50・数日後
「入るぞ」
ノックの音で目を覚ました。
僕はベッドの上に体を起こす。
「よう。ねぼすけ」
「おはよう。たしかに今起きたところだけど」
「入ってもいいか」
「うん。どうぞ」
コツ。
硬質的な足音。
サジールはいつも裸足だから、こんな音はしない。音を鳴らしたのは彼女が持つ松葉杖だ。危なっかしいが、一人で歩いて椅子へたどり着く。
「足、大丈夫?」
「まぁな。早いうちに止血もしたし、筋肉の損傷も少なかった。しばらく安静が必要だけど、また走れるようになる」
「
「撃たれただけでも充分
「そっか」
本当によかったのは、これが冗談で済んだこと。
数日前の緊張から解き放たれた僕はなんの気遣いもなく笑うことができる。彼女も短く頬を緩めた。
「なんか久しぶりって気がするな」
「実際久しぶりだよ。任務中は毎日顔を合わせてたのに、終わったとたん各自で療養してたから」
獣人たちを解放し、命からがらカルヴァへ帰還したあの日。国へ入るなり
栄養失調に陥っていた獣人たちは言わずもがな、サジールは足の治療のために搬送され、シロツキは極度の疲弊によって昏倒。僕は全身の筋肉痛と突発的な視覚障害に侵され、デコピン一発撃つことすら難しい状況にあった。
唯一怪我もなかったのはファロウくらいのものだ。やっぱりエリートは違う。
「それより、あのフクロウにお礼言っとかないとな」
「出迎えに
枯葉色の羽毛に包まれたシルエットを思いだす。口元を羽で隠して、いつも何を考えているのかわからない彼女。
「どうして手回ししてくれたんだろう」
「任務だからだろ」
「やっぱり?」
「……『分かり合えるかも』なんて、余計な期待すんなよ」
「……そっか。僕もお礼言っておかないと」
「ま、明日の予定が済んだらな」
僕らの帰還が耳に入るなり、ゼノビア女王は
なぜか手紙で。
ファロウが言うには、少し先に控えた《
凱旋式は、長い期間カルヴァを離れていた獣人の帰還を祝うもので、多くは兵の遠征に対して行うものらしい。一般の獣人にこの式が適用されるのは初めてなんだとか。
「お前に敵対心を抱いてた獣人も参加するから、暗殺に注意だな」
「そんな子がいたの?」
「ああ。ずっとにらんでた奴が」
当然と言えば当然だ。彼らは人間によって憂き目にあった。同じ人間を否定的な眼で見るのは間違ったことじゃない。
「ま、シロツキも傍にいるだろうし、大丈夫だろ。それよりなにすんのかな、凱旋式って」
「なんだろうね。僕の処刑とか?」
「くだらねー」
おふざけを一言で切り上げ、彼女は真面目な顔をした。つ、と椅子の向きを変え、僕と対面する。
「お前、視覚障害だったんだってな」
「……うん」
「《
「たぶん」
サジールはちょっぴり不機嫌な顔をする。
「失明すると思うか?」
「どう、かな……」
責めるような視線に耐え切れず、僕は窓の外を眺めた。表通りに砂埃を掃く人がいる。カンテラの眩しい灯りが山中の街並みを照らしている。今のまま《
たぶん──。
「失明するかも。使い続けたら」
「どんな感じだった」
「言葉通りなんにも見えなくなったよ。光の一粒もね」
「あのさ」
サジールがこつんとテーブルを叩き、僕は振り向く。
「シロツキはお前に五体満足でいてほしいに決まってるだろ」
「わかってるつもりだったんだけど」
「全然だ。なんであそこであたしを見捨てる判断ができなかったんだ、お前」
僕は笑った。
「どうしても考えちゃうんだ。『一度捨てた命なんだから、誰かのために使うべきだ』って。何度も何度も、ずっと考えてる。無意識の中にもずっとこびりついてる」
「お前さ」
「うん」
「なんかやりたいこととかないのかよ。命かけなくてもできること。ほら、シロツキと一緒に暮らしたいとか」
「ああ、それなら、
「おぉ……急に欲深いな」
僕が欲深い?
