にある『協議会の歴史』これが一番自分の求めていたページだろう。
藍がタップすると、やはり読み込み時間が長い。何かできることはないかと考えて例のコルクボードを見つめる。朝に自分が作ったものだが、実際に例の子供に触れてみるとなぜか憎しみが湧いてくることはなかった。
むしろレッテ社会の女装させて子育てをする習慣や、日本語が歳のわりに不得手なその姿を見て哀れみさえ感じたほどだ。
一般人である藍と、レッテの社会で育ってきた琳音はお互いの知っているものが少なすぎて、分かり合えない。きっとこれは
それでもレッテの子供を世話する上で、背景を知っておいて損はないだろう。今まで憎しみを抱いていた藍が自分のことをバカに感じられるほどに、琳音はあまりにも世間知らずで、無知すぎる。
エデンの園にある禁断の果実をイヴが食べ、アダムにも食すよう唆されたことで人間は知を得て、原罪を背負ったわけだが琳音はその原罪でさえ背負っていないような気がしてならない。
せめて琳音にはたくさんのことをもらって、エデンの園から出て行っても生きていけるようにしてあげたい。そう思えるほど彼の無知が藍は悲しかった。
藍はベッドの上にあったメモ帳を取って、『無知な子』、『無知の涙を流さないようにしないといけない』と書いたメモを、『殺したい』、『人間もどきの吸血鬼』のところに重ねて貼り付けた。
「更新」
そうつぶやいた藍が机の上のスマホを見ると、ページがもう既に読み込み完了していた。その読み込みを終えたページを見ると、いかにも普通の社会系団体のページのデザインにどこか安心感を覚える。藍は安心してページを読む。
「一九五七年に日本で販売された「イッチィゲン』には服用すると、眠気が吹き飛び、覚醒剤を打った時のような覚醒を得られました。それでいて摂取しても人体には影響がないことを受け、これが日本中に蔓延。その結果、摂取した父の精液に異常が発生し、インデル症候群の赤ちゃんが多数生まれました。こういった子供たちは生まれて数ヶ月で両親に殺されたり、墓場に捨てられたり、悲惨な運命を迎えました。この事態を回避するために、一九六二年、イギリス貴族のアルバート・クレイトン=モラン男爵の支援により、神戸に『ヴェロニカ・マリー・ハウス』という名の施設が開設されました。この施設を運営する団体が私たちの始まりなのです」
スマートフォン向けの文章にしては長い。その長い文章で当時のレッテの扱いがどんなものかは理解できたが、ここからさらに長くなりそうだ。それでも琳音の社会を知るためには、このサイトのページを読むのが一番なのだ。
藍はそう考えて、無理矢理堪えながらページを読んでいった。まあ、要約すると数行程度に収まる。
「レッテの子供たちが成長すると、第二次性徴の始まりとともに吸血欲求が激しくなる。その結果、覚醒剤の摂取時と同じ症状が体に負担をかけ、血を求めて殺人事件を起こすのが社会問題化した。彼らは差別され、やがて自分たちで新しい社会を築いていった。今日、私たちはレッテの生活を支援するために薬を会員価格で販売し、ネットで会員のみが視聴できる番組を提供するサービスも展開しています」
要は日本社会の中にもうひとつの社会があるような感じだ。琳音が暮らす社会については大まかではあるが理解できた。問題は琳音がこれからどう社会で生きるかを考えるかだ。
彼に取って、琳音は分かり合えない相手であり、過去の自分に似たような気がした。
両親を失ってから、今日まで涙を流したことはなかったのに琳音と一緒にいると何か自分の隠してきた感情や過去への思いが表に出そうな気がして彼は恐れ慄いた。あの得体の知れない子供のそばにいると、自分の過去がいかにその身にどんな影響を及ぼしてきたかが分かってしまう気がする。
その洗いすぎて脱色した茶髪も、首の引っ掻き傷も、腕に残るリストカットの跡も。今まで自分は比較的現代の若者と同じ生活を送ってきた。そう思っていたのに、自分の体に残った跡をその場に写る鏡で見ると、大人たちがみる問題児と自分は変わらなかったという事実に驚嘆し、嘆きそうになる。
鏡を避けて頭を抱えて下を向くと、机のスマホから突如電話が鳴る。恵おばさんからだろうか、「早く飯を食え」と。おそるおそる見てみると電話をかけてきたのは『
彼は電話に応対して「もしもし」と話しかける。すると、電話越しから唯が自分の彼氏を心配するような口調で話してきた。
『シッターのバイト、おつかれ。なんだか疲れてるみたいだけど、どうしたの?』
