86・


 一週間前にさかのぼる。


 気を失った楓が沙那に付き添われ、第十二部隊ヒルノートに搬送された直後のことだった。黒爪を突き合わせにらみ合うグレアとエルガのほど近くに、華奢な鎧に身を包むゼノビアの姿があった。


いらえよ、わが兵を手にかけた不届き者」


 カルヴァを背負う女王の威圧はすさまじく、一説によれば味方の兵すら怒気に震えあがったとか。しかし対面するエルガもまた、どこかネジの外れた一人であることを疑う余地はない。アンナに片目を奪われてなお横柄な態度を崩さなかった。


「なんだテメェは」

「カルヴァの長といっても伝わらんだろうな」

「知ってるぜ。これから歴史に名を残すクソ国家様だろ? どうだ王様、オレと戦えよ。こっちが勝ったらテメェの国をもらう」

「私が勝ったら?」

「オレの命をやるよ」


 ゼノビアはあからさまな侮蔑を顔に浮かべた。


「論外だ。道端の石ころを差し出されて誰が喜ぶ」

「あ?」


 エルガの筋肉が盛り上がり、得物を押す手が強まる。が、グレアを押し返すことはかなわず、現状維持にとどまった。苛立たし気な舌打ち。


「じゃあテメェはここに何しに来た」


 ゼノビアはそれに応えなかった。炎の色を讃えた瞳が、競り合う二人の向こうを見る。いぶかしみ振り向くエルガの目に、兵を連れて歩いてくるリドオールの姿が映った。


「こんなところで会うとは、まことに偶然ですな」


 パデューロの尖兵たちはカルヴァの兵にも引けを取らぬ威容で整列する。中央に守られた獣人の長老は、心底愉快そうに笑う。


「カルヴァで言われたことが少し気になりましてな。あの人間を守ることができればとこうして馳せ参じた次第です」

「左様ですか。それは願ってもないお気遣いです。──いったいどのような心変わりが?」


 パデューロの国は人間に対し排他的な姿勢を貫いている。何がどう転べば人間を守るなどと言う嘘が吐けるのか。ゼノビアはもちろんその言葉を信じていない。


「あの人間は無事でしたか」


 リドオールの方もそんな世間話などどうでもいいのだ。早々に話題を切り替える。


「ええ。もはや狙われることはわかっていたので。最悪の事態に備えていくつかの手を打っておきました」



 すでにゼノビアは三つの策を仕込んでおいた。



 一つは、女王と一部の部隊長しか知らない、第十三部隊ティセトリアの存在である。「朝を待つ者Xthythe htrier」を意味するその部隊には、たった一人の獣人が所属している。──イヴのことだ。彼女の任務は。パデューロに寝返ったふりをし、その実必要な情報をカルヴァへ送り続けていた。もちろんスパイのふりをしなければならないため、ゼノビア側の情報もいくらか流すことにはなったが、結果は上々。余りある実益を得られた。例えば、パデューロの軍事状況などがそれにあたる。

 ゼスティシェでイヴを放置したのは、都合動きやすいからであった。

 女王は国にいながら情報戦を制したのだ。



 二つ目に、ゼノビアがイヴに預けた薬。

 《聖なるコウモリの涙ヴァティー・シシル・バケット》は、爬虫類の獣人や原生生物から採取した四種類の毒を調合し、命に害がないギリギリまで希釈したモノである。

 効果は楓やシロツキにあらわれた通り。体熱をむりやり引き上げ、心拍数を上昇させ、脳からアドレナリンを大量に放出させる。ともなって痛みへの耐性と活動限界を一時的に伸ばす。──後日、とてつもない疲労と筋肉痛が来るが、すべては命あっての物種である。



 最後の仕掛けは、彼女たち自身の行動だった。

 カルヴァが普段行う戦争は、防衛重視のものである。むろん、国を守るためなのだからそれが正しい。しかし今回の戦争では、グレアを筆頭に第三部隊ルートニクの面々が積極的に人間を無力化して回った。それもこれも、エルガと戦闘直後の彼を助けるため。──たった一人、あらゆる経験に恵まれ、なおも獣人と人間の共生を夢見る、稀有な人材、楓を。


