第2話 お前らの言葉なんて知らない
翌日。明け方を告げる鳥がマンションを旋回して鳴き回っている声を聞いて
後で自分でもとんでもない間違いをした、とあの時の自分を殴ってやりたくなる感情に駆られて寝られなくて、後悔で脳内を殴られるような感覚で夜を過ごしていると、ふとトイレに行きたくなった。高校を卒業してからほぼそのまま保管されてきた藍の部屋は、大人と呼ぶにはどこか幼さが残っている。
好きな野球選手のポスター、台湾スクーターに跨ってニカっと笑顔で彼の顔を見つめるアイドルの絵、高校時代に付き合っていた柔道部のマネージャーがくれたコルクボード。
青春という名のモラトリアムがそこにはまだ存在していた。藍はふと高校時代の思い出が懐かしく感じられて、部屋を見渡す。真っ白な壁に貼られた思い出の数々が目に映る。大阪で過ごした八年間は彼にとっておおよそ良いとは言えない。それでも、思い出という名の美化された記憶が彼に「悪くないだろ?」と語りかけてくるのだ。
西宮に残らないで大阪に戻ってきたのも、もしかしたら高校時代のような楽しさがあると、心のどこかで感じているからかもしれない。そんな気さえ感じながら、藍は何も貼られていないコルクボードを見つめる。
柔らかいそれに触れながら、藍はさっそく机の上に残っていたメモ帳にいま自分が思っていることの整理として自分の思いをポイントとしてしたためた。水色の正方形に赤いペンで『今日すること』を書いてみる。レッテの世話。レッテは? 男の子。 どんな子? 日本語より英語が得意な子。こんな感じで書いていくのだが、一つのポイントにつき一枚の紙を消費してはコルクボードに貼っていくので、大きいと思っていたはずのそれはあっという間水色で埋まった。
「……これだと整理できてないってことしか分からねえな」
次に藍が用意したのは、青や赤などのキラキラしたリボンだった。中学時代から何か役に立つのではないかと、お見舞い品やプレゼントについていたリボンを集めていた彼だったが、いよいよそれを使う時が来た。備えあれば憂いなしとはまさにこのことだろう。
えらいぞ。藍は自分の選択を褒めながら、リボンで関係性を表していく。彼はパソコン作業は得意な方だったが、ブレインストーミングをするとなると、やはり手書きかこうして物で関係性を表していくのが一番だと思えてならなかった。
ポジティブな関係を赤系のリボンで、ネガティブな関係を青系のリボンでつなげていくのだが、彼の場合はどうしても青いリボンの方が多く感じられる。
これはヤバいぞ。内心彼はそう思いながら、夜明けの寒い時間をブレインストーミングで潰していく。そして目覚まし時計が朝五時半を告げるアラームを鳴らした。ピピピと電子音のような音に気付いて藍は、時計を止めるためにベッドに戻って座る。すると、そこには青いリボンとメモで埋め尽くされたコルクボードが完成していた。
藍はメモの一つ一つを遠くから眺めてたった一言、こうつぶやいた。
「これはまずいぞ」
メモの一つ一つをかいつまんでいくと、『殺したい』、『人間もどきの吸血鬼』、『暗闇に巣を作って暮らしてる』……などといった過激な文言が『レッテの男の子』に青いリボンで結ばれていたのだ。
「『親殺し』、『天涯孤独のきっかけ』……。ああこれはあの光場には見せられねえな」
藍はじっくりと自分の思いを形にしたコルクボードを眺めながら、どうやってそのレッテに対する自身の憎しみを隠せるか、考えながら赤いリボンで繋がれたメモにも目を注ぐ。
「『初恋の人 秋山呉羽』、『色々教えてくれた』、『忘れられない記憶』……。なんだ」
なんだ、よかった。そう続けながら、レッテを憎んでいる自分にもかすかに彼らへの思いに対してポジティブな一面があるのもみて、藍はホッと胸を撫で下ろした。だが、相手は小さなレッテの男の子。とてもではやいが、恋に関することはあまり話題にできない。
光場から合格を告げられた後で、男性向けの香水を渡された。新品の外国製のようで、いかにも高級品といった瓶の形をしていた。グラム表記は存在せず、オンス単位のみで表示されているあたり、日本には出回っていないもののように考えられた。
