43・訓練(?)
「さて、と」
宿の裏手にある、生垣に囲まれた小さな庭へ僕らを連れ出し、ファロウはコートのポケットに手を突っ込んだ。引き抜かれた手のひらには茶色い革製のボールがのっかっている。
「なんで、ボールを?」
「城から出たあと、店先で買っておいたのさ」
これまたどうして?
尋ねようとした次の瞬間、シロツキが右手で僕の顔を
見ると、彼女の右手にはファロウが持っていたはずのボールが握られている。ファロウはと言えば、僕の顔面めがけて投球した直後のフォームで笑っていた。
「な、なんで、」
シロツキがいなかったら危うく鼻を骨折しているところだ。
「事情が変わった。お前に《
「唐突すぎやしませんか」
シロツキが鋭く睨む。
「今のは明らかに害意のある行動です」
「そりゃそうだ。傷つけるつもりで投げなきゃ《
ファロウが頭上に手を出す。彼の意図を理解してか、シロツキが投げ返した。スピードと感情の乗った投球だ。
「えっと?」
要領を得ない僕に、ポケットからさらに二つボールを取り出したファロウがいう。
「今からお前にこいつらを投げる」
「……はぁ」
「だから避けろ」
「え」
「安心しろ。当たったら痛いくらいだ」
さっきの投球を見た感じ全く安心できないのだけど。
「避けろって言われても、獣人の速度についていけるはずが……」
「だから《
「あの、非常に言いづらいんですけど」
「なんだ」
「まだ意図的に使ったことがなくて」
「んなことわかってるっつーの。強制的に発動の感覚を掴もうぜっていう訓練だ」
荒療治である。なんとも理不尽極まりない。
これで《
「嫌なら避けろ」
とファロウがいった。
さきほど人間にシロツキの存在をバラしてしまった負い目から断るわけにもいかず、僕は渋々頷いた。
「大丈夫だ。当たりそうなら私が──」
「お前はこっちで見てろ」
ファロウが宿の裏口を指さした。むっと抗議の視線を向けるシロツキに対し、
「痛くなきゃ訓練の意味がねぇだろ? 楓が『避けなくても大丈夫』って思ってたらいつまでたっても成長できねぇじゃねえか」
「でも、だからといって」
「いいよ、シロツキ。必要なことだと思うから」
僕にも反感の視線を送るが、彼女はけっきょく頷いたのだった。
「とりあえず聞くけど、《
僕はとりあえず全身に力を込めてみた。
庭の土に足を踏ん張り、両の拳を握りしめる。
「力んでる時点でできてねぇよ」
「ですよね。なんか違うなって気がしました」
「じゃ、始めるか」
「っえ」
バチン、と。
左の頬を衝撃が突き抜けた。
「楓!」
シロツキが叫ぶなか、僕は午後の青空を見上げてぶっ倒れる。
「一発」
ファロウがいった。僕の顔の横にボールが落下した。
めちゃくちゃ痛い。スナップの効いたビンタってこんな感じじゃないかな。
「ほら、早く立て。当てられるなら投げ返してもいいぜ」
「ッ……」
いたいな、くそっ。
幼稚な反骨精神が顔をもたげた。
ボールを拾って一発目を投げ返そうとしたら左肩を打ち抜かれた。それでも投げようとしたら額にボールが飛んできた。なるほど。いたい。絶対あとでたんこぶになる。
「お前避ける気あんのか?」
一昔前の鬼コーチを連想するセリフだ。僕は歯を食いしばって立ち上がる。足元のボールを三つ投げ返して次を待つ。と思ったらすでに左のすねにボールがぶち当たっていた。絶妙にいたい。二つ、三つ。右肩と足にヒット。
唸り声が聞こえるので振り返ると、肩を抱いて座り込んだシロツキがファロウを睨んでいる。ボールよりもその視線の方が恐ろしい。温暖な午後が凍てつかんばかりに冷え込んでいくようだ。そんなに睨んでいると彼女の目が攣ってしまうんじゃないかと心配になる。
「……」
早くやめさせるためにも、僕は《
だけど、どうやって?