そんなの考えたこともなかった。
でもそうかもしれない。
命の使い方を自分で選べるのはものすごく贅沢なことだ。さらに、大事な人と一緒に暮らせたら、文字通り最高だ。マーノストに捕えられた獣人、心臓発作で命を落とした前世の沙那には、それができなかったんだから。
「じゃああんまり危険なことすんなよな」
「だからって、色々諦められるほど僕は
「色々?」
「うん。たとえば友達の命とか」
「……」
サジールはむず痒そうにマントの留め具をカリカリひっかいた。
「誰の事だよ……」
「さぁ」
僕が声を潜めて笑うと、彼女は真っ赤になって立ち上がった。
「もう行く。明日、遅れんなよ」
「うん」
廊下に出ようとしたサジールが「あ」といってこっちを向いた。
「ところでお前、あれ以来シロツキとは会ったのか」
寄宿舎の廊下ですれ違った獣人にシロツキの居場所を尋ねると、帰ってきてからずっと部屋に引きこもっているという。僕はお礼を言ってそちらに足を向ける。
サジール以外の
「シロツキ」
部屋の前に行きノックすると、中からドガッという鈍い音がした。
「大丈──!?」
ドアを開ける。
彼女は部屋の奥で床にうずくまっていた。
ベッドから落ちたらしい。
「──なにしてるの?」
「いや、その……」
シロツキは立ち上がって、ふいと視線を逸らした。
「久しぶり、だな」
「うん、怪我はない?」
「ちょっとバランスを崩しただけだ」
「そっか」
「ああ」
部屋の中に重い沈黙が訪れる。
シロツキの視線が右往左往して非常に落ち着かない。
「えっと、出てった方がいいかな?」
「あ、いや、その、大丈夫だ」
部屋の中に何か隠したいモノがあるわけではないのか。
「どうしたの、ほんとに」
彼女は左右の手をいじらしく弄ぶ。ついに地に沈むほど目線を落として、僕の身長でもシロツキの頭頂部が見えるほどだった。
「具合悪い?」
「いや、大丈夫だ。ほんとにほんとに大丈夫」
「そう……」
彼女ははっとして棚にあったポットを取った。
「お、お茶でも、どうだ。──よければ、だが」
たどたどしいシロツキが道化じみてておかしい。僕は笑いながら、よろこんでと答えた。
カルヴァに普及するお茶は針葉樹の葉を煎じたもので、飲むとクリスマスツリーの香りがする。もし日本人に飲ませたらきっと好みがわかれる。僕は嫌いじゃない。好きともいいがたいけれど。
ふと息をつく。
温かいお茶を飲むと、とたんに体がポカポカした。この国はやっぱり寒い。
僕はシロツキのほうを伺う。視線がぶつかって絡まった。マグカップを口元へやっていた彼女は、体ごと向きを変えて一口飲んだ。
拒絶にも見える態度だ。
さすがに傷つく。
「あの、嫌わせるようなことしちゃったのかな?」
彼女はマグを机に置いて、首を横に振る。ぶんぶんふる。
「じゃあ、なにが」
「私からしたらむしろ、なんで楓が平然としていられるか不思議なんだけれど……」
「え」
「この前の、あれのあとで……」
しゅるしゅるとしぼむように体を竦ませて、シロツキは椅子の上に膝を抱き顔を伏せた。耳まで赤くなっているその様子を見て僕も思い出した。
ああ、そういえば頬にキスした。
療養のためにバタバタしてたから、すっかり頭から抜け落ちてた。
思いだして体温が上がった。
お茶よりもよっぽど保温作用のある思い出だ。
あはは、と乾いた笑いが零れる。正当な釈明が見当たらなくて、けっきょく事実だけをいう。
「ごめん。あの時は助かった喜びでテンションが上がっててさ、ちょっと調子に乗っちゃったんだ」
「テンションが上がらなければしなかった、と?」
「え」
「それはそれで複雑だ」
「……えっと」
シロツキは額を膝に乗せたまま、なかなか顔をあげない。
「どうやって謝罪すればいいかな?」
「謝罪なんていらない」
「……じゃあどうすれば許してくれる?」
「私は別に怒っていない」
湿り気を帯びた恨みがましい目がこっちを見た。
「その眼は怒ってるよ」
「怒ってない」
「そんなこと言っても……。ああ、もう。シロツキの心を測るのは難しいね」
「こっちのセリフだ」
それからまたしばらくのだんまりが続く。僕はお茶を一口飲んで唇を湿らせた。
シロツキはかつてのように触れられることを望んでくれているのだと思った。だからと言ってキスはやりすぎだったと思うのだけど、そもそもシロツキからやったことでもあるのだ。自分からするのはいいけど他人からされるのは嫌なのだろうか。
「嫌な思いをさせたなら、ごめん」
「嫌な思いなんかしていない」
「シロツキはどう思っているの」
「……」
彼女は言葉を胸の内へ閉じ込めるように、自分の膝を抱いた。
「あれを思い出すたび、体がぎゅってなる。どうしようもなく震えて……それなのに、心はまるで宙を泳ぐかのようだ。ふわふわ
「……」
「壊れてしまったみたいだ。感情に歯止めが利かない」
「つまり」
「楓、言葉にしてほしいのは私も同じだ」
「……」
「私は、お前にとってなんなんだろう。
彼女は顔をあげる。青い瞳の下で桜色に染まる頬。紫苑に混ざり合ってしまいそうな澄んだ色。
言葉を選べ。
僕は自分に言い聞かせた。
踏み込んではいけない領域に、片足を突っ込もうとしているのだから。
数秒間ためらった。
それから言う。
「僕もずっと考えてる。シロツキが僕にとってなんなのか」
「なにか考えはあるか?」
「うん。相棒とか、パートナーなんじゃないかな。互いを、互いのために守り合う。この言葉がしっくりくるよ」
シロツキはまだ腑に落ちないような顔をしていたが、それでもうなずいた。
「楓はこれからどこに向かう。私はそこについていきたい。幸せになるお前を見届けたい」
「これからについて、前回の任務で考えたことがあるんだ。明日、女王陛下の前で宣言したいと思ってる。──もしかしたら処刑になるかもだけど」
「そんなことはさせない」
シロツキが刃物のような気配を漂わせた。
僕は慌てて冗談だと告げる。
「でも、ありがとう。頼りにしてる」
「ん」
彼女は満足したようにうなずいた。
「お茶、もう一杯飲んでいかないか」
「ううん。大丈夫」
「……じゃあ、お茶一杯分の時間を、私にくれないか」
「というと」
「…………もう少し一緒にいたい」
これだけまっすぐな言葉をぶつけられるのはいつぶりだろう。僕は嬉しくて、気が付いたら頷いていた。
それから長い時間を一緒に過ごした。
今度はおだやかな静寂の中で、僕らは街を見下ろしたり、なにか他愛もない話をしたり……ただ時間を共有した。
明日はもうすぐそこだった。
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