黒い瓶に入れられたそれを手に持って、洗面所に向かう。すると、
藍は二日酔いの悪臭に内心嫌気を感じながら挨拶を返してそのまま目的地へ向かおうとしていた。すると、男が香水に気づいたのか話しかけてくる。
「藍くん。とうとう香水つけるようになったかあ。恋人に会いにいくんか? なんとか唯って女の子」
「違いますよ。バイト先ではこれを付けるようにって渡されたんです」
すると男はどこか
「もしかして藍くん、シッターか?」
普段は京都に単身赴任していてマンションにはいない男だが、なぜかシッターのことを知っている。それも嫌そうな表情で、こう付け加えてきた。
「バイト代につられたんやろ? 藍くんは銭に困っとるからな」
「どうしてシッターのバイトをすると?」
すると男はあくびをしながらシッターの仕事に関する噂を藍に教えた。
「あそこのレッテの家はな、
ああ、だからあの部屋には女気のない、いかにも掃除されていない埃まみれの部屋だったのか。そう納得していると、男が藍の腕を掴んで詫びた。
「あんな家のシッターをするほど銭に困っとるのはわかっちょる。でもそのきっかけは俺と恵がお前の受け継ぐ遺産を横領したからや。本当にすまないことをしたと思う」
今更謝罪されたって、遺産は戻ってこないし親も戻ってこない。藍は男にかりそめの笑みで言いながら、その肩を叩いて励ました。
「もう気にしないでくださいよ。過去は過去のことですから」
「すまんなぁ……。あんな家のシッターをするほど銭に困る未来が来るなんて思いもしなかったんや……」
酒が抜けていないのだろう。男は泣き崩れて藍に許しを乞うた。それでも藍は許す気はなかったが、世話してもらったのだからと怒りを腹に下して隣の洗面台で髪を軽く整えて香水をつける。
男が香水をつけることに慣れていない彼は内心困惑しながらも、手首に香水をシュッとかけてその匂いを嗅いだ。その香水からはどこか遠い国の花のような香りがした。名前さえ知らない、その花はどんな形や色をしているのだろう。そんなことを思いながら首の裏にも手首の香水を擦り付けて自身の茶髪に近いくせっ毛に藍は苦笑いした。
彼は元々、生まれた頃から黒髪で一度も染めたことはないのに大阪に来てから、髪の臭いや何か血が付いているような気分から集中的に髪を洗うようになった。髪をシャンプーで洗って、流してはまたシャンプーを付けて洗っては流す、を何度も繰り返す毎日のせいで彼の髪は次第に色を失って毛先も枝毛が出てくるようになった。
そのことで柚木夫妻によって
大学に入学してからは茶髪になった髪を黒染めにする必要も無くなって、逆にその茶髪で顔の端正さが増して影で友人の女子学生たちからは黄色い歓声が聞こえるほど女性人気が高くなった。
恋人もその手入れがされていない茶髪が好きなのだという。恋人が好きならと放っておいてきたが、やはりシッターをするなら黒に染めた方が良かったか。そんな気さえしながら藍はそのまま準備してマンションを出た。
「行ってきます」
応答するものは誰もいなかった。寂しさを残しつつも、マンションの三つ隣の部屋に住むレッテの親子に気づいてもらうため、彼は呼び鈴を鳴らした。だが、誰も応えてくれないので再度呼び鈴を鳴らす。すると、ドアがゆっくりと開かれて、暗闇から女の子が顔を覗かせてきた。
「……だれ?」
フリルのついた白いワンピースを着た子供はどこか怯えるような様子で藍を見つめる。藍はその子供の匂いから血を連想とさせるものを感じとる。そして脳裏によぎるのは十一歳の冬、富山の邸宅で普通の人間より強い力と血に飢えたその赤黒い両眼の女が両親を階段から突き落とし、首を折ってその首筋から血をすする記憶だった。
「……ドゥー、要件」
子供の幼い声でハッと藍は我に帰る。もしかしてこの子がシッターをする子だろうか。彼は微笑みながら答えた。
「シッター、きみの」
すると子供は気づいたようで、頬を赤くしてその小さな体で大きなドアを開けて藍に中へ入るよう誘ってきた。
「入って……ください」
「ありがとう、坊や」
部屋の中は思ったよりも小綺麗で、電灯が付いた部屋の中で光場がうたた寝しているのが見えた。翻訳作業が深夜まで及んだのだろう。それにしてもそんな状況で息子を育てているとは実に立派な男だと藍は心の底から思った。自分だったらきっとできない。そんな気さえした。
