藍の人生と運命の存在ども

夏山茂樹

第1話 金になるなら何でもやってやる

 その年の大阪は、柚木藍ゆぎらんの故郷である富山のように重たくて冷たい雪が降るのではないかと思われるほど寒く感じられる冬だった。彼は一月に集中して行われる大学のテストも終わり、十一歳の時から過ごしていた大阪に戻ってきていた。本当はあまり戻りたくはなかったのだが。


「藍くん、お酒買ってきて。エビスの缶二本ね。今日は久々にお父さんが帰ってくるから」


「おばさんはいつもエビスビールを飲みますよね。たまには他の種類もどうですか?」


 藍が眉を潜めて他の種類の酒を勧めると、女は嫌そうな顔をして机をドンと叩いた。柚木家に預けられた頃の藍はこの表情を見るのが嫌で、嫌々言うことに従っていたが、もう今では何か反論することもできる年頃になっていた。


「そんなに私がエビスビールを飲むのが嫌なんか? あ? 藍、お前が一人きりになってから大学生になった今に至るまで、育ててきたのは私たちなんよ? 文句があるなら出て行け! この寄生虫めが!」


「はあ。でもそんな僕が受け継ぐはずの遺産を食い尽くしたのはあなたがたですよね。おかげで僕は大学の授業料さえ奨学金に頼りきりだ。この目の下を見てください。クマができているでしょう? なぜだと思いますか? 大学の授業を受けながら仕送りさえもらえないまま、毎晩バイトをしているからですよ!」


「だから?」


 女は椅子にもたれながら、藍を嘲笑うような目線で見上げた。その視線に、藍は彼女の座る椅子を思いっきり蹴り上げて叫んだ。


「証拠は押さえてんだよ! 俺が警察や弁護士に相談しないだけで、お前らのやってきたことは立派な犯罪なんだからな! 寄生虫はお前らだぞ。よおく覚えとけ、この雌豚。せいぜいお前の旦那に跨って、その醜い喘ぎ声を壁越しに聞かせるんだな。お隣さんに」


 すると女は激昂して、電話の子機を手に取った。


「いま私の座る椅子を蹴ったね? 暴行で通報してやる」


「もっとも、それをした地点でお前らも豚箱行きだけどな」


「…………」


 彼女はそれから立ち尽くしたまま、子機を握りしめて黙り込む。小さな体についた大きな頭の眼二つで藍を睨みつけながら怒りを込めたような目でじっと見つめた。


 藍にとって、自分が本来受け継ぐはずだった遺産を横領した親戚の家に戻ることはしたくないことの一つだった。だが、マンションの近くにある地域掲示板には、たくさんのバイト募集のチラシが貼ってあった。


 柚木夫妻が藍の受け継ぐはずだった遺産で買った中古の高級マンションには、たくさんの小金持ちが集まって暮らしていた。そのマンションには、ジムや子供用のプール、遊具付きの公園といったファミリー向けの施設が備わっている。


 そういった家庭の親たちは基本仕事や近所付き合いで忙しくて、おまけに近所の保育所も埋まっているような状況なのでシッターの募集が後を絶たなかった。 

 専門の保育士を派遣する会社にお金を払えばいい話なのだが、少しでも節約したいとマンションの親たちは基本この時期は休みである大学生を雇っていた。

 藍は西宮にある有名私立大学の教育学部に在籍する学生だ。だから、学費を少しでも稼ぐために時給の高いマンションのシッター募集のチラシを探そうと戻ってきたわけだ。

 例えそういったバイトがなくても、短期の派遣である程度稼いでおけば少しは足しになる。三宮より、大阪の方が仕事は多い。そう思ったのもあったのだが。


「……おばさん、あなたは一度エビスなんてものよりも普通の発泡酒を飲んでみた方がいい。それが普通のサラリーマンの飲むお酒です」


「はあ、使えない男になったわね。お前は」


 そう言いながら椅子に座り直して脚を組む女は、ポケットからシワクチャになったセブンスターの箱を取り出すと猫背を曲げて、火をつけながら息を思い切り吸い込む。それから何秒経っただろう。煙を部屋から出ていく藍の背中に嫌味ったらしく吐いた。


 その煙の苦さに後ろめたさを感じながら藍はスニーカーを履いて部屋を出て、エレベーターに乗る。その途中、スラリとした女性と遭遇した。彼女は高そうなコートを羽織って、コツコツとヒールで音を鳴らしながら藍を見つめる。

