68・強襲
──灰色の、二メートルくらいの化け物だった。
セージの言葉を思い出す。
僕らの眼の前に降り立った巨体は、灰の体毛を黒爪で包んでいる。とがった耳と鋭い牙。オオカミの獣人なのか。
頭の片隅、冷静を保とうとするわずかな思考が相手を分析する。
問答無用で攻撃してきやがった。敵対の意志は明らかってことだ。
──そいつが俺の家族を殺した。嬉しそうに笑ってやがった。
そいつは右手を天に掲げる。勇者気取りか、と内心で毒づいて、まもなくそいつの手に黒爪が圧縮された。これは、やばい。
体内の血液がどろりと下がる。血の気が引いて目眩がした。
メリーを相手にした時より、なお強い重圧。
本能が敵対を拒む。
絶対的な強者の威圧感。
「名乗れ」
ファロウが《
「オレぁエルガだ。ああ、お前らの名前は要らねぇよ。どうせみんな食っちまう」
食べる──。
「獣人が、獣人を……?」
「は、は、そんな顔すんな人間。雑魚の体を有効利用してやれんのはこの方法だけだ。それに、けっこう美味いぜ? 死ぬ前に一口だったら食わせてやってもいい」
エルガは腰回りの黒爪をはがした。シマウマの皮をなめしたベルトに、いくつかの生肉がぶら下がっている。
「これがカバ。これがコウモリ。んで、──これが猫だな。ちいせぇ肉ほどトロッとしてうめぇんだ」
背後からの嗚咽。サジールが膝をついてえずいた。
「は、気色悪ィか。もう見たくねぇだろ?」
巨体が消えた。
「サジールッ!」
ファロウが彼女の前に飛び出た。と思ったら、黒爪ごとはじけ飛んだ。羽に纏わせた一枚一枚の鎧が木の葉のように散った。敵の姿が捕らえられない。
「ファロウッ」
「ッ、クソッたれが」
空中で体勢を立て直す彼に代わり、僕とシロツキが加速。たったいま凶刃の標的にかかっていたサジールを殴るように奪う。姿勢を低くし、足が地面を掠めた。粉雪が大量に舞う。せめて敵の視界の妨げに。
バックステップでエルガの射程範囲を逃れ、
その瞬間、背後からの衝撃に襲われた。
僕らはサジールごと岩場に突っ込んだ。
「が、ッ……!」
全身を貫く巨大な力。黒爪をまとって、それでもこの威力。明らかにおかしい。相手の黒爪が持つ特質か。
ファロウが、僕らとエルガの間に降り立ち、問う。
「どこの国のモンだ」
「答えたって意味ねェよ」
──《
エルガの両腕が刺々しいシルエットを描く。一双のグローブは殺戮のみを目的としていた。そこに秘められたパワーは《
「抵抗すんな。頭一発、それだけで終わる」
「こいつぁ……」
ファロウさえ苦笑をこぼした。
僕が体勢を立て直すあいだ、向こうにはそれを止める気配すらない。止めなくても結果は変わらないと思っているからか。
事実かもしれない。たった今示された圧倒的な力。いまの僕らに止める力があるかどうか。
「退くぞ」
ファロウがいった。起き上がったサジールも含めて満場一致で頷く。
「──」
そのとき《
「アァ?」
眼前に迫ったエルガの顔。それがにぃと笑う。
「いい《
「楓!」
ファロウの生み出したナイフが相手の胴を穿った。
全力の一撃。少なくとも僕にはそう見えた。
だけどエルガの鎧は、割れるどころかヒビ一つ入ってない。かすかに削れただけだ。
「柔い」
エルガが言う。
ファロウの刃が割れた。目を見開く。
「爆ぜろ」
僕が掴んでいない方の拳が地面へ打ち付けられる。岩場が不自然にぐにゃりとゆがみ、爆発に似た衝撃が僕らを吹き飛ばした。まるで元から火薬が仕掛けてあったみたいだ。
それがエルガの特質であるらしかった。
