38・マーノスト入国、市場にて
「起きろ」
「いたっ」
べし、という効果音が付きそうなほど強く頭を叩かれた。
気持ちよく寝ていた人に対してなんて仕打ちだろう。
寝袋から顔を出すと、何重にも重なった葉の隙間から青空が見えた。その手前にいるサジールがこちらを見下ろしていた。
「……おはよう」
「おう。さっさと起きろ」
「ヤクザだなぁ」
「あ?」
「なんでもないです……」
僕は三十秒かけてようやく上半身を起こした。信じられないくらい全身が重かった。僕の体には筋肉の代わりに鉛でも詰まっているんじゃないだろうか。しかもずきずきと痛む鉛だ。たちが悪い。
腕や太ももをさする僕を見て、倒れた木に腰かけながらサジールがいった。
「反動だ」
「え?」
「きのう黒爪を着て戦ったんだろ? なら、筋肉が過負荷に耐え切れずにバカになってる可能性が高い」
「どおりで。これ、治るかな?」
「時間が経てばな」
短い時間で痛みが消えることを願おう。
一番痛いふくらはぎを揉みながら辺りを見る。ファロウがまだ寝ていた。いつも身なりがきちんと整ったところしか見ていなかったから、寝癖が付いている姿が意外だった。
「珍しいね」
「これのせいだな」
サジールが指さしたのは、彼女が医療道具を運んでいる木箱と、携行食料入りのリュックだった。どちらも湿地に置いてきてしまったはずのものだ。夜を徹してわざわざ取りに戻ってくれたというのか。
「……頭が上がらないね」
「心底不本意だけどな」
「サジールはファロウが苦手なの?」
「性格が合わないんだよ。こいつ妙にふらふらしてて軟派だろ? ぜったいモテないぞ」
「そうかな。僕はけっこう冷静な人だと思ってるけど」
「お前見る目ないな。こんなに信用ならないちゃらんぽらんもそうそういないだろ?」
「──お前が俺のことをどう思っているかはよくわかった」
「え」
ファロウが目を細く開けてサジールを睨んでいた。
少女は「んぐわッ」と短く叫び、視線を遮るために木の後ろへ隠れた。
「盗み聞きとは卑劣な」
「寝ている奴のすぐそばで陰口言うのはどうなんだよ」
「これは、その、正当な評価だ」
「なるほど。それじゃ、俺も女王に正当な評価を伝えに行くとするか。もしかしたら私情が混じっちまうかもしれねぇけど」
「やめろ──ッ!」
掴みかかるサジールをひらりと躱して、ファロウはあくび交じりに立ち上がった。
「ったく。荷物を取ってきた恩人にけっこうな物言いだな」
「どのくらいの距離を?」僕は尋ねた。「かなり離れていたような」
「おおむね三十キロちょっとだな全員が寝静まってから片道一時間半」
「ありがとうございます」
「おお。お代がわりに酒でもおごれ」
「いつかお金が入ったら」
「ずいぶん先のことになりそうだな」
僕とファロウが笑い合って、サジールが雑草の上で沈黙していると、木々の隙間からシロツキがやってきた。その手に水筒があった。近場の川に水を汲みに行っていたらしい。
「おはよう。よく眠れたか?」
「おはよう。そこそこだね。まだ体が痛いけど」
「仕方ない。もう城壁も見えている。今日はゆっくり進もう」
僕らはそろって朝食を摂った。それから荷物をまとめ、昨夜の焚火の跡をしっかり土に埋めてから出発した。
「気持ちのいい天気だな」
「ああ。カルヴァの辺りもこうならいいのに」
どちらも前世は猫だし、日向ぼっこが好きなのかも。シロツキとサジールは温暖な森の空気をいたく気に入ったようだ。