「それは良かった。頭の切れる指揮者のおかげですな」

「どうも」


 くだらないお世辞を受け流し、ゼノビアは問う。


「ところで、この者の後処理は私たちにお任せ願えますね? 今回の戦いで実害を受けたわが兵に良い報告を持ち帰るためにも」

「ええ、ええ。むろんわたくしもそうするべきだと考えてはおりますが……はたして本当にそれでよいのですか?」


 長老は人間の顔に映えたジャッカルの髭を弄びながら、意味ありげな視線を寄越す。


「元来人間の領地での出来事は律法の上で不問になることと取り決めてあります。これは我々の親の代から受け継がれてきた長きにわたる取り決めです。閉ざし口の承諾(注:暗黙の了解)と言い換えてもいい」

「もちろんそれが頭から抜け落ちていたわけではありません」


 むしろ、リドオールならそこを詰めてくるだろうと思っていた。


「ですが今回に限っては事情が違います。楓は我らが国に属し、利するように動いていた。いうなれば、私の所有下にある。兵の一人として扱い訓練を施し、今日に備えていたのです。それを傷つけられた私たちの心象も、長老、あなたは理解できぬわけではないでしょう」

「なるほど、つまり」


 彼の目に怪しい光が浮かんだ。


「所有下においた人間を獣人に攻撃させれば、反撃の口実を得られる、と、そういうことですかな?」


 ゼノビアは目を眇めた。手痛い反撃だ。こう返してくることは予測できていたが、なお痛い。


 たとえばパデューロが人間を味方につけたとして、その人間がマーノスト兵に紛れていたら、そしてカルヴァが誤って攻撃してしまったら。パデューロは正式にカルヴァへ攻撃する口実を得たことになる。人間に獣人の法を適用するとは、そういうことだ。戦争はいまよりも激しさを増すだろう。今度は獣人同士での戦いに熱を上げることになる。


 そんな未来は誰も望まない。


 じゃあ焦点をイヴの負傷にずらすのはどうだ。

 いや、だめだ。ここでイヴの話を持ち出せば、二重スパイの狡猾さが国を挙げて問われてしまう。灰色の行いをしているのはパデューロもカルヴァも同じだった。


 でも、せめて。


「それでは、私から一つ条件があります」

「いかがなされた」

「今回の戦いで我らに刃を向けたエルガの処刑に、ぜひとも立ち会わせていただきたい」


「陛下」彼女をとどめたのはグレアだった。「危険すぎます」


 そんなこと百も承知だ。エルガに関わるあらゆる後始末はパデューロ国内で行われるだろうから、それを見学しに行くということは、敵陣のど真ん中へ踏み込むことに同じ。グレアは女王の側近の一人として見過ごせないだろう。


 だが、とエルガを睨む。

 こいつの死を確認するまで、どうして引き下がれよう。ゼノビアは知らず奥歯を噛みしめた。立ち合いさえなければ、エルガはおそらく殺されない。


「処刑に、ですか」リドオールはいった。「あまり見世物にするべきものではありませんが」

「その者の死を見届けずして、どうして私の所有物に良い報告を届けられよう。理解しているでしょう。長老」

「どうしてもと言うのなら、あらゆる危険を想定してもらうことになりますな。お恥ずかしい限りですが、わたくしの国は治安が悪い」


 野盗のせいにしてゼノビアを殺すつもりなのだろう。知っていて、なお、退いてたまるか。


「それでかまいま──」

「ゼノビア陛下」


 つぎに彼女を制止したのはメリーだった。

 いつものふざけた調子はどこへやら。声音は低く、冷たく、怒りが滲んでいる。死者が出るような戦いの果てに何の結果も得られない。それが悔しいのはここに集まった兵たち全員が同じだ。