男は泣いてはいけないと教育されてきた藍だが、彼女に応えようとした時には涙がこぼれて涙声になっていた。
「あっ……。いいや、疲れてないよ」
『嘘はつくものじゃないわよ。藍くんは疲れてる時、いつも声が少し高くなって話す速さもゆっくりになるの。今はそれがしっかり現れているから』
自分は嘘をつくのが下手なのか。そういえば、自分の心がおかしいと言われていた時も、その兆候を隠せなくて柚木夫妻に連れて行かれたのは心療内科だった。幼い頃は嘘をつくと地獄に落ちると言われていたから、その影響だろうか。いつの間にか嘘をつかないといけない時も、本音を隠せなくなっていた。
『レッテって独特の社会を築いてるって聞くけど、やっぱり疲れたでしょ。奴らはアーミッシュよ。日本版アーミッシュ』
「アーミッシュってテレビもラジオもない場所で子育てしたり、普通の音楽を聴くのを禁止されてるんだよね。言葉もドイツ語みたいだから、確かにアーミッシュに近いのかもな」
『うん。レッテのシッターって、とても大変なのは聞いてたのよ。前にあんたの住むマンションでレッテの子を世話してた知り合いが泣き出して辞めちゃうレベルでキツい仕事みたい』
同じマンションでレッテの世話をしていた……。泣いて辞めると聞くと、どうしてもあの日、自分に仕事を勧めてくれた人を思い出してしまう。ホステスに戻ると言っていた。
「あの、もしかしてその人ってホステスだった?」
すると唯はどこか答えるのに
「そうだけど。これからは通信制の大学で保育士の免許を取るって。実家に戻って手伝いをしながらね」
「俺にシッターの仕事を勧めてきたの、その人かもしれない……。泣きながら『ホステスに戻る』って言ってたな。その泣く姿があまりにも悲しくてなあ……」
「あら、
「一年間も?! 俺は今日、嫌なことをあのレッテの前で思い出して泣いたんだ。あいつといると何か自分の隠してきた過去を暴かれるような気がして……。俺もう辛いよ……」
ベッドによろめきながら倒れて横になる藍の姿を音で気づいたのだろうか。唯は
『歩美も似たようなことを言ってた。でもあんたは、今まで自分が頑張りすぎて何度も限界を超えたのに気づかなかったのよ。今回になってやっと気づけたの。今日まで生きてきて、偉いわ。ダーリン』
「ダーリンだなんてそんな……あはは。明日からどうしよう、マジで」
追い詰められた様子で藍が唯に助けを求めると、彼女は驚いた声を出して続けた。
『あんたが私を頼るなんて珍しいわね。うーん、マインドマップを作って自分と重ねられるところを見つけるとかは?』
「実はマインドマップはもう作ったんだよ。自分と重ねられるところかあ……。そこはまだ手をつけてなかったな」
『自分と重ねられるところが多ければ多いほど、脳が過去の自分だと錯覚して少しは楽しくなるんじゃないかしら?』
「やってみるよ。ありがとう」
『ええ。やってみてね。おやすみ』
おやすみ。そう唯に勧められたままに藍はブレインストーミングで作ったマインドマップにメモ帳で書いた『自分』というメモ帳をコルクボードに貼って、そのまま琳音と自分がどこで繋がっているかでリボンを使い、関係性を結んでいく。だが、琳音がシングルファザーのヤヴェンスカを話す少年だということ以外、わかることはなかった。いや、冷蔵庫に貼ってあった写真にきちんと反応していたではないか。「マンマ」と。
google翻訳で直接英語で"mother"をスウェーデン語に直す。すると、"mamma"という綴りで発音も"マンマ"だった。琳音の母はきっとさっき調べた高屋敷琳その人なのだろう。
そういえばあの水着姿の琳が藍の中で印象的に残っていた。魅力的に見えるように計算された顔や笑顔の口角の角度や瞳の細め具合。逆に計算されているのが見え見えでどこか気持ち悪さは残っていたが……。確かに美人なのは間違いなかった。
琳はどうなったのだろう。いや、そもそも光場と彼女の関係性がわからない。あまりこのことは考えないようにしよう。雇い主と雇われる側という関係も、そこで終わってしまうかも知れないから。世の中には知らない方がいいこともあるのは事実なのだから。
琳音との共通点は、「母がいない」これに尽きる。まだ出会って一日目。藍は琳音のことを詳しく知らなかったし、琳音もきっと藍のことを詳しく知らない。だから、たった一つの寂しい共通点でお互いを青いリボンで結んだ。