十五分間休みなしでボールを避け続けた。いや、ほとんど避けられてないけれど。体に当たった回数が百発を超えると、ときおり不思議な感覚が訪れることがあった。空中に細い線のようなものが見え始めたのだ。
いよいよ幻覚を疑う。
ちょっと休憩を挟んだ方がいいのかも。
そんなことを考えていると、ボールがその線をなぞるように飛んでくる。僕はなんとか体を逸らして、直撃だけはまぬがれる。掠った。
そして三十分を超えた。いよいよ息が上がって体中が痛い。もう当たっていない箇所を探す方が難しいくらいだ。幻覚の色が濃くなっている。ボールが直線を削るように飛んでくる。
いよいよ一時間が経過するころ、僕の中でイライラが頂点に達した。
なんだこの訓練。っていうか訓練なのかこれ。
そもそも獣人の身体能力で放ったボールを避けられるはずがないだろうに。なんでサンドバッグにならなければならないんだ。
痛みの中で
「四百二十七」
ファロウがいった。
その瞬間空中を青い光が走った。
軌道だ。
僕はそこに渾身の蹴りを放ってやった。ブーツの先端にぶち当たったボールがものすごい勢いでファロウの顔を目指す。やってやったと思った。
しかしファロウは難なくそれを受け止める。そして、
「ようやくかよ」と苦笑するのだった。
ボールの攻勢が止んで、僕はその場に倒れた。
夕陽が雲を紫色に焼いている。
シロツキが僕の傍に駆け寄ってくる。のぞき込む青の瞳に、僕は「いたい」とだけいった。口の中が切れて血の味がする。鉄臭くてまずかった。
シロツキは何も言わず、赤く腫れているだろう僕の頬をそっと撫でてくれた。
*
夜の七時に僕たちは宿を出た。荷物もすべて持って部屋はもぬけの空にした。用事が済んだらそのまま国を離れるためだ。ファロウが医療道具の入った木箱を背負い、僕がシロツキとサジール入りのバッグを持っている。
陽が落ちたにも関わらずマーノストはまだ賑わいを見せていた。通りの向こうまで一直線に並ぶカンテラの灯りが、行きかう人影と精巧な石畳を夜に映し出している。
酒が入って赤ら顔の男性がすれ違う。
アルコールを求めて夜を巡る人のなんて多いことか。
「俺も飲みてぇ」
「お酒なんて飲むんですか」
「まぁな。──先に行っとくけど中毒にはなってねぇぞ。日常的には飲まないからな。そもそも酒はカルヴァにはそうそう出回らないんだ。任務が成功したときとか、女王から功労者にふるまわれることは何度かあったが」
「そんなんあんのか」
サジールがぽつりとつぶやく。
「お子様は禁止だぞ?」
「誰がお子様だ誰がッ。とっくに成人済みだ!」
「えっ」
「『えっ』じゃない人間ッ!」
通りすがりに不審がられ、とっさに咳ばらいをする。ファロウがくすくす笑いながらサジール入りのバックを叩いた。
「あほが」
「くそったれ、帰ったらお前らマジでぶん殴ってやる」
「帰れたらな」
縁起でもないことを言わないでほしい。
いくらこの国に飲んだくれが多いとはいえ、深夜になればなるほど人目は減っていくだろう。僕らは徒歩でゆっくりと王城へ向かった。道中酒場に立ち寄り、簡単な夜食で今夜の作戦に備えた。
夜の城壁は眠りについた巨大生物のごとき威圧感で佇んでいる。近くの小道からのぞき込む城の威容は、その堅牢さと相まって緊張感を引き立てた。
「全員準備はいいか?」
ファロウが僕らへ振り返った。
「始めたらもう引き返せないぜ?」
「どちらにせよ引き返せねーだろ。いまさら誰も救えませんでしたっつって、女王がそれを許すはずもないし」
サジールは観念したように、だけどわずかに怯えた表情でいった。
「問題ありません」
シロツキは慣れたものだ。緊張をおくびにも出さない。
僕はと言えば、どうすればみんなの足を引っ張らずに済むか、そればかり考えていた。ドジをしでかしたらどうしよう。大切な場面で《
仕方ない、と言わせてほしい。こちとら前世ではただの大学生だ。自慢できるとしたらその不幸の多さくらい。……自慢にもならない。考えながら自分を殴りたくなった。二度とこんなこと考えない。
なにはともあれ僕は頷いた。
いくら待っても緊張の糸がほぐれることはないだろう。ならばあとは進むだけだ。
「じゃあ、行こうぜ」
生垣を飛び越えた彼を追って、僕は腹ばいになってそこを潜る。
獣人と任務しているつもりでいたのか、ファロウは「わりぃ」と苦笑した。
今日の午後ファロウから説明を受けた通り、東側城壁の隅に錆びた鉄柵の嵌め戸があった。丁寧に音を殺してそれを外し、二人そろって内側に潜る。脱出時はここを通ることになるので、外したまま戸を傍に立てかけた。
ふいに、ゆらりと大きな影が城壁に落ちた。軍服を着た四人一組の警備が巡回しているのだ。先頭の男が手に持ったランタンの中で火が揺れている。二重城壁の二つ目を前にして、僕らは草むらの中に伏せる。
彼らをやり過ごし、ファロウは反対方向に影伝いに動いた。
しだいに水音が聞こえ始め、目の前に水路が現れる。階段を降りて水場に近づくと、脇に整備用の通路があった。二つ目の城壁の方に小さな扉があり、南京錠がかかっていた。それはファロウが引っ張ると軽く外れる。手品みたいだ。思わず目を丸くした。
「どうやったんです」
「昼間来たときに開けておいたんだ。鍵自体はカモフラージュとして嵌めといた」
彼はにっと笑って人差し指で錠を回した。
それにしたってあの短い時間でカギを外したということだ。
「慣れりゃ簡単さ。五分もあれば外せる。お前には《
「使う機会ありますかね」
「さぁな。でもあらゆる技術は知っておいて損はないだろ?」
それもそうか、と思う。カルヴァへ帰ったら教えてもらおう。
二重城壁の内側へ侵入すると、とうとう城本体がその姿を現す。
正面に噴水があり、その向こうに横幅の広い大理石の階段がある。縦にラインの入った太い石柱が何本も並んでおり、内側に巨大な門がある。門はぴったりと閉じ切っていた。開けることはできないだろう。
「さぁて、こっからが難しいところだぜ」
「どうやって城の中に?」
「脱出経路も含めて、それを考えながら進むのさ。間違えたら一環の終わりだ」
僕は窒息しそうなほど息を詰めて、明かりの漏れる三階の窓を見上げた。
あれ、と思う。
「どうした」
「いま、誰かがそこから」
──覗いていたような。
僕はじっと待った。けれど感じた気配は二度と見つからなかった。
「……気のせい、ですかね」
ファロウはむつかしい顔をして目を眇める。
「直観っつーのはバカにならねぇよ。そろそろ使い時じゃねぇか?」
言葉の意味するところを理解して、僕は意識を集中する。
──
心の中で何度も意識する。けどうまくいかなかった。
「あの、ファロウさん」
「仕方ねぇなお前は……」
すると彼はコートのポケットから再びボールを取り出した。それを目にした僕の脳裏に、四百二十七球分の痛みといら立ちが思い返される。
ぞわりと鳥肌が立った。
気づくと視界が青みがかっていた。
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