「光場さん。おはようございます、柚木藍です」
藍が光場に挨拶する。だがそれでも意識を失ったままの彼に、息子である子供がその体を揺さぶって起こした。
「パッパ、起きて。もうオーバーセブンだよ!」
すると、息子の声に反応したのか。彼はゆっくりと目を開いて、ずれていた眼鏡を正しい位置に配置し直して藍の方を振り返る。
「あっ、ごめんよ藍くん。この子が息子の琳音。英語とスウェーデン語を話す」
スウェーデン語……? 英語を話す子供だとは聞いていたが、スウェーデン語? それが藍にとって、初めてのレッテとの異文化交流だった。いや、厳密に言えば彼には
想像のつかない不意打ちに困惑しながらも、藍は作った笑みで「そうなんですね」と受け入れたふりをして、父に隠れる琳音を見つめる。
光の当たり具合によって色の変わる長い髪は重たそうなロングヘアで、不謹慎ながらも切ったら業者に高く売れそうなほどに艶があった。きっと前にシッターをしていたあの人は相当な努力をこの髪にしたのだろう。その苦労が
いかにも女の子らしい、その髪とドレスに困惑しながら藍はこっそり光場に聞いた。
「光場さん。
すると光場は笑って答えた。
「初めて来たシッターさんにはよく聞かれるんだよ。レッテにはね、
「どうしてそんなことをするんですか?」
これはシッターとしての質問ではなく、純粋に柚木藍としての個人的な質問だった。藍自身、個人的な質問をするのは一瞬憚れたがこれからレッテという変わった種類の子供を世話する上で、必要だと判断したのだ。
「それもよく聞かれる質問だよ。ほら、レッテには吸血欲求が生まれつき備わっている。それを知らずに、気がついたら血を求めて人を殺してしまっていた。そんな時代があったんだよ。だからレッテは今でも一般人からは偏見の目で見られるし、レッテというだけで報復や差別を受けることがある。それから身を守るために始まったのがこの風習なんだよ。誰かが子供を女装させて育てるというアイデアを思いついた。それが我が子を守る手段として広まって、いつのまにか習慣になったわけだ」
「なんだか昔のヨーロッパやアメリカにもありましたよね。上流階級やお金持ちの間で流行った風習で、魔除けのために男の子は女装させて育てるというものが」
「それに似たようなものだよ」
藍はなんだか自分が魔除けの『ま』として扱われているような気がして、あまりいい気分にはならなかった。秋山呉羽と付き合っていた幼き頃とはまた違う接し方をしないといけない。そう思うだけでこの仕事をうまく努められるか、不安で仕方なかったのだ。
「ほら
「……あいさつ?」
ああ。やはりこの子は基礎的な日本語が分かっていないようだ。一体この子は何歳なのだろう。さっきドアを開けてもらった時は小さく感じられたが、年によっては大きいのではないだろうか。
「うぇ……。ぼくはりんねです。ごさいです。よろしくお願いします。ブルール(bror)」
「ブルールってなんだい?」
「ブラザー」
これがスウェーデン語か。なるほど。琳音という子は日本語と英語、他にスウェーデン語も混ぜて会話をするのか。これは国語を教える教師になるための授業を受けている者として、放って置けない。藍は国語の高校教員免許のほかに、小学校教員免許を取得するための勉強をしていた。
高校時代は英語が好きで資格も取るほどだったが、英語に触れれば触れるほど、日本語という自身の母語が大事なのだと気付かされた。
それがきっかけで、今では日本語小説を英訳と比較しながら読むこともできるようになった。翻訳家に誤訳部分を指摘したこともあった。
「さっ、琳音。お父さんは仕事に戻るから、藍にいちゃんにいっぱい遊んでもらいなさい!」
「……やー(Ja)」
光場という男は藍の前では日本語を使っているが、息子と二人きりだと何語を使って話すのだろうか? 英語だろうか、スウェーデン語だろうか、それともいわゆるシンガポールで話されるシングリッシュのような、複数の言語の単語や文法がめちゃくちゃな状態で会話するのだろうか?
