73・夜半

 夜半。楓たちが寝静まったころ。

 場所はゼスティシェの東側。


 二つの影が声を潜めて言葉を交わしていた。

 一本の木を挟んで、虫さえ驚かすことのない囁きで。


「して、者たちの動きは」

「問題ない。しばらくは獣人と人間が相いれることもないだろう」

「あの人間、かえでと言いましたか。まったく面倒なことを言い出します」

「後でいくらでも好きにできるだろう。それこそあなたの国の流儀で命を奪っても構わない」


 そう言われ、片方の影がほほ、と笑う。声はあくまで愉快そうではあったが、その眼は闇の中でなお爛々と輝いていた。肉食獣特有の切れ長の双眸。


「しかし、どういう心づもりですかな。よもやあなたのような兵がわたくし共に情報を流すとは」

「それが一番獣人のためになると、判断しただけだ。悔しいが、カルヴァに昔のような、獣人を率いる力はない」

「わたくし共にはそれがあると?」

「現存する獣人の国の中では」

「手厳しくも嬉しい意見です」


 雲が静かにその場を動く。月明かりが地面を撫でるように照らした。そこに立つ人影も。


 灰色の斑点のある毛皮。とがった耳。

 肉食獣、ジャッカルの獣人で間違いなかった。


「獣人の行く先を頼む──リドオール長老」

「あい申し受けましたとも。──しかし、あなたのその口ぶりは、まるでこれから死地に向かうような物言いではありませんか。これからも、長い付き合いをしていきたいと思っているのですが」

「もちろん、そのつもりだ。けれど、私は最も危険な立ち位置にいる。いつ殺されても文句は言えない」

「願わくは、あなたに幸が訪れんことを」

「感謝する」


 しばらく間が置かれて、リドオールは探るような声を出した。


「そういえば、楓と言う人間は、一度マーノストに赴いたこともありましたな?」

「……それがどうした」

「囚われていた獣人たちを解放し、敵の包囲網をかいくぐったとか」

「だからなんだ。いまさらその程度の実力は脅威には──」

「いいえ、わたくしはこう考えたのです。人間の国と言えど、マーノストは厳重な警備のある要塞。あなどれません。張り巡らされた監視の目をかいくぐるためには、協力者が必要だったのではないですか?」

「協力者」

「ええ。例えば、──もう一人、人間の協力者がいる可能性はどうです? それも、マーノスト王城の内部に詳しい者が」


 風が吹き、枝が薙ぎ、細い枯葉が散る。

 二人の間に横たわる静寂を、それらの音が埋めた。


「探れ、ということか?」


 リドオールではない声が問う。


「いえいえ、まさか。ただ、警戒は必要だろうと思っております。この村を滅ぼしても、楓とやらを殺しても、その協力者が意志を継いだら? 完璧な作戦などはありはしなんだ。我々は万全を期す必要があるようです」

「しかし、私はここを動けない」

「そのようです。わたくしの方で兵を派遣しましょう。なに、人一人殺すくらい、たやすいことでございます」


 もう一人の影は小さく間をおいて、


「あまり派手な動きを起こすな」

 とくぎを刺した。


「積み重ねた努力が泡沫ほうまつしてしまう」

「ええ、ええ。慎重を期しますとも。──それとも、その協力者は殺さぬ方が都合がよいですか?」


 リドオールがわざとらしく驚いてみせる。


「もしや、何か個人的なつながりが?」

「邪推をするな。人間などとつながりはない」

「昨日、楓に自らの毛を撫でさせていたようですが」

「あれは向こうからやられただけだ」

「……そうでしたか。勘ぐってしまい申し訳ない。ただ、わたくしの立場も立場なので」

「理解している。──そろそろ」

「ええ。また」


 リドオールは人の姿を隠し、四足歩行に戻ると、北西へ体を向けた。


「くれぐれも、よろしくお願いします。より良き明日のために」

「ああ」

「あなたの働き次第です。に価値を与えるかどうかも」


 彼がちらと視線を向ける。取れかけた羽。痛々しいそれ。

 梢の影を目元に讃えたは、冷え切った瞳で月を見上げた。


「それでは」


 影が一つ去り、残された一人は、その身を羽で包んだ。


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