82・再戦と追跡
弓を短刀に切り替えたイヴが、消えたと錯覚する速度で動いた。彼女が立っていた地点とエルガの中間地点で火花が散り、僕らはようやく戦闘の開始を知る。
「どうしたって言うんだ……」
シロツキの声が僕の意識を引き戻す。僕らを裏切ったイヴがエルガを攻撃する理由も、さっき薬を打ち込まれた僕がどうなってしまうのかも、何もかも不明瞭。だけどそれはチャンスに違いなかった。
「動くよ」
「っ、でも」
「サポートは大丈夫。シロツキは鎧の維持に集中して」
度重なる過負荷が彼女に強いた負担は大きい。しばらくのあいだは、黒爪を伸長させることもかなわないだろう。
「……わかった」
「行こう」
「ああ」
戦闘のどさくさに紛れて、僕らは沙那とアンナの拘束を断ち切った。
言葉の自由を得た二人だったけど、再会を喜んだりはしない。戸惑いの視線をイヴの方へ向けるのが関の山だった。僕も同じ気分だ。自分たちの安全が確保されているなら、すぐにでもイヴを問い詰めていただろう。
「アンナ王女」
呼び掛けると、彼女ははっとこちらを向く。
「
「……問題ない」
彼女はマーノスト兵の死体が転がる方を見やり、それでも冷静だった。
「いつでも出せる」
「沙那は? 動ける?」
「わ、たし、なにがなんだか──」
「後で必ず説明する。とにかく今は」
逃げなきゃ。
そう言いかけた僕の声は、岩を穿つ巨大な音に遮られた。
「……イヴ」
シロツキが眼を
砂埃がかかっていて目には見えないけど、《
「っ」
意味もなく足が震えだした。
「楓?」
「あのさ、シロツキ──」
馬鹿だ、と思う。
僕はどこまでおめでたい奴なんだ。
でも、たしかに馬鹿げてるって自覚はあるのに、僕はイヴの死に大きな焦りを覚えてる。決して仲間意識なんかじゃない。優しさからくるものでもない。ここでイヴが死んだら、僕らは一生彼女と話せなくなる。そんな当たり前のことがとてつもない焦りを生んでいる。
「イヴに手を貸そう」
シロツキは驚愕の顔で僕を見る。正気か、と問うように。
あくまで正気のつもりだ。自己診断には違いないけれど。
彼女がカルヴァを裏切った理由も、エルガを撃った理由も、僕は知りたかった。できることなら、ここにいる誰にも死んでほしくないと同時に願っている。ゼノビアがここにいたら、「不可能だ」と糾弾するだろうか。たとえそうだとしても、何もせずにいるのは違うと思うから。
「アンナ王女、沙那を連れて逃げてください」
「楓も一緒に……!」
捕まれた腕をやんわり払う。
「やることがあるから。またすぐに会えるよ」
「でも」
「時間稼ぎは頼む」
アンナが沙那を強引に引っ張りながら言った。
「感謝します。──行こうシロツキ!」
──第一陣掃射!
駆けだした僕らを後押しするように、この場を囲む岩の丘から、マーノスト兵たちが顔を出す。その手に把持された
全滅したんじゃなかったのか。そう思って見上げてみれば、彼らはみんな血にまみれていた。満身創痍のまま、アンナの指示を守って丘を登ったのだ。
負けられない。
腹の底がかッと熱くなった。
「ッハ」
対するエルガは笑う。背中にはイヴの矢が大量に刺さっているが、全部まとめて黒爪の中に包んだ。銃弾は固い鎧に手も足も出ず、ただ辺りに散らばった。
「
イヴが言い、新たな矢を放つ。エルガはそれを難なく片手で受け止め、逆にイブの体を岩壁へ叩きつけた。彼女を覆っていた鎧が砕けた。苦痛に表情を歪めながら、彼女はなおも矢を放つ。
僕と二人の距離はひどく遠い。シロツキの身体能力のサポートがなければこんなものなのだ。たったいま一つの命を奪おうとしているエルガを止められるかどうかも怪しい。
でも人間であることを不幸には思わなかった。
「クソッたれッ!」
誰かが叫んだ。
くだらない罵声の一つがこんなにも心強い。
僕は弱かった。いくら訓練をしようと本質的なところは何も変わってない。人間である事実はどうしたって揺るがない。
それで。それがどうした。
どんな言い訳も通用しない。
僕は弱い。だから誰かの力を借りるしかない。
──どうしてお前の行く先にはいつも味方がいる?