ファロウが空中のサジールを回収して着地する。シロツキが一旦鎧を解き放ち、僕を抱えて着地。もう
「なんつー固さだよ、ったく」
「破れますか」
「無理だな。ありゃグレア隊長レベルだ」
「いってぇ」
サジールが言った。
見ると、肩にばっくりと切り傷ができていた。
「あいつの言うこと、あながちハッタリでもねぇぞ」抑えた指の間から血が滴る。「直撃したらけっこうまずいかも」
エルガはベルトにぶら下げた肉を一欠けらむしり、口へ放り込んだ。生のままくちゃくちゃ食らう。不快な食事風景だ。シロツキたちを煽る目的でやってるのがわかりきってるから、特に。
「そういやぁ、あの鳥女はどこへ行きやがった?」
イヴのことだと理解するのにそう時間はかからなかった。ハッと横転した
「どこだろうな」
ファロウがシロツキに
狙うべくは足。話さずともわかる。敵の追跡を少しでも弱めるためだ。
喉がからりと乾いた。湧かない唾液を強引に呑み下す。
「探してみろよ。もしかしたらその辺に潜んでるかもしれねぇぜ?」
「退屈な余興だ。オレぁ細かい作業が苦手でね。拳振り回してるうちに潰しちまうかもしれねぇが。文句は──」
「いまだぜ」
「《
天を割る風のごとく、上空から三本の矢が降り注いだ。いつの間に空中へ離脱していたのか、ツリミミズの時のように、イヴが矢を放ったのだ。同時にファロウと僕らは駆けだしている。
エルガの腕に一本が貫通した。
「は」
彼は笑い、矢を引き抜き、なおも攻撃するイヴへ、投げ返した。その隙に二手へ別れた僕らが狙う。
「《
右腕から伸びた鎧がそのまま槍の形状を取る。斬撃の効果が薄い相手に使う形態だ。ぶち当たった鎧の一部がひび割れ、エルガの足が露出する。続けて変化した左手。ナイフをそこへ突き出す。
「浅い」
眼下にあった膝が消える。
声に顔をあげれば、僕の頭より大きな拳が振ってくる。
「《
シロツキが翻り、僕を背後へ投げた。そのまま黒爪を一点へ集中させ、拳を直に受け止める。がり、と嫌な音がして、シロツキの黒爪が弾けた。
「っ、シロ──」
「お前は自分の心配しろよ、人間」
視界が暗くなる。エルガはすでに目の前にいた。
ほとんど瞬間移動に近い。
「あ──」
「ッ」
ファロウが低空を飛び僕に体当たりするのと、エルガが地面を破裂させるのがほとんど同時だった。
どくっ、と。
一際大きな心音がした。
そう思ったとき、僕の脇腹はすでに抉れていた。
「────ッ!!」
声にならない叫びをあげる。鼓動に合わせて血が噴き出す。どろどろの視界。気持ち悪い。足元へ伝った血だまりに伏せる。起き上がろうとして、それができなかった。
「────! ──!」
断続的な叫び。それが自分の喉から出ていることにようやく気が付く。止める手段はない。痛すぎて体の制御が利かない。死ぬだろうか。この痛みでまだ死んでいないことが不思議なんだ。どこを切られた? 内臓か? 筋肉か?
「楓ッ!」
誰かが僕の名前を読んだ。そんな気がした。
大丈夫。
そう答えるつもりで喉を開けたらサイレンのような絶叫が漏れて、ああ、うるさいな。自分の声なのに。
おかしい。痛い。
何もかもドロドロだ。
体の制御が利かない。
雪の上にのたうつ僕は、次第に動く元気もなくした。
《
その直前、暗くなってく僕の視界が捕らえたのは、駆けつけるたくさんの人影と──。
「殺す」
見たことのない瘴気を纏う、禍々しいシロツキの姿だった。
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