45・再開の狼煙


そこはカルヴァの地下がかわいく見えるほど不潔で薄暗い牢屋だった。


「ようこそいらっしゃいました。ご客人」


その声に視線を向ける。


身動きの取れないほど拘束された僕の前で、同じく鎖で縛られた獣人が石の床に座していた。全身アザだらけ。その眼はうつろ。目前の僕の姿さえ見えてはいないような。出し抜けに表れた凄惨な光景に何も言えなくなる。


獣人の傍に立つドレス姿の女性がしとやかに笑いかけてきた。


「挨拶もなしとは、ずいぶん位の高い殿方なのでしょうね」

「あの、あなたは──」


両脇に立つ兵が僕を床へ組み伏せた。

右の頬をしたたかに打ちつける。ぐわんと脳が揺れる。


「賊がッ、第一王女の御前であらせられるぞ」


痛みに歯を食いしばりつつ視線をあげる。エメラルドグリーンの瞳が冷たく僕を見下ろす。カルヴァで何度か見た眼だ。敵対している相手の命に尊厳などない。そう言いたげな、上に立つ者の目。本物だと思った。


「そこまで神経質にならずとも構いません」


第一王女は両脇の兵をなだめて僕を離すよういった。それから檻の外へ出るよう指示した。危険だと食い下がる彼らを視線で冷たくあしらう。結果、檻の中に三人が残った。見知らぬ獣人、第一王女、そして僕。


「さて、ご客人。あなたの名前を教えてくださいな」

「……かえで、です」

「不思議な響きですのね。この辺りの生まれではありませんの?」

「ええ」


王女は視線でどこの生まれかと尋ねてきた。でも僕は沈黙を貫く。ぼろを出すのが一番まずい。必要のないことは口走らない方がいい。


「そう」彼女は答えさせるのを諦めた様子でいった。「私はアンナ──。フロイ・マーノスト・アンナ。この国の第一王女として生まれましたの。短い間だとは思いますが、よろしく覚えてくださいな」


目は口ほどに物を言う。この言葉を考えた人は天才だと思う。事実アンナの目は笑っていなかった。それに反して物腰は柔らかい。いっそわざとらしいほどに。


「さぁ、楓さん。教えてくださらない? あなたどうして城壁の内側にいて?」

「夕方ごろから教会で祈りを捧げていました。時間が来るまで参列しようと思っていたのですが、その間に寝てしまって。気がついたら城の中に閉じ込められていました。ご迷惑をかけて申し訳ありません」

「そうでしたの。戸締り確認の兵士からは問題ナシという報告が上がっていましたが……」

「起きたとき教会の外にいたんです。もしかしたら誰かに運ばれたのかも」

「移動させられて起きないなんて、ずいぶんお寝坊さんですこと」


運ばれて起きないわけがあるか。もちろん今の話は即興。きっと嘘だなんてとっくにバレている。でもそれでよかった。僕の役目はとにかく時間を稼ぐことだ。


アンナは空々しく笑った。


「それで、楓さん。人間と獣人が戦争状態にあることはご存じ?」

「はい」

「あなたには人間である証明をしていただきたいのですが、構わなくって?」

「はい」


縛首輪リコールでも嵌められるのだろうか。それなら証明は楽勝だ。僕が人間である以上なにも問題にならない。


しかし、アンナは檻の外の兵へ呼びかけ、鞭を持ってこさせた。それの持ち手を僕の方へ差し出す。


「なにを……?」


獣人を指さし第一王女は命令を下す。


「これで彼女の背を打ちなさい。さすれば、あなたへの疑いは即刻晴れるでしょう」


今までぴくりとも動かなかった獣人が絶望の顔をあげた。まだ幼い。十歳にも到達していないサイの獣人。縛首輪リコールに捕らわれた彼女の擦り傷だらけの額には、灰色の角が浮き出ていた。


その下で青白い唇が三文字を紡ぐ。

──いやだ、と。


僕はとっさに鞭を押し返した。


「そんな回りくどいことをする必要はありません。縛首輪リコールを僕に巻いていただければ、それでいいのでは?」

「ええ、ええ。もちろんあなたが獣人ではないということは確かになるでしょう。しかし」


アンナが僕の眼前まで顔を近づけた。思わず背を逸らし、避けた。そうしなければ鼻同士が衝突していた。恐るべき眼光。胸を突く声音で彼女は続ける。


「もしも、その人間が獣人の思想に染まり切ったスパイだったらどうします?」

「そんな人間、いるわけ」

「もちろんわたくしもそう思います。こんな下らぬ証明さっさと済ませてしまいましょう? さ、どうぞ」


アンナは僕の胴体を縛っていた鎖に鍵をあてがい、さらに手錠に鍵を差し入れ、僕を自由にした。僕はいまほど自由を拒んだことはない。解放された己に失望しながら、渡された鞭と獣人の少女を交互に見た。