このコルクボードに赤をどうやって増やしていくか。そこに悩みながら、藍はベッドに横になった。もうこれ以上考えると壊れる気がする。シャワーは明日浴びればいい。彼はそう考えて、毛布をかぶって眠りについた。
翌朝、予定通りの七時半に藍は光場家のベルを鳴らす。すると今度は、一度で小さな体が扉を一生懸命押して開く。その開き終えて、ハアハアと必死に酸素を求めるその子供の頭を藍は撫でて、その子に微笑んで挨拶した。
「おはよう。琳音くん」
普通の男性よりも少し大きな彼を見上げて、しばらくじっと見つめる琳音のネコ目と藍のアーモンド型の瞳がふと合う。お互い黙りこくって、その瞳を観察するようにじっと見つめ合う。誰が言い出したわけでもない、瞳を逸らしたら負けになるにらめっこ。その勝負に負けまいと、ふたりとも視線を見つめ合わせ続ける。
「…………」
「……どうしたんだい?」
沈黙を先に破った藍が琳音を見つめて微笑む。その笑みを見て、琳音はどこか虚ろな瞳で一瞬その顔を写してやがてうつむいた。まるで藍を信じていない、何か意図がある笑みに映ったのか。
そんなことを考えて、彼は脳内で過去の自分と一瞬投影した。会社を経営していた父が亡くなり、誰が社長の椅子に座るかで揉め、遺産目当てで幼かった藍が知らない親戚が次々と、彼を引き取りたいと手を挙げたあの頃のようだ。
あの頃の藍はふと突然日常が終わったことにただ呆然としているばかりで、彼らの甘い言葉まで手が回らなかった。それから少しして事件の処理が終わって落ち着く頃になると、彼の脳内に突如として事件の夜に嗅いだ血の臭いが、鮮血のサラサラした水っぽさが、あの月光が部屋に入り込んでほのかに部屋を照らす暗さが思い出されて眠れなくなってしまったり、髪を何度も洗い直したりする癖が出始めたりしたのだ。
きっと琳音は自分があの頃の知らない親戚のように見えるのかもしれない。これは仲良くなるのに時間がかかりそうだ。先が思いやられる。これからのことを不安に思いながらも、藍はまんまるな体型の男性に気付いて思わず彼に視線を合わせて挨拶した。
「ひっ、光場さん。おはようございます……」
すると光場は笑ってジョークを言いながら、藍に挨拶を返した。
「琳音は藍くんが好きなのかな? おはよう。今日は琳音がドアを自分から開けたんだね」
「そうなんですよ。実はちょっと、にらめっこもしました」
「にらめっこ?」
顔を近づけてくる男の体臭がチーズのようなにおいを醸し出して、妙に臭い。いったい彼は何日風呂に入っていないのだろう。そんな気さえ藍は起こして、あの日彼から渡された香水がいかに大事かを思い知ることになった。
「……なんでもないです。ジョークです。アメリカン・ジョークならぬ、ジャパニーズ・ジョークです」
「あはは……。君は面白いことを言うね。こっちの社会にはね、『白い嘘』というものがあるんだよ」
ケタケタ笑いながら自分の所属する社会の豆知識を教える光場に、藍は真顔で聞いた。玄関は部屋を出ても室内になっているのに、体に寒気を覚える。
「なんですか、それ」
「それは自分で調べてごらん。大学生だろ? 調べる力が上がるぞ」
光場はそう言って藍の肩を叩いて彼の苦労に同情するような苦笑いを浮かべると、「琳音をよろしく」と言ってそのまま部屋に戻ってしまった。
「さてと……。琳音くんは何かしたいものはあるかい?」
「……ヤー・ワナ・ティッタ・フィルメール
(Jag wanna titta filmer.)」
琳音の言葉に藍の脳内がクエスチョンマークでいっぱいになる。『ワナ』は"wanna"だろう。英単語だけは分かったが、残りはスウェーデン語の単語らしく、英語と第二外国語の中国語を少ししか学ばなかった彼には理解できなかった。
「琳音くん、日本語でいってごらん?」
「うぇ……、えっと、みたい、フィルムズ、ぼく」
語順がめちゃくちゃだが、日本語も少しは分かっているようだ。要は『映画が観たい』ということだろう。映画は藍の得意分野だ。毎週金曜日の夜、バイト休みの日に彼の住む1Kの部屋を唯が訪れて、たくさんのDVDを持ってきてこう言うのだ。
「藍くん。今夜はニュー・シネマ・パラダイスだよ」
その時に笑う彼女の細めた目が藍は好きった。八歳も歳上の女性と二年間付き合って、旅行も滅多にしたことがなかったが、デートは決まって彼の家で映画を観るのだ。
ところで、琳音はどんな映画を観るのだろう? 子供だからトーマスやドラえもんを観るのだろうか? いや、レッテで日本語もそんなに話せない琳音だ。きっと自分の知らない海外製のものを観るのだろう。