あるいは、味方ができる?
会食の時、ゼノビアはさも不思議そうに言った。
僕は思わず笑う。
今ならわかる。僕がひたすらに弱いからだ。《
はたしてこれは不名誉だろうか。
そうじゃないんじゃないか?
誰かが助けてくれるなら、それで大切なモノを──シロツキやサジール、沙那を──守れるなら。
僕は望んで──。
自転車のギアを切り替えたように、速度が飛躍的に増した。
「ッ、シロツキ?」
背後から感じる彼女の生命力はさっきより強くなっていた。瞳はまっすぐに前を向き、岩さえ貫いてやろうという気力に満ち溢れてる。
どうして。
いや、これも考えるのは後だ。
「やれそう!?」
「ああ!」
「僕の体とか、どうでもいい。シロツキの全部を頼む!」
刹那、景色がぶれた。
体験したことのない加速度に声さえ取り残される。
気づくと僕らは空を飛んでいて、眼下にマーノスト兵たちをも見据えていた。周囲を取り囲んでいた岩壁の上にまで飛んだのだ。シロツキの秘めていた、あるいは獣人本来の力。
地平に広がる青空と一面の荒野、遠くにうっすらと望むマーノストの城壁。
感動で声が出なかった。
獣人と言うのは、なんて。
「《
僕らは高飛び込みのごとく空を泳いだ。刀の切っ先にエルガを捉える。シロツキは最低限の鎧以外を得物の先端に集めた。僕ら自身が一本の矢になったみたいだった。
きっと、イヴの放つそれに似ている。
「《
──急降下。
全細胞をハンマーで同時に殴られたかのような。
そう勘違いするほどの衝撃が僕を襲った。鼓膜を打つ爆音がすべての音を消し去って、代わりに視界は鮮明だ。シロツキの生み出した刀はエルガの強靭な黒爪をも突き破り、胴体を貫いていた。
マーノスト兵たちは射撃の手を止めた。火薬の破裂音が長い残響の果てに止んで、静かな時間が続く。
「あー……」
ごぼっと口からあふれ出した血が、エルガの鎧を赤く染める。
「やるな、お前ら」
なおもこいつは笑う。これだけの深手を負っていながら。
僕らは刀を構えた。イヴも再び弓を持つ。
でも、エルガは
「──作戦シフトだ。ったくよォ……。なァイヴ。俺だって話を聞いてねェわけじゃねえんだぜ?」
《
追い払うことができた、のか。
その場に取り残された僕とイヴは、互いに視線を合わせる。
けっきょくイヴはどうしてエルガを攻撃したのか、理由を問いただそうと僕は口を開く。
けど、
「おいッ! 楓ぇッ!」
谷あいの道を走ってきた一台の
「零さん……」
「すぐに乗れッ! 今すぐだッ!」
切羽詰まった声に弾かれ、後部座席へまたがる。その拍子に全身──言葉通り、つま先から頭の頂点までだ──が串刺しにされたように痛んだ。体を駆け抜けた痛覚が吐き気に変換される。耐え切れず、
「シロツキ、楓を支えろ」
さらに後ろへまたがったイヴが、僕らの体を支える。
「これは二人乗り用だっつーのッ!」
零が叫び、魔動石を軽く撫でる。取り出されたエネルギーがタイヤへ伝わり、獣人にはみたないが、それでも早い速度で僕らは進んだ。
口の中の違和感に顔をしかめながら問う。
「何があったんです!?」
「あのくそ野郎が、残ってる俺らには目もくれず王女の一団へ向かっていきやがった!」
「沙那……!」
シロツキが息を呑む。
「アンナ王女たちはどこだ!?」
「マーノストへ向かってる。けど、あいつの方が早いかもな。何もしなきゃ追いつかれちまう!」
「護衛は!?」
「いるに決まってんだろ、一国の王女だぞ!? だけど、人間数十人集めたところでなんいなるっつーんだよッ。あんなバケモンに適うはずがねぇ。対抗するには」
彼はちらと僕らへ振り向いた。
「同じくバケモンが必要なんだ。お前らみたいな、人間を守る狂ったバケモンがさ」
僕は胃液でひりつく唇を持ち上げ、笑んで見せた。