 その視線に気づきつつも、彼はどう対応すればいいか分からないままエレベーターを待つ。どこかの国のアイドルによく似たその顔をチラチラ見つつも、藍は時々ぶつかる視線に頬を染めかけていた。

 彼らはそのまま黙りながらエレベーターを待つ。その時間はいつもの何倍よりも長く、永遠に近いようにも感じられた。そんな気まずい沈黙の中で、隣の女性が藍に声をかけた。


「お兄さん、最近よく見かける顔ね。ここに越してきたばかりなの?」


 女性の落ち着いた声が、荒ぶっていた藍の心を鎮めてくれる。F分の一ゆらぎというのか。彼女の声には人の心を落ち着かせる作用があるように、彼には感じられたのだ。


「ああ、なんというか……。実は帰省してるんです。いつもは西宮の大学で教員免許を取る勉強をしてます」


「あら、そう! ちょうどよかった」


 彼女は微かに笑うと、抱えていたポスターを開いて藍に見せた。


「ちょうどこのマンションに住んでる男の子のシッターを探してたの! よかったらやってみない?」


「えっ、なんで俺なんかに……?」


 藍が困惑したまま立ち尽くしていると、彼女は口を開いた。


「お兄さんなら、どんな子でも懐いてくる気がしたのよ。いまちょうどレッテの男の子を世話してるんだけど、日本語が不得手ふえてな子でね……。英語や他の言語の方が日本語より得意みたいなの」


 私は英語できない元ホステスだから手に負えなくてね。彼女は苦笑いしながら到着したエレベーターに乗った。藍も取り残されないように急いでその中に飛び込んだ。


 英語の方が日本語よりできる男の子。言い換えればカッコいいが、シッターとの会話で困難が発生しているというのは、問題がある。そんな子の世話をしないかといきなり言われても。藍も複雑な顔で微笑んでいた。だが、シッターのバイトに誘われたのだ。このマンションのシッターのバイト代は他のバイトや派遣よりもいいものが比較的ある。


「そのバイトってどんな感じなんですか?」


「詳細はポスターに書いてるから、読んでみて」


 そう言われてポスターを受け取った藍はくるまったそれを開いて詳細を読む。


『英語ができる人を求む! 英語を話す子供と一緒に一日を過ごしてみませんか? 可愛いレッテの男の子です』


 『詳細』と言われていざポスターを開いてみたものの、これではどんな仕事内容かよくわからない。だが、下の方へ目を向けると、小さく時間と時給が書かれてあった。


「時間 七時三十分から十九時まで 時給 三千円〜」


 大学生にとって、時給が三千円から始まるバイトは特別なものだ。何か特別な資格がないといけないのだろうか。不安になりながら、彼は隣の女性に尋ねた。


「このバイトって何するんですか?」


「レッテの男の子の世話よ。でもどう扱えばいいか正直わからない。ずっと私から目線をそらして、私が目を見ると怯えてこういうのよ。『アイアイアイ』って。意味わかんない。今になって思うんだけど、ホステスに会いにくる客って、教養があって、きちんと家庭を築けていたのね。中には離婚した人もいたけどね」


 ハア。女性の横顔は、一見するとハッとするほど美しくて、その顔とスタイルの良さだけで生活できるのではないかと思えるほどだ。

 その上、ホステスといえば医師や教授といった教養と地位のある男たちとの会話で知己とウイットに満ちた会話力や、ほんの些細な気遣いが求められる。そんな彼女が手に負えないといって、目の下にクマを作って泣きそうな顔をしているのは見るに堪えなかった。


「あたし、ホステスに戻るわ。ずっと子供と関わる仕事に夢見て、やっと免許が無くてもできるこの仕事を見つけたけど、ダメだった……」


 女性は涙を流しながら肩を震わせている。いたたまれなくなった藍は、その女性の苦労がどこか自分と重なって、これ以上その様子を眺めてはいられなかった。


「えっと、俺やりますよ。英語なら大学受験くらいならやってるし、子供の世話も教育学部でやってますから」


 その言葉を聞いた彼女は、ホッとして肩を下ろした様子で静かにつぶやいた。


「ありがとうございます……」


「ちょうどバイトを探してたところだったし、むしろお礼を言わないといけないのは俺の方ですよ。ありがとうございます」


 藍は女性にハンカチを差し出して、静かに言った。


「泣きたい時は泣いてください」


「……ありがとう。あなた、優しいのね」


 感情が崩壊したように崩れた女性はエレベーターの床に崩れ落ちて、そのまま一階の地へ落ちていく密室の中で泣き続けていた。藍はその光景から目を背けて、代わりにポスターの連絡先にある電話番号を見つめていた。