藍は内心スウェーデン語ができない自分に困っていたが、これからどうするべきか。それは自分が決めないといけないことだ。つまり、どうやって琳音のシングリッシュ状態を治すかだ。
レッテが普段、自分たちの作り上げた社会の中で生きているとはいえ、秋山呉羽は普通の日本語を話していた。これから日本人として生活するにあたって、日本語でのコミュニケーションに不得手があってはいけない。
そんな緊張感を持って藍は琳音に話しかける。
「柚木藍。ヨア・ニュー・シッター。日本語を教えてるよ。よろしく」
微笑みながら子供に話しかけると、やはり子供は父に隠れて藍に懐こうとはしない。
「こら、琳音。パッパは仕事に戻るんだぞ」
「……はい」
うつむきながら琳音は藍の元に近づいて、その服の裾を掴んだ。そして小さく、彼再び挨拶を返した。顔も向けないまま。
「ブルール、よろしく」
「よろしく、琳音くん」
藍は琳音の視線に目線を合わせてその頭を撫でる。すると、彼は機械的なハグで間接的に答えを返した。普通の五歳児に比べると少し大きな体は、吸い付くようにやわらかい肌を藍の首筋に押し当ててひたすらに黙りこくっている。
きっとなんと答えればいいのかわからないのだろう。そう感じながらも、藍も琳音の背中に手を回してそのままゆっくりその背中を叩いた。
「じゃあ、あとは頼んだよ」
「はい、かしこまりました」
光場は自身の息子を藍に任せると、そのまま大きな歩幅で仕事部屋へと戻っていった。それからドアを閉める音が聞こえて藍は抱きっぱなしの琳音にさっそく彼のしたいことを尋ねてみた。
「琳音くんは何が好きかな?」
「あっ……。なんだろ……。わかんない」
サジェスト、ブルール。つまり「にいちゃんが考えて」ということか。藍はどうしようか困惑しつつも、何か遊具はないかと部屋を見てみることにした。きっとリビングにおもちゃがあるかもしれない。そう考えて彼はリビングに目をやるが、そこには大きなソファーベッドとテレビ以外、何も置かれていなかった。
「琳音くん、おもちゃはないの?」
すると琳音は玄関に目をやって、そのまま目線を藍に合わせた。
「おもちゃ?」
「トイ! ゼア?(おもちゃ! ある?)」
「ナッシング。エニシング(ないよ。何も)」
静かにそう答えた琳音は、そのまま琳音に抱きついて離そうとしない。何が起きたのかと藍が困惑していると、彼はふと悟った。この家にはおもちゃが無いのだと。子供向けの玩具さえない寂しい家だ。そう感じつつ、彼は冷蔵庫に貼られた写真に目がいった。そこには少し色褪せてはいたが、琳音によく似た少女が不器用な笑みを浮かべてアイスを口にしていた。
「なあ琳音、あの人は誰だ?」
「ヴァ? (Va?)」
冷蔵庫の写真の位置に、琳音の体は爪先立ちをしても目線を合わせられない。そこで藍は琳音を抱き上げてみた。思ったよりも軽いその体に若干驚きながらも、琳音の反応を窺う。
「……マンマ……」
そう悲しそうな声が聞こえて、琳音が涙を流していた。ああ、もしかしてこの人は琳音の母親なのだろうか。止まらない涙を堪えようと必死に目元を押さえる琳音を抱きしめ返して、赤ん坊のように藍はあやした。
「ごめんよ。許して。許してくれ」
自分もかつて目の前にいた愛しい人が亡くなるのを見たのを思い出して、彼もずっと流していなかった涙を流して過去を振り返っていた。
子供の前で、恥ずかしい。そう思う藍もいたが、内心失ったものが戻らないという事実に今更悲しさというものを覚える自分の浅ましさに感じる悔しさの方が強かった。目の前で失った時も、墓参りした時も泣くことはなかったのに。
その日はずっと琳音と泣き合いながら、初日を終えたのだった。
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