足取りも軽く、僕とファロウの前をどんどん歩いていく。淡い木漏れ日が彼女らの髪をするりと撫でて地面へ落ちた。
僕はあの縁側を思いだした。この任務が終わったら、温かい日差しの下でゆっくり思い出話をしたい。そんなことを思った。
「サジール」
ほら、とシロツキが指をさす。
鮮やかな羽を持つ虫が飛んでいた。
「お、食後のデザートか?」
「もし本気で言っているなら、友達としての付き合いを考え直そう」
「冗談に決まってんだろ。──あ、逃げたぞ」
「追いかけろ!」
「ああ!」
二人は見るからにうきうきして走っていく。上空に逃げて手の届かない虫を相手に必死に手を伸ばす。任務で来ていることを忘れてしまうほど安堵に包まれた光景だ。
「ファロウは追わないの?」
「嬢ちゃんらと一緒にすんなよ」
ファロウは二人に、気をつけろよ、と声をかけて、一つ笑った。
「ガキだねぇ」
「大人になると、些細なことはぜんぶ退屈に見えますか」
「どうだろうな。少なくとも虫を追おうとは思わねぇ。それはお前も同じだろ?」
「まぁ、たしかに」
からりとしたおかしさがこみ上げて、僕は笑った。
ファロウは僕の隣を歩きながら、また、別の虫に標的を移した二人を見ながら、ふいに真面目な顔をした。
「《
どきりとして、僕の笑みも引っ込む。
「……昨日のことですか」
「ああ」
「はい」
「あんま使うなよ」
「サジールにも言われました。なにか危ないことがあるんですか」
「魔法の原理はほとんど解明されてねぇんだ。ただ、無尽蔵に使えるわけがねぇってのはわかるだろ? ナニカをするためには、それに見合った対価が必要だ」
「ええ」
「その代償がなんなのかわからないうちは、使用を控えた方がいい。それだけの話さ。──気づいたら、全身の筋肉が溶けて一生動けない体になっていた、なんて……嫌だろ?」
そういって、ファロウは舞い落ちる木の葉を追うように視線を落とした。彼が踏み出した次の一歩が、足元の枝を踏み折った。
パキリ。
乾いた音が空々しく響く。
「そんなことがあるんですか」
「……例えばの、話だよ」
声が小さく間を置いた。
それからいっそ清々しくにやりと笑む。
「動けない男を運ぶなんて俺は御免だぜ。背負うなら、美人でグラマラスな女性に限る、ってな。そう思うだろ」
「どうなんでしょう……」
「なんだ、お前二回もシロツキを背中に背負ってるくせに。──うちのお嬢様、これはどうなんだよ」
ファロウは両手を広げて自分の胸にあてがった。それの意味するところを理解してしまって、今度は僕が視線を落とす番だった。
「……そ、んなこと、気にする暇もありませんから」
「またまた。ほんとは気になってるんだろ」
わりと図星だった。
ふだんの彼女は鎧の下になにも着ていない。となると、二人で黒爪に包まれているときは、その、けっこう当たるのだ。
戦いだから仕方がないとは思うが、それが終わってから、自分の男を自覚して羞恥と自己嫌悪に沈むことになるので、いかんともしがたい。
もし次があるならサラシを巻くようにお願いしようと思う。
「顔赤ぇぞ」
「気のせいですっ」
「ムキになんなよ。サジールみてぇだ」
「そんなことありませんッ」
その後も質問攻めにあったが、僕は無言を貫いた。
でもあえていうなら、ふにゅりと柔らかくて──。
「…………」
もう一回死んで出直したほうがいいだろうか?