「こらえましょう」

「……すまない」

「いえ」


 メリーは口端を持ち上げた。見る者をほっとさせる、心強い笑みだった。


「理解しました。リドオール長老。この者の処置をあなたに任せます」

「ええ。互いのためにも、それがいいでしょう」

「くれぐれも、死ぬまで目を離さぬよう願います。この者を逃がしたとあれば、パデューロの杜撰ずさんな管理体制が明らかになるというものです」


 ゼノビアの精いっぱいの追撃は、リドオールに一瞬苦い顔をさせるだけの効果はあった。国の悪評が広まるのは痛手なはず。いい気味だ。ゼノビアの溜飲は少し落ち着く。


 やがてエルガはパデューロの兵に引き渡され、そのまま引きずられていくのだった。






     *






「つまり、ゼノビア陛下は望んで逃がしたわけじゃないってことですか」

「ああ。このあたりの国のしがらみは私にもわかる。信じていいだろう」


 よかった。と僕は思う。

 結果的にグレアを殺せなかったのは、悔しいし、怖い。いつ反撃が来るんだろうと怯えながら暮らすことになりそうだし。でも、ゼノビアがみんなの努力に報いようと食い下がってくれた事実は、僕の心をいくらか温めた。


 話の途中で沙那が淹れてくれたお茶はすっかり冷めている。アンナは左手で慎重に飲んだ。


「利き腕を持ってかれたのは、不幸だったな」

「私が腕になります」


 沙那がアンナの後ろから抱き着いた。王女当人は頬を赤らめながら、ありがとう、と礼を言った。その顔は嬉しさ半分、切なさ半分と言った感じで、僕は尋ねずにはいられなかった。


「リェルナ王女のことは──」

「ああ。沙那にも話した」

「うん。たしかに聞きました」と沙那。「この体の元の持ち主なんだよね」

「そうよ」


 アンナが、子供に諭す母親のような淡い声を出す。妹に話しかけるときの癖なのかもしれない。


「とても優しくて、お転婆で、温かい子だったわ」


 沙那の手を引き、自分の前に誘導したアンナ。そのまま、妹の姿をした他人の頬に、手を沿えた。細まった目が悲嘆を告げる。


「……信じられない。もうリェルナがいないなんて」

「──っ、あの、アンナ」

「なにかしら」


 沙那は意を決した様子で泣きそうな顔をあげる。


「ごめんなさい。あと、ありがとう」

「……どうして」

「記憶喪失だって、嘘ついてごめんなさい。それに、わたしに色々教えてくれてありがとう」

「いいのよ。私一人が腑に落ちないだけで、もう終わってしまったことなの。リェルナの死も沙那の回魂も」


 泣かないようにこらえていた沙那の瞼から雫が一つ落ちた。雫はアンナの手に伝い、窓の外から注がれるカンテラの灯りでオレンジ色にてらった。


「あとは」


 涙をすくい、アンナは沙那の頬に口づけを落とした。


「私がこれを呑み込んでしまうまでの話なの」


 無性にお礼を言いたくなった。アンナ自身まだ納得のいかないことがあるはずなのに、それでも沙那を気遣ってくれたのだ。


 しゃくりあげた沙那がそっと頷いた。顔を覆って俯いた彼女を、アンナが抱きしめた。


「楓、お前が動けるのはいつになる」

「いつ、でしょうね。サジールに聞いてみないことにはなんとも」


 ほんとに、いつになることやら。イヴによれば知らぬ間に僕は骨折していたらしいし。そういえばみんなにお礼言わないとな、とか思っていたら、アンナに先手を打たれた。


「動けないようなら、私が呼んでこよう」

「え。誰をです」

「ゼノビアをだ。沙那や私がここにいる意味を知っておいた方がいいだろう。パデューロの獣人がお前を狙っていた以上、もう国のやっかみに無関係ではいられないからな」


 うわあ、と思う。

 そういうドロドロしたものは目に見えない場所でやっててほしい。裏切りとかスパイとか、自分が関わるなんて考えたくもないことだ。


「早急に聞いた方がいいことですか」

「あらゆる情報は早いにこしたことはない」


 一国の王女が言うからそうなんだろうな。

 僕は観念して苦笑を返した。



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