56・メリーの訓練


寄宿舎はカタカナの「ロ」の字型で、正面玄関を通り抜けると平坦な中庭がある。敷地内は柔らかな土に覆われていて、ところどころに花が咲いていたり、低木が植えられていたりする。


「訓練にはぴったりの場所だよねー」


うんうん、とメリーは楽し気にうなずく。


訓練なんて、ちょっと不穏だ。まるで予測可能な実戦があるみたいで。これまでの戦い、ツリミミズやマーノスト軍を相手取った戦いは、常に唐突なものだった。訓練って言うのは、これから来る戦いに備えてするものだと思う。


それってもしかして。


シロツキが固い声音で問うた。


「副隊長、どういうことですか」

「なにがー?」

「私の訓練ならわかりますが、どうしてかえでが?」

「あっははー。しらばっくれてもだめだよ、シロツキ」


メリーはぞっとするような笑みを浮かべた。


「もうファロウから報告は受けてるんだから。《視界ノック》のこととか、第三部隊ルートニクはみーんな知ってる。ゼノビア陛下が言ってたよ。『楓クンは正式に戦力として数えた方がいいかもしれない』ってね」

「ッ、だからと言って、」

「そんなに目くじら立てないでよー。なにも前線にぶん投げようって言うんじゃないんだからさ」


たしかに、と思う。よくわからない生物の前に投げ出されて、急に「戦え」と言われるよりよっぽど良心的だ。


「でも、」シロツキがいった。「もし実戦するのに十分な力があると判断されたら?」

「その時は、第三部隊ルートニクの後衛かな。人間を相手取って、最も死ににくい場所で、最もレベルの高い戦闘を見学してもらうよ」

「お断りします」


その断固とした態度に、僕の方がどきりとする。


メリーはシルバーグレーの瞳を不思議そうにまたたかせた。


「なんで?」

「楓は人間です。長期的に戦うには体の強度が足りません」


それもたしかに、だ。前回の任務で黒爪の負荷がどれほどのものか思い知らされた。あんなのを毎日使ったら骨も筋肉もすぐに壊れてしまう。


「そこは安心して。体の強度に合わせた黒爪の出力を学んでもらうから」

「そういうことを言っているんじゃないって、わかってますよね、副隊長」

「言葉にしてよ。私には何のことかさっぱり」

「……楓をあの戦場に連れて行くわけにはいきません」

「それって、私たちに関係ある?」


感情の読めない微笑みで、彼女は言う。


「ねえ、それはシロツキの望みだよね? 獣人が人間を狩る姿を見せたくないっていう、君の望み」


シロツキが拳を固く握り込む。

危うい気配がただよって、僕は思わず目を逸らした。


この世界に来てから、ずっと触れていなかったこと。というより、触れることをためらって、もはや自分で禁止していたこと。頭の片隅に置いた箱の中に固く封じていたこと。


僕はサジールの声を思いだした。




──第三と言えば、人間狩りのエキスパートなのっ。




人間狩り。人を狩る。

狩られた人間がどうなるかなんて、もはや聞くまでもないのかもしれない。でも聞かなきゃ気がすまない。そのくせ、本当に尋ねることは怖い。


メリーは続けた。


「楓クンを危険から遠ざけたい。そう願うのも、思うのも自由だよ。だけどね、有益な力を温存しておくほど、軍隊って甘い場所じゃないでしょ? 潤沢じゅんたくな資金があるわけでもない。人間と比べて人口が多いわけでもない。私たち獣人は、第三部隊ルートニクは、使える刃は徹底的に研ぎ澄ませておく必要がある。いつか本当に危ないときのために」


つまり、僕を兵士の一人として育成するということ。


「楓はこの国のモノじゃない」

「カエデカエデってうるさいなー。そんなに言うなら本人の意見も聞いてみなよ。さっきから自分のことばっかり」


シロツキは言葉を飲み込む。

非情な言葉があくまで優しく投げかけられた。


「どう、楓クン。戦うことも任務も拒否して、シロツキやサジールの居場所を奪うようなマネ、君にできる?」


できるわけない。また僕のせいでシロツキたちの大切なモノを奪うことになるなんて、そんなの戦うより嫌だ。メリーは僕の気持ちをわかっていて、なおけしかけようとしている。それを理解していても、僕は首を振るしかなかった。


彼女は「んは」と笑んだ。


「いい子だね」

「……楓」


仕方ない。これは仕方ないことなのだ。

僕はシロツキに笑いかけた。


「大丈夫だよ。すぐに人間と戦うことになるわけでもないんでしょ?」

「そんなにのんきな話じゃない。いつかとか関係なく、相手は人間なんだぞ」

「自分も怪我しなくて、相手もケガさせない、とか。そのくらい強くなれないかな?」

「そんなこと……」


「そうそう。その意気だよ」とメリー。「死なないくらい徹底的に鍛え上げて、それから駄々をこねても遅くないでしょ? シロツキだって、楓クンを守る力をつけるには絶好の機会なんだから」