「バケモノの力を借りたあなたは、きっと同罪ですね」
「そりゃそうだ。戦争なんかやってる時点で無罪なんかあり得ねぇ。だけどよお前、使える力渋ってちゃ、目の前の家族すら守れねぇんだ!」
使える力。
僕は上着の内ポケットからダイナマイトを取り出した。
「シロツキ、行けると思う?」
「……」
「これをさっき刀を差したとところに押し込みたいんだけど」
「……」
「シロツキ」
「……」
「ねえ──」
振り向いた僕は絶句する。
すでに彼女は意識を失っていた。
「シロツキ……? シロツキ。あ、ああ……イヴ、シロツキが!」
「落ち着け」
彼女は冷ややかに言った。
「さっきの反動が来ているだけだ」
「反動って……」
イヴは空の注射針を取り出した。
僕とシロツキに打ち込まれた謎の薬品を思いだした。
「姑息なその場しのぎに過ぎない、ひどい薬だ」
「獣人になる薬じゃなかったの」
「生物を作り変えるなんて、そんなバカな話が魔法以外にあってたまるか」
魔法ではあるというのか。
どちらにしろ怖ろしい話だ。
「これは《
「じゃあ、僕らは」
「死なない。それどころか、短時間だけ活動限界を引き延ばされている状況にある」
前世で言うアドレナリンって奴だろうか。思い至って、はっとする。
強制的に活動を可能にするなんて、それが無償であるはずがない。僕にもすぐに限界が訪れるだろう。
「零、 急いでくださいッ!」
「やってんだろ! これが最高速度だッ」
歯噛みしているうちに、背後から腕が伸びてきた。イヴが僕の手からダイナマイトを抜き取ったのだ。
「イヴ、それは」
「とうとうやってしまったな」
彼女はため息をついた。
「この世界にこんなものを生み出してしまうなんて」
脳に電流が走った。
一度も使ってないのに、なんで彼女はダイナマイトのことを知ってる口ぶりなんだ。
「イヴ……どうして」
「前世だ。覚えていたくもない、戦争の記憶だ」
それは、僕やシロツキのように。彼女はなんらかの経験を経てここにいるということで。何も言えなくなった僕を見て、イヴはため息をついた。
「どこまで行こうと殺し合いだ。他者を食べるため、他者から奪うため。──私は、私たちは、等しくバカげた生き物だ。欠陥品だ。殺さなければ生きていけない。まったく」
「……」
いまさらのように後悔が襲う。
榴弾はあれど、ダイナマイトはこの世界になかった。罠にも使えるこっちの方がむしろ凶悪だ。簡易的とはいえ、僕はそれをこの世界に持ち込んでしまった。戦争の未来を引き寄せたも同じだ。足元が崩れ落ちそうな、そんな感覚にとらわれる。
「でも」とイヴは言った。
「こんなものを生み出すほどに追い込まれていたお前が、進んで悪いことをしたことなんか一度もなかった。少なくとも、私たち獣人にとっては。その事実は認めるしかない。──お前は、こうするしかなかったのかもしれない」
ああ。
彼女は息をついた。
「ほんとに、この世界は綺麗だ」
太陽はその位置を変えていた。
わずかに赤らんだ空。その地平。滑らかな色彩。
それを見た途端涙があふれた。
イヴが、いくつかの言葉で僕の感情をひっかきまわして、それでも肯定してくれたのが痛くて。苦しかった。どうして殺し合いなんかしなきゃいけないんだ。ふいに現状が嫌になった。僕は沙那やシロツキと一緒にいたいだけだった。そのはずだったのに。
顔に当たる風が涙を攫って行く。
僕は鎧の中にあるシロツキの手を握った。そうせずにはいられなかった。温みを自覚したら、また泣けてきて、子供みたいに声を上げた。
零が「ガキが」と小さく呟いた。
《
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