57・訓練、煩悶、青痣


かえで、いるか?」


夕刻。サジールは寄宿舎の廊下から部屋の主へ呼び掛けた。部屋の中から反応はなく、人がいる気配もしない。


「……どこほっつき歩いてんだ」


彼女の手には一枚の新聞が握られている。マーノストで出回っている新聞を第七部隊が機密ルートで仕入れたものだ。


サジールはそれを広げて一瞥いちべつすると、

「やばいことになったな」

一つため息をこぼした。






     *






「こらこら、ここは藁草じゃないぞ。寝るならもっとフカフカのベッドへご案内するよ」


ぺち、とおでこを叩かれる。


「痛いです」

「体が? 心が?」

「わりとどっちも……」

「あっははー! まぁしょうがないよ。むしろ私相手によく逃げ回ったっていうかさ」


頭がずきずき痛む。全身の筋肉が岩みたいに固まって持ち上がらない。遠くに聞こえる街の喧騒に耳を傾けながら、かれこれ三十分はこうして寝そべっている。


「……んぅ」

「っ、シロツキ?」

「……?」


隣に寝ていた彼女が、ぼうっとした目を開けた。わけがわからないという風に目だけを動かして辺りを見回す。


「かえで……?」

「おはよう。何があったか覚えてる?」

「ぼんやりと」

「忘れていた方が幸せだったかもね」


メリーが苦笑した。


「私の勝ち」


悔しいけど、おおむね言う通りだ。


時刻は二時間前。僕とシロツキはメリーの操る触手になすすべなく殴打された。シロツキが黒爪をいくら伸ばしても、僕がいくら動きを読んでも、相手に一撃も加えることができなかった。


戦いの基礎からレベルが違う。射程や動きの緩急はもちろんのこと、メリーの戦い方が衝撃的だった。


踊猛エテル・チェテル》の特質は、メリーの生み出す毛糸をコーティングし、操ること。さながら、太さも長さも自在な無数の手。攻守優れた万能性がウリらしい。そんな自己アピールにも、戦った後はうなずかざるを得なかった。


僕らは殴られ、投げられ、鎧にヒビが入るほど締め付けられ、最後には地面へ叩きつけられた。


シロツキが瞬時に黒爪を操って僕へのダメージを軽減してくれたが、おかげで彼女は意識を失ってしまった。


「ね、わかったでしょ、楓クン。殺さない技術がどれだけ難しいのか」

「……はい」

「どう? 私がもし敵だったら、『殺さない』ことはできそう?」

「無理です」

「んははー、即答だねー。シロツキはどう? ちょっとは先輩を見直した?」

「……次は勝ちます」

「無理だよ」


メリーはいった。


「今のままじゃ、百回生き返っても私には勝てないから」

「……」


鼻を鳴らすのが聞こえた。見ると、彼女は両目を覆って泣いていた。


「シロツキ……」

「なん、でもない」

「なんでもないのに、涙なんか出ないよ」


持ち上がらない腕が心底憎たらしい。健康体の僕なら彼女を撫でて慰めることができただろうに。


「……はは」


メリーが困ったように笑い、代わりとばかりにシロツキの頭を撫でた。


「触らないで、ください」

「早く強くなってね。振り払えるくらいさ」


疲労とダメージが重なったせいか、シロツキはやがて眠ってしまった。メリーが寄宿舎へ赴き、丸い耳が特徴的なショートカットの女性兵を呼んできた。女性はシロツキを見てくしゃっと破顔し、雪のような彼女を背負った。


「君はこっちだよ」

「いッ……」

「あ、ごめん。ちょっと我慢ね」


メリーが僕を背負った。機能しない両手両足をがっちりつかまれて痛みが走る。そのまま、路地の方へ出ていく。


「どこへ行くんです?」

第十二部隊ヒルノート寄宿舎。君らの寝床へ運んでやろうっていうんだから。メリーお姉さん親切でしょ?」


隣を歩いていた女性兵が口元を緩めた。


「自分でぶったおしといて親切もなにもないって」

「それもそっか」


からりとした顔つきの二人とは対照的に、背中のシロツキの目元は赤く腫れていた。口を噤んだ僕へ、メリーがいう。


「シロツキが心配?」

「まぁ……どうしてあんなに泣いたのかなって。──うッ!?」


彼女が唐突に僕のふくらはぎを押した。訓練終わりの壊れた体に激痛が走る。


「なにするんですか」

「んー、ちょっとおしおき。人の努力に気づかない鈍感さんはお姉さんが懲らしめちゃうよ」

「努力って……」

「シロツキの努力だよ」


僕にシロツキが見えやすいよう、メリーがすっと移動した。


「腕、見てごらん」


真っ白なはずの彼女の腕には無数の青あざができていた。僕の筋肉痛とは比べ物にならない痛みだろう。ガラスの置物が割れてしまったような、そんな不快感が胸に広がって声が出なくなった。このまま彼女の腕が戻らなかったらどうしよう。