鞭はひやりと冷たく、見た目以上に重い。なんて残酷な得物。相手を死に至らしめることなく苦痛のみを蓄積するのだ。


少女は小さく首を振っていた。顔は青ざめ、頬はやつれ、瞼は痛みの思い出を嫌悪し震えている。鞭で打たれたことのない僕ですら、それがどれだけトラウマを植えつけるものか理解できた。


「できませんか?」


アンナが覗き込んでくる。その頬は赤く紅潮していた。そういう趣味があるようにしか見えない。一気に嫌気がさした。この女の顔を見るのは嫌だと脳が言う。


かといって、少女を見れば向けられるのは懇願の視線。


やめて。やめてください。

お願いだから。


そんな幻聴すら聞こえてくる。


「できないのですか?」

「僕は」

「できないのですね?」

「僕はこの子に何もされていません」


アンナはきょとんとした。


「……というと?」

「この子に親族を殺されたわけでもない。自らを害されたわけでもない。なんの罪もない彼女を傷つけるのは、たとえ獣人といえど僕の価値観に反します」

「価値観、ですか」

「ええ」


僕はとっさに鞭を床に置き、手を組んだ。


「さっき言った通り、僕は教会へ参列していました。日々僕たちの食物になっている原生生物へ、感謝と許しを捧げるためです。生きるために仕方のない殺生は別として、生き物を傷つけることは宗教上避けなければなりません」


うまい切り替えしができたと思う。


さっきの話に信憑性が増す言い訳だし、それに、『獣人の思想に染まった人間』というのをやんわり否定してもいる。論理的な方法で反論するのであれば、アンナは新しい方向から僕を切り崩そうとするはずだ。


──と。そう思った。


「そうですか。宗教」


彼女は鞭を拾い上げ、──床へそれを振り下ろした。


銃声に似た音色が牢へ響き渡った。少女が耳を抑えてガタガタ震えだす。

アンナは改めて鞭を差し出した。


「やれ」


有無を言わせない口調。


「お前の価値観などこのわたくしが一度でも問うたか? あらゆる思想も宗教もわたくしは認めよう。しかし、獣人に関してそれは当てはまらないんだ。なぜだかわかるか?」


その変貌に口を挟むことすら忘れる。

彼女はいった。


「獣人が獣人だからだ。人間に害をなす病原菌だからだ。存在自体が罪の塊であるからだ」

「理屈が、通りません」

「獣人相手に通す必要はない」


ぴしゃりと彼女は言い切った。


相手が理屈を捨てたなら、もはや逃げ道はない。鞭を振るか振らないか、どちらかを選ぶほかないのだ。


僕は少女と鞭をもう一度見比べた。

そして、腕を下ろし、鞭を手放した。


王女が「んふ」と気持ちの悪い笑みをこぼした。

思わず舌打ちが零れる。


「これで満足ですか。僕は」




──タンッ。



耳を疑った。目を疑った。

アンナが少女の背を打った。鞭が皮膚を抉る音が僕の鼓膜にこびりついた。


一瞬の静寂。

目を見開いた少女の体が痛みを感じ、脳にそれを伝達する時間。


やめてくれ。

僕は耳を塞ごうとした。間に合わなかった。

獣人の少女が金属のような悲鳴を上げた。






     *






「追ってあなたの罪を通告します。それまでしばし」


アンナはそう言い残して地下を去った。僕は檻の中に残された。血の出るほど唇を噛み、悲鳴を殺す少女と一緒に。


彼女の背中はすぐに赤く腫れた。大蛇が皮膚の下を這っているかのごとく、隆起した歪な腫れ。この傷は果たして消えるのだろうか。また「僕のせい」だ。自分が嫌になる。


僕がここにいるからこそ、できることがあるような気がしている。その裏側で、僕が存在するせいで傷つく人がいるのもまた事実だ。どうあっても僕の魂は僕が生きることを全肯定出来ない。