とはいえ、と彼女はいった。


「敵を怪我させないのは、暗殺レベルに難しい技術だけど」


暗殺レベルがどのくらいなのか、非常にわかりにくい。が、なんとなくとてつもないことは伝わってくる。


「相手は殺しに来るのに、自分は手加減しなきゃいけないんだからね」

「人間でもそのレベルまで到達できますか?」

「目指すっていうんなら私はそのつもりで教え込んであげるよ」

「それじゃ、よろしくお願いします」

「はいはい。シロツキは?」

「っ……」


彼女はふいと顔をそむけた。


「強情だなぁ」


メリーがからりと笑った。








訓練はその日の午後から始まった。


まずはシロツキの黒爪を纏った状態で、基礎的な獣人の身体能力を体感した。数メートルの跳躍をしたり、こぶしに装備した鎧でレンガを打ち壊したり、軽いスプリントをこなしたり……。


何回か繰り返しているうちに、早くも僕の体は悲鳴を上げ始めた。黒爪から脱ぎ出て地面へ倒れ込む僕を、シロツキが抱き留める。


「大丈夫か?」

「ごめん、ちょ、っと」


メリーが目を丸くした。


「ありゃー人間ってそんなにもろいのか。これは意外や意外」


水分補給と休憩を挟んだら、今度は身体強化の限界を測った。サイドステップを踏んで、その加速度にどれくらいまで僕の体が耐えられるのか。


いわば人体実験だ。この国の中に人権というモノを求めてはいけない。


結果、シロツキが四分の一しか力を発揮できないことが分かった。

それ以上のスピードを出されると、視界がぶれて立っていられなくなるか、あるいは骨や筋肉が軋み始める。


実験終了と同時に僕は地面へ崩れた。


「ふむふむ。ちょっと失礼」


メリーが僕の腕やふくらはぎをぺたぺた触って、「んー」と唸る。


「獣人と人間の差も大きいけど、楓クンは筋肉が少ないね」

「はあ」

「今日から筋トレと柔軟ね。全身くまなくやること」

「え。この後にですか……」

「そそ」

「筋肉がついたらもっと早く動けるんでしょうか」

「ちょっとは改善するよ。体を支える機能を強化することは、長く速く動くことにつながるんだから。運動によるダメージを分厚い筋肉で緩和するのだー!」


それからしばらく休憩を挟んで、今度はシロツキの訓練に入った。


メリーが大量の石を持ってきて次々に投げる。シロツキは足を動かさずに、黒爪の操作だけでそれを突き刺す。外したり掠ったりしたらやり直し。


見た目には一方的なキャッチボールにしか見えないけど、それは間違いなく獣人の訓練。石の速度はめちゃくちゃ速いし、シロツキは額に汗を浮かべてさばいていく。


「しゅうりょー!」


持ってきた石をすべて投げ終え、メリーがいう。シロツキの黒爪が五つの石を串団子のように貫いていた。


「最高五連続かー、まだまだだねぇ」


メリーが肩をぽんぽんと叩く。


「こんなんじゃ楓クンの護衛は任せられないかもなぁ。お姉さんと交代する?」

「ッ、もう一回お願いします」

「だーめ。今日の基礎練終わり。その悔しさを一日中噛みしめるんだぞー」


シロツキが静かに奥歯を噛みしめる。むき出しになった牙が怒りを体現していて、なんだか恐ろしい。やるせなさの浮かぶ青い瞳。


「シロツキ、大丈夫だよ。始めたばっかりなんだから」

「……だからって」


彼女はそれ以上言わなかった。ただ悔しそうな顔を背ける。

当たり障りのないことしか言えない自分が恨めしい。


「はいはい! へこんでないで、次は実践編だよ」


メリーが手を叩いて僕らの意識を引き戻す。


「さて、二人とももう一回合体して」


人を戦隊ロボットみたいに扱うのはやめてほしい。

疲れをにじませながらシロツキが僕を包む。ちょうど彼女をおんぶするような形だ。


「おっけー。それじゃ始めよっか」


ふいに空気が冷え込むような感覚に襲われた。初めてゼノビアに睨まれた時のような、命を他者に握られる感覚。


反射的に振り向くと、メリーの両手から黒い触手のようなものが生えている。小指ほどの細さのそれが螺旋状に彼女の腕に巻き付いて、肘の辺りまでを覆った。

「《踊猛エテル・チェテル》」


メリーの纏う黒爪は必要最低限なのに、こんなに恐ろしい。何かを秘めていることが直観でわかる。


シロツキが固唾を飲んだ。もしこれが訓練だと知らされていなかったら僕だって死を覚悟したに違いない。


実践編。というより、実編だ。


「全力でどーぞ」

「──《視界ノック》」


彼女の凍てついた目を見て考えが変わった。


訓練なんかじゃない。

殺す気で行かないと殺される。


的を絞らせないよう、僕は即座に地面を蹴った。

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