「ひどい、って思う? 思うかもね。──さて問題。楓クンが私の攻撃を必死に避けてたあのとき、君の背後で、シロツキは私の攻撃を何発防いでいたでしょう?」


僕は黙った。


視界ノック》は意識を割いた方向の出来事しか知覚できない。背中側にまでメリーの黒爪が回っていたなんて言われて初めて気がついた。


「正解は八十一発でした。シロツキが防がなかったら君に当たってたはずの攻撃だよ」


少しのあいだ絶句する。


「……なんで訓練の最中に言ってくれなかったんですか」

「甘えないでよ、楓クン」


パチンと、軽く頬がはたかれる。顔の近くに黒爪の触手が伸びてきていた。


「君さ、シロツキが死んでからも同じこと言うの? なんで教えてくれなかったんですかって」

「……言いません」

「でしょ? 戦場を広く見ることができない兵は、自分か、もしくは仲間が死ぬまでそのことに気がつかない。もっと言えば、死んでからも気がつかない。覚えておいてね。──お姉さんからの教えその一」


それで、と彼女は続けた。


「シロツキの努力──っていうかやせ我慢かな──の話ね。ほんとは楓クンに『負傷した』って言えたのに、言わなかったことだよ。君の気がそれると、正面からの攻撃を喰らうってわかってたから。ダメージをぜんぶ肩代わりしたんだ──、おっと」


思わずメリーの肩に爪を立ててしまう。メリーは僕の爪の下に鎧を這わせる。金属の感触にぶちあたった指がずきりと痛んだ。


情けないな。こんなの八つ当たり以外の何物でもない。わかっていても自分を痛めつけることをやめられなかった。


けっきょく僕のせいなのだ。シロツキが苦労するときはたいてい僕が関わってる。なんなんだ。何度やり直そうと思っても、何度気持ちを改めても、次の瞬間にはあの縁側が脳裏をよぎる。何も出来ない僕のせいで。


「爪、割れるよ?」


割れたっていい、そう考えていた僕を、メリーが路地裏へ放り投げた。ろくに衝撃を逃がすこともできず、内臓や脳がぐるっと回った気がした。おかげで僕は、自分を痛めつける力さえ失ってしまった。


「落ち着いて。次やったら本当に怒るからね」


もう一度僕を背負いなおして、メリーは歩く。


「私いろいろ言ったけどさ、それがで起きないための訓練なんだよ。あんまり気負わずに、知識と技術と体力を身に着けてけばいいの」

「……なんか」

「ん?」

「すっごく遠いですね」

「なにが?」

「……わかりません。なにがなんでしょう」

「あっは、当人にわからないことは他人じゃもっとわからないよ」


メリーは笑った。


「ね、楓クンさ、前世でシロツキの飼い主だったんでしょ?」

「はい」

「そのせいで漠然と甘えてない? 『どんなときでもシロツキは傍にいてくれるはず』って」


ドキッとする。

いや、なんでドキッとするんだ。もしかして図星なのだろうか。僕は知らぬ間にそんなわがままを抱えていたのだろうか。


「その顔は図星だよ」


思わずクソッ、と悪態をついた。泣きたいくらい情けない。


「でもね」とメリー。「シロツキだって一つの命なんだよ。楓クンに愛想を尽かしたら、いずれ離れてっちゃうかも」

「嫌、ですね。そんなの」

「なら、ちゃんと向き合わなきゃね。──さ、ついたよ」


顔をあげると、そこはもう寄宿舎だった。








夕食を取る気も起きず、激痛の中でお風呂だけは入った。寄宿舎の地下にある大浴場には、僕意外にも何人か第十二部隊ヒルノートの獣人がいる。物珍しそうな眼を向けられるのも、もう慣れている。


代わりに、熱い湯で体を流しながら、メリーの言葉を何度も反芻した。


ちゃんと向き合わなきゃね。


ちゃんと? 向き合ってきたつもりだ。

たしかに、マーノストへ行ったときは僕の希望だったけど、それ以外は……。獣人と人間の共生を目指すのだってシロツキのためだ。僕は彼女が安心して暮らせるように──。


──それって、シロツキが望んだのかな?


メリーの声が僕へ問いかける。


「……」


違う。僕の自己満足だ。ふざけんな。

獣人のためでもシロツキのためでもない。僕は、そうだ。自分が何かを成し遂げられるって、そう思いたかった。何もできずに失うことが嫌だから。誰かに与えることができれば、価値があるって思いたかった。


僕の手でシロツキを幸福にすることこそ、僕の望みだ。


じゃあ、シロツキの望みはなんだ。

彼女はどうして強くなろうとする?

どうして僕を守ろうとする?


「シロツキ」


名前を口ずさむ。ふいに怖くなった。

彼女がいつか自分の近くから去ってしまう気がしたのだ。


僕は慌てて風呂を出た。


寝巻用の緩いチュニックを着て廊下を歩く。すると、僕の部屋の前にサジールが待っていた。僕に気づいて片手をあげる。


「よ」

「……うん」

「なんだよ、今の間。ちょっと報告があってさ、ちょうど一仕事終えてきたところだ。そんで──」


彼女は動きを止め、僕の顔を覗き込んだ。


「……顔色、どうした?」

「え」

「白い。ちょっと失礼」


指を握られる。


「風呂上がりの冷たさじゃねぇな」

「そんなに悪そうに見える?」


心配される資格がないような気がして、僕は笑って見せる。でもサジールはすぐに看破したらしい。チョップをお見舞いされてしまった。


「夕食、食ったのか?」

「……ううん」

「ばーか。ほれ、来い」


サジールが服を掴んで、僕の部屋へ引っ張った。


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