「くそ……」


吐き出した言葉は石の壁に吸い込まれた。







しばらくして、重い扉が開く音がした。

アンナが戻って来たのかと思ったが違う。


足音が軽い。


急ぎで駆けつけてきた人影を見て声を挙げそうになる。ウェーブのかかった金髪。そこにいたのは王城の前で衝突したあの少女だった。


僕の姿を横目に見つけた彼女は急ブレーキをかけ、危うく転びそうになりながら反転。ドレスのポケットから鍵を取り出した。


「助けに来ましたっ」


どういうことだ、と思う。彼女が僕らの情報を流したのではなかったか。嘘? それとも二重スパイ? というか、どうやってここに来た?


「あの、あなたは」

「第三王女、リェルナと言います。時間がありません。説明はあとです!」


彼女に引きずられ檻の外へ連れ出された僕は、獣人の少女を指さす。


「待って、彼女は連れていけないんですか!」


リェルナは悔しそうに歯を噛み、頷いた。


「ごめんなさい」

「でも」

「たとえ残酷と言われようが、私は選びます」


彼女は僕の右手を取った。シルクのグローブ越しに、強い意志を秘めた体温が伝わってくる。


僕は手を引かれるまま廊下を抜け、地上へつながる螺旋階段を上った。


一階にたどり着き、なおもリェルナは止まらない。


先行してどんどん先へ登っていく。兵は先ほどの騒ぎで外の警備を強化しているようだ。各階には数人の見回りがいる程度で、彼らも隠れてやり過ごすことができた。


そうして行きついたのはマーノスト王城の四階。リェルナは廊下の最奥にある部屋へ、ノックもせずに飛び込んだ。


赤い絨毯の上に僕を放り投げ、扉を後ろ手にしめる。その間0.5秒。


振り返ると、肩で息をした彼女が僕を見下ろして、「やってやった」という風にちょっと笑った。










「ここは何の部屋です」


暖炉の前に椅子が二つ距離を取って並んでいた。勧められるままそれに腰かけ、同じく座った彼女を見やる。すっかり呼吸も落ち着いたリェルナ王女は背筋を伸ばし僕に向き直った。


周囲にはテーブル、天蓋付きの豪奢なベッド、グランドピアノ、本棚、ドレッサー、クロゼット。娯楽も含め、およそ部屋に必要な要素がすべて詰まっていた。この世界に来てからもっとも贅沢な部屋だと思う。


「わたしの部屋です」


それも王女という立場があってのことか。


「どうして僕をここへ?」

「あなた様が、初めてわたしの言葉を聞いてくれた人だったからです」

「言葉を?」

「はい。あなた様も知っての通り、この国では獣人が不遇な扱いを受けています。少し前、病から目を覚ましたわたしはそれに対して抗議の声を上げているのですが、父上も姉様も誰も耳を貸してくださらないのです。みんなそれが当然と言い切るばかりで……」


僕は彼女の目を見た。アンナとは違う本気の憂いが浮かんでいる。


「あの、質問ばかりで申し訳ないのですが」

「いえ。お気になさらずなんでもお尋ねください」

「リェルナさん……いや、様。リェルナ様はいつから獣人の抗議を?」

「えっ」


すると途端に彼女は旗色を悪くした。

「え~っと」「あの、うーんと」「なんだっけ、えっと」。並びたてられる言葉はまるで現代の女子高生のよう。さっきまでの堅苦しい言葉遣いが見る影もない。


僕がこの質問をしたのは興味本位ではなかった。リェルナ王女が果たして本物かどうか確認したかったのだ。


だって、おかしいじゃないか。獣人は忌むべきものだという強い価値観が根付いたこの国で、どうして彼女は獣人の立場を考えている? あまりにも異質な思考回路なのである。罠を疑うのは至極当然だ。