僕は歩数を数えて必死に意識を逸らす。
ほとんど顔をあげない僕を不思議がって、戻ってきたシロツキとサジールが不思議そうに顔を見合わせるのだった。
「入国理由は」
「商売です。遠地で採れた原生生物の肉を干物にして持ってきました」
僕が置いたリュックの中身を見、審査官は顔をしかめた。
「こんな低級な肉、売れるかわかんねぇぞ?」
「ああ、えっと……観光も兼ねているので、一つ二つ売れれば充分なので……」
「そうかよ。で、滞在期間は?」
「特に決めてないのですが、必要ですか?」
「いいや。無期限ね。ちょっと待ってろ」
男は入場許可証にサインをして、下半分を切り取り僕に手渡した。
「これがお前の身分の証明だからな。なくすなよ」
「もう入場しても?」
「ああ。いらっしゃいませ、お客様」
巨大な門が人一人分開く。僕が入国してすぐに、背後で門がしまった。
地平を南北に裂く城壁の内側。
そこはすでにマーノストだった。
「うわぁ……」
思わずひな壇芸人のような反応をしてしまう。
それほどに美しい街だった。
磨き抜かれた石畳が遮る物のない太陽に照らされ眩しい。街中いたるところに吊るされた国旗は、赤地に金のドラゴンをあしらった力強いものだ。同じく赤を基調としたレンガ造りの街並みが、統率のとれた行進のように並んでいる。
さっき入国審査官が『街そのものが芸術品みたいだ』といっていた。僕はさっそくそれに賛同することになった。どこを見ても綺麗。どこを見ても絵画のごとく。
前世の写真家か、あるいは画家をここに連れてこよう。作品としてどこを切り取ればいいかわからず卒倒するに違いない。
ひとしきり感動してから、僕は近くを歩く男性に安い宿を訪ねた。男性は干し肉入りの袋を抱える僕に
僕はお礼をいってその場をあとにした。
僕は一人で歩いていた。
シロツキたちは身体検査をされたら一発で獣人だとわかってしまうからだ。
人間の姿になればバレないのでは?
僕は最初そう思った。けど、戦争中だけあってさすがに対策されているようだ。獣人の生体波長──僕にはいまいちピンとこなかったが──を狂わせる首輪があるらしい。
いったいどんな
予想外にも、道を歩いていく途中でそれに出くわすこととなった。
「さあ、皆さま方! 本日入荷しましたわたくしどもの商品でございます」
宿を目指して、路肩の花壇が綺麗な通りを北へ三つ越したとき、快活な声が聞こえてきた。周囲には人だかりができており、中央に立つ男性が何を売っているかはわからない。
僕は群衆の外側にいた女性へ声をかけた。
裾の広いワンピースのようなドレスを纏う女性だ。
「すみません」
「あら、なにかしら?」
「これは何を売っているんですか」
「あらら、マーノストの市場は初めて?」
「ええ。さっき入国したばかりで」
「それならぜひ見ていくといいわ」
女性は親しみやすい柔らかな笑顔を浮かべ、僕を前の方に入れてくれた。
人をかきわけた先に広がる光景を見た瞬間、心臓にくぎを打たれたような衝撃が全身を貫いた。
言葉をなくして立ち尽くす。周囲の喧騒が消えて、目前のことから目を離せなくなる。
「さあ、こちらが本日の目玉。──馬の獣人でございます」
鎖でつながれた傷だらけの獣人が道の上に座らされていた。男性も女性も、子供も大人もいた。商品と呼ばれていたのは八人の獣人のことだった。みんな一様にやせ細っている。裸同然の服の下には真っ赤な筋がいくつも見える。傍らに立つ男性は藍色の皮ベルトに鞭を挟んでいる。
「見えたかしら? ここの売り手さんのは質がいいからおすすめよ」
女性がにこにこという。
僕は呆然と聞いていた。
「特にあの馬の獣人はよさそうね。力仕事にも向いてそうだし、乗回しも快適そうだわ。ね、あなたどれがいいと思います?」
「……え」
「もう、夢中になるのは──、どうかされましたの? 顔が青くなってますけれど」
「いえ……その、僕は」
「見えなかったならもう少し前に入れてもらうといいわ」
女性が手を挙げた。
止める間もなく叫ぶ。
「このかた、今日初めて市場を見るそうなの。皆様入れてあげてくださいな」