 それから一〇日後。大量の本が積まれた暗い部屋で藍は面接を受けていた。太った男性と面向かって、緊張しながらどう自己アピールすればいいかに悩まされている。普通、シッターのバイト面接では自己アピールはしないものだと思っていたから、彼はどうすればいいか分からなかった。


「……何もないのかい?」


 何分も続いた沈黙を先に破ったのは、例の男の子の父親だった。彼はどこかイライラしている様子で、藍を睨みつつもそれを笑みに隠していた。


「その……、光場ひかりばさんは何か本にまつわるお仕事をなされているんですか?」


 埃に包まれた本を眺めながら、藍は恐る恐る光馬の顔を見つめた。すると彼は目を丸くして、逆に聞き返してきた。


「私の名前を知らないのかい? 『フェムトン』って小説があるだろ?」


「ああ、最近映画がヒットしてますね。大学でも『観に行った』と話題にしてる人を見かけますよ」


 すると光場はその丸い指で自分をさしてこう告白した。


「実はその原作を翻訳しているのが私なんだよ。ペンネームを使っているからわからなかっただろうけどね」


 映画館に行く時間と余裕がなくて、友人たちが話すその映画の話題についていけなかった。彼にとってはそれが悔しくて、自身の貧乏と遺産を食い尽くした柚木夫妻を憎むきっかけであり象徴ともなっていた。


 藍には恋人がいる。京都の美大を出た後で、モノクロで映画を撮る変わった映画監督だ。イロモノとして彼女の映画を見る評論家や観客たちが数多くいる中、藍には彼女の作る映画から、いつも色々な空気の匂いが漂い、温度や湿度が、感じ取られた。


 雨の日の路地裏の冷たさや、そこに横たわる野良猫とアスファルトの臭い、自分のことで精一杯になりながらも、思い人を忘れられない男の悔しさ。色々なものが彼女の作る映画にはあった。


 最近の海外映画のように、精密に作られた脚本も、一般の観客には気づかれないような小細工なんてものは排除して、ただぼーっと観ていられて、それでいて物語や登場人物のセリフが頭にストンと入ってくる不思議さ。


 映画制作のスタッフとしてバイトをしていた藍は、監督である彼女に惚れて、惚れられて一晩で男女の関係になった。それがもう二年は続いている。

 資産家の娘である彼女は親に支援されて生活し、映画を撮りながら色々な人々を取材して、ドキュメンタリーエッセイも書いていた。好きなままに生きられる彼女を内心羨ましがりながらも、自分にはないものを編み出せる彼女は、藍にとって憧れであり大事な人だった。対等な人間としてみていた。


 だから藍の生活の苦しさで彼女が援助を申し出た時も、「お金は関係が壊れる」といって断ったことがあった。一度だけではない。何度も彼女はそれを申し出て、藍は断り続けている。


 そんな彼女も最近観に行ったという『フェムトン』という映画。時間もお金もない自分はその鑑賞を断り続けているが、とうとう観ておけばよかった、と後悔の念に駆られる時が来るとは思いもしなかったのだ。


「……存じ上げず申し訳ありません。実は大学に入ってからずっと、授業とバイトを行ったり来たりで娯楽にはほとんど触れてこなかったもので……」


「そうか……。前の子がね、君について教えてくれたんだよ。紳士的な性格で、西宮の大学で教員免許を取るために学んでいるって。西宮の大学って、頭いいところだよね? 英語に関する資格は持ってる?」


「ああ……。高校時代に取った英検準一級がありますが、本当にそれだけですよ」


 すると男は微笑んで言った。まるで雪だるまのように丸いその顔は、本当に優しそうな顔をしていた。


「明日から来れるかい? 実は息子と意思疎通いしそつうを図れる人がいなくて困っているんだよ……」


「本当ですか? よろしくお願いします!」


 やっと春休みのバイトが決まった。藍は喜んで思わず笑みをこぼした。光場もニヤニヤしながらその背中に腕を回して励ました。


「頑張ってね。うちの子は、人見知りが激しいんだ。とても」


 その意味を藍は知らなかった。

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