「あの、えっと、いつから、でしたか……その、覚えてないのですが」

「じゃあ、質問を変えます。どうして獣人の扱いがひどいと思えたんですか?」

「え」

「この国で教育を受け育った人間が、獣人の扱いに疑問を持てるのかという話です」

「あー……っと、その、ですね」


言っては申し訳ないが、彼女はバ……天然っぽい。僕みたいな凡人でも仮面をはがすことができそうなくらいに。


「いま、失礼なこと考えました?」


彼女はじっとりと僕を睨んだ。


ふいに懐かしさに襲われる。

いや、よそう。

いま思いだすべきことじゃない。


リェルナはこれ以上ごまかせないと判断したのか、ため息をついて「……あの、誰にも言いませんか」そう前置きした。


僕はうなずく。


「実は、その──」


しかし、話し始めた彼女を差し置いて、僕はリェルナの向こうにある窓へ視線がくぎ付けだった。


「……シロツキ」


そこにみんながいたからだ。


ファロウが窓枠に張り付き、彼の肩にシロツキとサジールが乗っている。ファロウがピースをして笑っている。胸の中に大きな安堵が広がった。同時にいぶかしむ。なんでそんなところにいるんだ。


これは少し考えたら解決した。そうだ、僕が兵と一緒に地下へ行ったせいで彼らは出ていくのを余儀なくされたのだ。


彼らを城内に招き入れることができないだろうか。

どうにかリェルナを説得して──。


視線を戻すと、第三王女は目を見開いていた。


「どうして」

「え?」

「どうして、その名前を?」

「なにがです?」

「いま、あなたが、」


彼女は立ち上がった。

その拍子に椅子が倒れ、慌てて元に戻す。


「ご、ごめんなさい。取り乱して」

「いえ、あの……それで、お話の続きは」

「ああ、えっと、はい。わたしは、──生き返ったんです」


雷のような衝撃が立て続けに降ってきた。

実際に経験している僕は、彼女の言葉が嘘でないことを知っている。隠すこともできず変な顔をしているであろう僕へ、彼女はいった。


「……おまぬけづらになっていますよ?」

「あ、えっと」


僕は迷った末にいった。


「あの、僕も生き返ったっていったら、信じてくれますか」

「え」


リェルナはスコーンと後頭部を叩かれたかのようなまぬけづらをした。


「えっと、真っ暗な世界で、わたし」

「体も顔もなくして、ずっと漂っていたんですよね」

「そそそ、それ! そうです! そうそう!」


語彙力の低下がすさまじい。


「じゃあ、ほんとに!?」

「ええ」


リェルナは「よかった~おんなじ人がいた~」と椅子へ沈みこむ。


僕も同じ気分だった。彼女が本物のリェルナでないなら、獣人の扱いへ反対するのもうなずける。前世が関係しているのだろう。


「ちなみに、前世ではなんて名前だったんです?」











「あ、はい! わたし、沙那さなっていいます」











僕は止まった。

思考も動きもいったんすべてを遮断した。

というか放棄した。




は?


はぁ?


ちょっと待って。


頼むからもうちょっと待って。




僕はその場に立ち上がった。


感情が決壊する前に部屋の奥へ走り、ファロウの静止を振り切って窓を開け、いつの間にか人間の姿になっていたシロツキの右手を引き、部屋の中へ強引に引っ張って、もう一度リェルナの姿をした彼女の前に立って──。


それから、ああ、それから。


言った。


「シロツキだよ、沙那! 覚えてるだろ!?」

「シロ──!?」

「沙那ッ!?」


今度叫んだのはシロツキの方だった。目を白黒させながらワタワタと沙那を確認する彼女は、めったに見られない動揺した姿だった。


「沙那ッ、さな!? 本当に沙那か!? わ、ワタシ、私を覚えてるかッ!? いつも一緒に寝たり、その、ほら、家の前でお前のなわとびをぶつけられた猫のシロツキだ! お前がつけてくれた名前を生涯名乗ってるシロツキだ! ほら、あの、だから、私だッ!」

「わわわわわわ~~~~!!?」


感極まった沙那はシロツキへ抱き着いた。


「シロツキ! シロツキ!? なんでこんな美人さんなの!?」

「沙那ッ、沙那ッ!」


とっさのことで勢いを殺せず、二人は暖炉の前でごろんと絨毯へ転がった。僕の妹は一つの死を超えて、泣き笑いしながらかつての愛猫にほおずりしていた。じゃれあう二人。それはかつての縁側での風景だった。


感情に歯止めが利かない。窓際でぽかんとしてるファロウやサジールの前で、僕ははばからず大量の雫をこぼした。涙が止まらない。マグマのように熱い感情が胸をみたしてたまらない。


頼む。頼むから。

これを夢で終わらせないでくれ。


頬をつねる。痛かった。

ちゃんと痛い。嬉しい。ただ嬉しい。




いまから、僕は世界一調子のいいことを言おう。



──神様。ほんとのほんとに、ありがとう。



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