85・戦いの去り際に
「お姉さまッ」
沙那がとっさにアンナを支えるのを、僕はまさに回復してきた左目で見る。倒れ伏す彼女は、陽だまりの中でくつろぐ猫のように幸福そうな表情を浮かべていた。でも顔色はどんどん悪くなっていってる。右肩からあふれ出す血は命そのものに見えた。
「医療班をこちらへ呼べ! 決してこの命を散らせるな!」
盾になりながら、
なんでここにいるんだ。カルヴァで戦争中のはずじゃなかったのか。
僕の疑問を読み取り、グレアは言う。
「ゼノビア陛下のご指示だ。お前たちを助けに行けと」
「カルヴァに人間が攻め行ったって──」
「もちろん対処してきた」
不敵な笑み。
「攻撃用の《
戦争直後にこんな僻地まで走って来たって言うのか。
「……めちゃくちゃ、ですね」
「ふん」
周囲がアンナを搬送しようと動き出す中で、たった一人が反発の声をあげた。
「おいテメェら……王女に触んなッ!」
さっき待たせておいた零が
カルヴァの獣人たちが固く気配を押し固め、戦闘に向けて注意を払う。
僕にとっては両方味方だ。獣人と彼が戦うところなんて見たいわけがない。
「っ、どけッ!」
「止まってください! 味方です!」
「そんなわけが……おわっ!?」
百八十度旋回しようとした零は、勢いを殺しきれず
「メリー」
「はーい了解」
グレアの呼びかけに応じ、獣人の中から副隊長が姿を現す。彼女は黒爪の触手を器用に使い、零のバイクを立て直す。
「大丈夫?」
そのまま触手で助け起こされた零はぽかんとしてメリーを見つめる。
「戦いは終わり。いまさらくだらないことで怪我しないでね、おにーさん」
「、王女、は」
「私たちの部隊が責任を持って治療するよ。もちろん、立ち会いたいなら手配するけど」
「……あいつは」
零が指さしたのはグレアと競り合っているエルガだった。
メリーが表情を消し、低い声音で言う。
「殺そうか。わたしたちの大切な部下をここまで傷つけたんだから」
「……」
「なーんちゃって。そんなに怖い顔しないでよ」
「怖い顔してたのはテメェだ」
「んふふ、失敬」
メリー副隊長、とイヴが呼んだ。
「まもなく楓に活動限界が来ます。《
「うん、了解。イヴもね」
「私には、まだやることが」
「そ。ゆっくり休むことだよ」
「……陛下への報告が」
「それは別の
イヴは不服そうな顔で、でもちょっとほっとしたように息をついた。
ふと気がついて、僕は沙那の方へ駆け寄った。
彼女は
僕は胸をなでおろしたい気分だった。
他人を気遣えるくらいには元気みたいだ。獣人に攫われたってくらいだから、もしかしたら獣人そのものがトラウマになってしまったんじゃないかと心配していたけど。
さて、僕がするべきことはじっと状況を眺めることじゃない。
エルガへ向けて刀を構える。
──と、世界が回った。
足にも腕にも力が入らなくて、武器を取り落とす。膝をつく、ついには鎧の中のシロツキの体重──身長に似合わずかなり軽いが──すら支えられなくなった。砂に顔を埋めるように、ぶっ倒れる。
内臓がきりきり痛みだした。なんだこれ。すっごい痛い。心臓が脈打つたびに、じゅくじゅく出血の感覚がする。うわぁ。気持ち悪い。
頭の中に活動限界の文字が明滅した。
速く立ち上がらないと。
そう思うのに体を動かせない。
劇薬だって、イヴは言ってたな。反動もかなりのモノらしい。
仕方ない。なんとか顔を横向けて、みんながいる方を見た。
今にも泣きだしそうな沙那が駆けてくるところだった。
*
「げほ──、ッあ“、」
「ッ、おい」
あー、既視感があるな。
全身の激痛に襲われながら、僕はのんきに考えた。
目を開けると立派なベッドに寝かされていて、周りを分厚いカーテンが囲んでいる。もしかしなくても病院だ。この天井は見覚えがある。
枕元の近くに座ったサジールが、にへっと笑った。
「昏睡期間、一週間。最長記録更新だな」
エルガの強襲を受けてゼスティシェで治療したときは四日間だったっけ。
「なんにも嬉しくないけど、──けほ、」
「無理して喋んな。小声でも充分聞き取れる」
サジールが口元に耳を寄せてきた。
特に言いたいことがあるわけじゃないんだけどなぁ、と思って、とりあえず感謝を告げた。
「ありがとう、サジール」
「別に。いまさらこんなの屁でもないっつの」
エルガとの戦闘に、彼女は参加しなかった。僕とシロツキがマーノストで待っているように言ったからだ。彼女は一人で待っていてくれた。
無事で帰るっていったのに。
「いっぱいケガして、ごめん」
「っ、」
サジールは泣き出しそうな、怒ったような表情を同時に浮かべて、僕の頭を叩いた。
「バカが。あたしはなぁ、慣れっこなんだよ。知り合いに死なれんのも、全身ぐちゃぐちゃになった奴を治療すんのも」
「……ごめん」
「お前さ、考えたことあんのかよ。友達とか仲間がめちゃくちゃ怪我してんのに、一人だけ帰りを待ってるやつの気持ち」
サジールの目頭に涙が滲んで、それはとたんに決壊した。
