69・昏倒から


 縁側にいた。前世の縁側だ。


 湿気のない涼やかな空気に目を向ければ、窓も障子も開け放たれていた。家の電気は消えていて暗い。すべては闇の中で、輪郭はおぼろ。

 小さな庭の中でスイセンの花がかすかに揺れている。見上げたのは月のない夜空だった。星だけが寂しそうにちらちらと光っている。



 夢だ。

 夢だ、と思う。



 僕が夢を自覚できるときは、たいていこの縁側にいる。きっと、長いあいだ同じ景色ばかり見ていたせいだ。ほかに人がいるような気配がしたのだけど、気づくと一人だった。リビングを見回しても誰もいなかった。


 今の自分と、前世のこの光景を比べて、ため息が零れた。


 遠いところに来てしまった、と思う。感傷に浸ってしまうのはしょうがないことだ。もはや取り戻せないものを目の当たりにして、心はずきずき痛む。暗がりの中で独りぼっちで、行き先もわからなくて、言うならば、寂しい。


 ああ。寂しいな。


 記憶の中から掘りだしたちょっとした痛みは、元の位置に埋め戻すことはかなわなかった。


 誰かに会いたいな。誰でもいい。この際だから敵でもいい。僕にするべきことを与えてほしい。過去のことなんか忘れて、必死になれるように。



 でも、なんでこんなところにいるんだったか。

 僕は。



「……」


 呼吸の音しかしなかった。

 とても静かな夜だ。

 それは耐え難い静寂だった。


「もういいんだ」



 僕は家の中のあらゆる家具をぶっ壊した。



 ソファに包丁を突き立てた。掛け時計に観葉植物をぶん投げた。テーブルに椅子を叩きつけた。皿を割った。ふすまを蹴った。タンスを倒した。


 もうここには戻れないんだから。全部いらない。

 そろそろ否定しなきゃいけない。いつまで「かわいそうな人」を演じているつもりなんだよ。お前は充分与えて貰ってるくせに。


 そろそろ覚悟しなきゃいけない。

 最後に仏壇をぶっ壊そうとテレビを持ち上げて、僕はそれを静かに下ろした。テレビを置く音を最後に、家の中は本当の静寂に包まれた。


「……」


 仏壇に写真が三つ。両親と沙那だ。三人とも笑っていた。バカなことしてるなって、そう思われているだろうな。


 見渡した部屋の中は惨状と呼べるありさまだった。不思議と気分がせいせいした。理由はほとんど明らかで、でも、口に出してはいけない気がした。ただ、僕は少なくとももうこの縁側に捕らわれてはいなかった。


「……いかなきゃ」


 自分を促すためにあえて呟く。

 僕はおおげさに頷いて、もう一度中庭のスイセンを見やった。






     *






「──」

「──、────!」


 音がある。その単純な事実に、まだ死んでないことを理解した。

 ああよかった。


 本当に?

 うん。


 体が激痛に包まれていても?

 もちろん。


「ぅあ“ッ……!」


 ああ、ちょっとまずい。呼吸したとたん吐き気に襲われた。あまりの痛みに目が回る。


「ッ! おい!」


 小さな足音が駆けよって、僕の背中を撫でた。顔の前に木の桶が用意されて、僕は我慢するまもなく胃の中身を吐いた。固形物はゼロだった。


「ゆっくり呼吸しろ。大丈夫だ」


 その声の主はわかり切っていて、でも、目で確認しないとまだ安心できなかった。僕は無理やり顔をあげた。半泣きのサジールがそこにいた。


「お、は、よ……」


 まともに喋れなかった。乾いた紙をこすり合わせたみたいな声だ。

 サジールはくしゃりと顔を歪めて、ぐちゃぐちゃに笑った。


「クソッたれ。そんなこと言ってる場合かよ」

「あえ“ッ」

「おい!」


 鼻の奥に苦いものが広がる。気持ち悪い。

 サジールが差し出す水を受け取って、口をゆすいで吐き出す。そんなことをしているうちに、吐き気はだんだん治まっていった。


「あ、りがと」

「ん」


 体を起こそうとしたら肩を押された。まだ寝ていろってことかもしれない。


 代わりに視線を巡らせると、木製の屋根と、簡易的なカーテンの仕切りが見えた。小屋のような場所にいるらしい。どこか見覚えがある。


「痛みはどうだ」


 僕は自分の右わき腹を見下ろす。


「釘が、刺さってるみたい」

「そりゃよかった。感覚があるなら上々だ」

「痛い」

「文句言うなって」


 小さな手が僕の頭を撫でる。不思議なことに、痛みはちょっと和らいだ。さすが医療部隊。薬なんか使わなくても人を助けられるらしい。


「いい薬だね」

「だろ」彼女は静かに微笑んだ。「怪我人によくこうするんだ。傷自体が消えるわけじゃないけど、心はちょっと軽くなる」

「……うん」


 じっと彼女の目を見ていた。もう忘れてしまったけれど、子供のころ親と一緒に寝るのはこんな感じだっただろうか。体に触れる他者の体温。安堵の温もり。

 サジールは僕の視線に気づいてふいとそっぽを向いた。


「見すぎだ」

「ごめ、ん」

「嫌ならそう言え」

「嫌じゃない」


 むしろ、もうちょっとだけこの時間が続けばいいな、なんて、インフルエンザに罹った小学生みたいなことを考えてしまう。でも、この世界でそんな呑気なことは言ってられない。


「ここはどこ?」


 記憶喪失みたいなことを言ってしまう。


「ゼスティシェだよ。この壁、見覚えあるだろ?」


 薄灰色の粘土をパテ状にして、不格好ながら修復した壁。


「もしかして」

「大正解。あたしらが直した小屋だよ」

「ほかのみんなは?」

「村長の家に匿ってもらってる」


 さも当然のように言うので驚いた。


「えっと、それは獣人であることを隠して?」


 サジールが困った風に笑う。


「どうだろうな。そろそろ戻ってくるから、直に聞いてみろよ」


 サジールが作ってくれた栄養満点のおかゆ──ドロッとした、あんまりおいしくない粘性の何か──を胃に流し込んでいると、ノックの音がした。突っ張り棒にかかったカーテンが簡易的な目隠しになっていてそっちの方は見えない。サジールが慎重に戸口の方へ向かう。


あなたは誰だネラ・ヘイム・ファトルナ

ただ物言わぬ市民ですメノン・ラトゥ・コルナイユ・アーコック


 暗号だろうか。おそらく仲間とそれ以外を識別するための言葉が返ってきて、戸の引かれる音がした。


「おかえり」

「おう」


 ファロウの声。


「イヴはどうした?」


 サジールの問いに、


「しばらく一人にしてほしい、と」

 シロツキが答えた。


「そうか。こっちはちょっとだけいいニュースがあるぜ」

「なんだ。うまいもんでも作ったのか?」

「ちがう」

「おいしいお肉をもらった、とか?」

「ちがうっつの」


 あんまり騒ぐなよ?

 サジールはそう前置きして、カーテンをしゃっと開けた。


 そこに立つ二人と目が合う。

 ファロウはにっと笑って、シロツキは唇をきゅっと引き結ぶ。


「っ、楓……!」

「おはよう」


 彼女は涙をにじませ、頷いた。

 


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