「琳音くんは何を観るんだい?」
「『なにを?』ア・ロット(A lot)」
「そうか『たくさん』観るのかあ!」
琳音の頭を撫でて阿吽の呼吸で藍が頷くと、琳音が小さな両手で藍の手に触れて小さく、だが確かに、はっきりと言った。
「やめて」
たった一言の日本語だが、琳音が初めて示した意思表示に、藍は思わず驚いて微かにウッと声が出た。それから琳音が藍の手を自身の頭からどかすと、彼は頭を上げて藍を無表情で眺めるように見上げて言った。
「ゆるして。でも、ゲット・アロング(get along)できない」
そう一言いって琳音は部屋の中に戻ってしまった。ひとり玄関に置いて行かれた藍は、慌ててその影を追うようについていく。
「仲良くできなくても、僕は琳音くんの味方だよ」
「嘘。みんな、同じこと言ってゴーン(gone)した」
思わず、割と自然な日本語が琳音の口から出たことに安心しつつも、藍はDVDの入ったケースを見る。するとDVDのケースの背表紙にはアルファベットのシンプルなタイトルばかりが並んでいて、日本語のDVDがほとんどない。
だが、唯一日本語のDVDケースがあって、『ドラえもん 傑作選』と書かれたものがあったのは救いだ。その光景を見て一瞬彼は光場の、琳音の父親の作ったポルノが入っているのではないかと一瞬疑ったが、英語やスウェーデン語だらけのDVDの中でわざわざポルノを日本語が書かれたケースに入れるわけがないだろう。
そう考えてそのケースを開こうとするが、それを見た琳音が慌てて叫んでそれを止める。
「ストップ!」
藍の腕にしっかりと掴んだ琳音の腕力の強さに思わずハッとさせられるが、彼は言うことに従ってDVDをしまってケースに戻した。
「どうしてこれはダメなんだい?」
すると、琳音は不意を突かれたように目を丸くして、さっきまで見せなかった笑みを浮かべて静かに言った。
「……パッパが『観るな』って、言ってた」
ああ、やはり卑猥な映像を子供向けのDVDケースに隠す、家庭にある男ならよくやることか。そんなことを藍は考えながら琳音の視線が宙を浮いているのをしっかりと見る。その目つきは遠くから自分を眺めているような、そんな視線だった。
「ごめんよ。ところで、何観よっか?」
「これ」
そう言って琳音がひざまづいてDVDケースを漁る。そのコソコソ動く、小動物的な動きがまだ彼が子供なのだと藍にしっかりと確信させる。
紺色のプリーツスカートが揺れながら尻を振っているかのように左右に少しゆっくり動いている。その光景が昔そばにいた呉羽と重なって、藍は故郷が懐かしく感じられる。
富山の城跡のある公園で一緒に友人たちと遊んだ冬の日のことが忘れられなかった。広い原っぱで、雪玉を作って投げ合うのは狭い大阪ではできないが、こうして子供の世話という形で郷愁を感じているのは何かの縁だろうか。そんなことを思いながら、琳音がやっと見つけたものをみせられる。
「『ソ連アニメ傑作集』……」
ラインナップを見てみると、どうやらソ連のプロパガンダアニメの傑作選らしく、娯楽目的で作られたものはほぼ見られなかった。
やはり自分と琳音は分かり合えない。住む世界が違うから、育ってきた環境が違うから、色々な理由をつけて逃げることはできる。どうせならいま逃げたっていい。それでも、将来のことを考えると後戻りはしたくなかった。
そう考えるのが柚木藍という男だった。その日は結局ソ連のプロパガンダアニメを観て、どうしたら少しは自分と琳音の距離が近づくのか、日記に考えを書いていた。
『白い嘘を調べた。ついても許される類の嘘らしい。お世辞とか、上司に合わせる阿吽の呼吸とか。そんな感じなのだろうか? そういえばあの子はいつも女の子の服を着て、髪も長く伸ばしている。光場はそれを『レッテの風習』と言っていたが、あれがもし嘘だったら? 琳音が外の男の子が、髪を切って、動きやすい服装で生活していることを知らなかったら? それは黒い嘘だろう』
頬杖をつきながら、机の上に置いてあったカツラをいじる。高校時代、女顔の彼は女装美人コンテストに出ることになって、近所のドンキで買ったのだった。架空の電球がふと藍の頭の上で光る。そして、彼は部屋を出ると、そのまま近所の百均ショップへ駆けていった。
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