「──ごめんって言うなよ。あたしのほうが『ごめん』だよ。戦えなくてごめんって、代わりに怪我してもらってんだからこっちは。いっつもごめんって思ってんだよばか」
落涙する彼女を見るのは初めてのような気がする。なんだか悪いことをしてしまった気分になって、気づいたらサジールの頭を撫でていた。
「一緒に色々背負ってくれてありがとう」
「色々って、なんだよ」
「さあ? 色々だよ」
「適当なことばっか言いやがって」
しばらく泣いた後で、サジールは鼻を鳴らして顔をあげた。
「目ぇ覚ましたって、みんなに言ってくる」
「うん」
「動くなよ」
「動けないよ」
腕を上げるのでさえ一苦労だ。
少しして、沙那がやってきた。
戸を開けるやかましい音がしたと思ったら、引っぺがされたようにカーテンが開く。持久走を走り終えたあとみたいな、火照った頬が現れる。
「おかえり」と彼女は笑う。
「ただいま」
「うん、おかえり」
噛みしめるように言って、沙那はさっきサジールがいた椅子に座る。
「元気?」
「全身の激痛を除けばね」
「なるほど。怪我人って感じだ」
「事実怪我人だよ」
なんでもないやりとりに、いいなって、小学生じみた感想を思ったりする。こうして落ち着いて話せる時間がずっと続けばいいのに。
沙那の表情がふいに曇った。
「……いきなり、後遺症がでて、その、死んじゃったりしないよね」
ないよ、と断言したかったけど、確信が持てない。イヴに打ち込まれた薬がどういう効果を発揮したのかわからないし、この体はシロツキの全力を文字通り体感したわけだし。
だから僕は曖昧にうなずく。
沙那は不安げに僕の手を取った。
「なんかこれ、医療ドラマみたい」
「僕が看取られるシーンかな?」
「縁起でもないね。やめよ」
手のひらの熱がぱっと散った。
それから無言が続いた。実の家族を直視し続けるっていうのはちょっと照れくさいから、僕は天井をじっと見ていた。沙那も同じだったみたいで、視界の端に移る彼女は窓の外をぼんやり眺めてる。
「ジュージンの国って、こんな感じなんだね。秘密基地みたい」
おや、と思った。
「どうして沙那がここにいるの?」
「沙那だけではない」
もう一つ声がして、僕は入口に視線を向ける。開け放たれたカーテンの向こうにアンナが立っていた。
「王女……」
「失礼するぞ」
「ええ」
アンナは律義にカーテンを閉め、沙那の隣に立った。
「座ってください、アンナ」
沙那が椅子を勧める。アンナは断ろうとしたけど、沙那の「座らないなら怒ります」という脅しに苦笑し、けっきょく腰かけた。
くるり、と、彼女の着ていたセーターの袖が
右腕がなかった。
「……あの」
「接合は、間に合わなかった。筋繊維も神経もバラバラにされてしまってな。サジールといったか? その者が、『くっつけるのは無理だ。感染症にかかるのが関の山だ』というから、諦めた」
「……ごめんなさい」
「なぜ謝る。腕一本で済んだのは幸運だったろうに」
アンナはおだやかに微笑んだ。
「四肢を欠損したのは初めてだが、こんなにも実感がわかないのかと驚いている。まだ生活に不便がないからかもしれないが」
彼女は残った左手を見下ろした。
「いつか、お前や沙那を助けたことを、後悔するのかもしれない」
「あの」
沙那が頭を下げようとする。アンナは素早く沙那の額を支え、礼をさせなかった。
「謝らないで、沙那」
一転して柔らかい口調が言った。
「あなたを悲しませたくて身を
「……でも」
「ありがとうございます。アンナ王女」
僕が言うと、沙那はハッとして、ありがとうございますと声を張った。アンナはそっとうなずいた。
気を取り直しすように一つ息をし、彼女は言う。
「お前が倒れた後、色々なことがあった」
「色々、ですか」
「ああ。何から話せばいいか……」
「エルガは倒したんですか」
真っ先に問うと、苦々しい表情が答えだった。
胸の中にどろりとした怒りが湧き上がる。
「逃げられたんですか!?」
あれだけの攻撃を注いでなお。
「違う」
「じゃあ……」
「エルガは逃がされたんだ。──リドオールという獣人と、カルヴァの長、ゼノビアによってな」
は? 一瞬思考が止まる。
陛下がエルガを逃がした?
そんなことをして何の得がある? 気でも狂ったのか? 失礼を承知で、脳内の僕は罵倒を吐き捨てた。それくらいしても許されるだろう。傷を与えるだけで一苦労だったあの獣人を逃がすなんて絶対正気じゃない。
「いったいどうして……ッ」
「国のしがらみだろう」
「どういうことです、納得できません」
体を起こそうとしたら全身が軋んで咳が出た。
「楓」
沙那が僕をたしなめる。悪いけど詳細を聞くまでは引き下がれない。僕は元通りベッドに横たわって、かわりにアンナを睨んだ。
「わかった」と彼女は言う。「まずは、私が意識の回復後に聞いた話をしよう。ゼノビアから直接言われたことだ。信用には足るだろう」
僕はうなずく。
アンナはない右腕をちらと見て、口を開いた。
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