「おお、それはいい」
「ぜひ見ていってほしいね」
「旅人さんかな? ほかの国にも自慢してよ」
周囲の人が口々にいった。
否定も遠慮も彼らの前には無意味だ。
僕は最前列に押し出された。
商人らしき男性が嬉しそうに口上を語った。
「ああ、いらっしゃい。新たなお客様。──あなたは幸運だ。こんなにも粒ぞろいの日にここを訪れるなんてね。今日は、どういった品物をお求めで?」
「いえ、僕は……」
「見たところ、若い男性のお客様とお見受けします。でしたら、こちらの上物はいかがでしょうな?」
男性が鎖を引き、すらりとした女性を立ち上がらせた。
金髪の中に黒いラインの入った、ぼさぼさの髪を持つ女性だった。トラの獣人みたいだ。僕は怖くて、彼女の顔を確認することができない。
「こちらは中央区貴族からの返却品であります。どうです、見た目にも男性の情を煽るでしょう。一人で旅をしているときに人肌恋しくなる時はございませんか? 人間の代用品ではありますが、この者ならいかなる情欲を晒しても文句など言われません。さあさ、いかがです?」
僕は首をふった。もう一秒だってこの場にいたくないのに足が動かなかった。
なんなんだ、こいつら。
いますぐシロツキの黒爪で獣人たちを解放したい。でも、頭の片隅に残った一握りの理性がそれを押しとどめた。
商人が石畳に鞭を打つ。
鎖でつながれた女性がひゅっと息を呑み、僕の眼前に座り込んだ。そして胸や脚を強調する姿勢を取って、
「……買ってください」と小さくいった。
そのとき僕は初めて彼女の顔を見た。牙が生えていた。目が野生の色を含んでいた。耳も鼻もトラそのものだった。なのに肌は人間の姿で、動物の顔を無理やり合成しているようだった。
彼女の首に金属の輪っかがあった。
生体波長とやらを狂わせる首輪が。
周囲の観客がヒューヒューとはやし立てる。
背筋をぞっと寒気が襲った。
僕はどうしてもここにいたくなかった。
走った。
群衆を押しのけて逃げた。
さっき男性に教えてもらった宿を目指して、ただひたすらに足を動かした。もうなにも考えたくなかった。
冷や汗をかいて宿へ駆け込むと、受付の女性が不審な顔で迎えた。
「……いらっしゃいませ」
「あの、えっと……部屋、一人分ありますか」
「ええ。少々お待ちを」
彼女はカウンターの中で紙を眺め、開いている部屋を探した。
「二階の一番奥が開いています」
「そこをお願いします」
「はい」
部屋番号にチェックが入った。
「何泊を希望で?」
「えっと、とりあえず五日ほど」
「それでは、お代はこちらになります」
小さな紙に提示されたのは、「120」の数字と見たことのない単位だった。
しまった。僕はお金を持ってない。さっきのことで気が動転して頭が働かなかった。必死にポケットを漁ってみたり、ないお金を探すふりをする。
「……お代をいただいても?」
「あの、」
「ないなら泊めることはできません」
「あるぜ」
背後から腕が伸びて、カウンターに紙幣を何枚か置いた。その声に僕は心から安堵した。振り向くとサジールの木箱を背負ったファロウが立っていた。
「たしかに」
女性はお釣りをファロウに返し、僕に鍵を渡した。
部屋に入ると、いよいよ震えが止まらなくなった。
「大丈夫かよ」
ベッドに座り込んだ僕の背をファロウがぽんと叩く。
残念ながらなにも大丈夫じゃない。
「お金、どうしたんですか」
「さっきの群衆からくすねてやったさ」
「……あの首輪は」
「
「どうしてみんな逃げないんですか」
「逃げ場なんかねぇよ。国中敵だらけだ。それに、
ファロウは木箱を床に置いて、部屋の奥へ向かう。
彼が窓を開けると、そこに猫の姿のシロツキとサジールがいた。彼女らはするりと部屋に着地して、僕が顔を伏せている間に人間の姿に戻った。
獣の姿でファロウに乗り、空から城壁を超えたのだ。
そのまま人の姿にならずにここまで来た。
「……楓」
シロツキが僕を呼んだ。
僕は答えられなかった。
頭を抱え、脳裏にこびりついたさっきの情景を振り払うのに必死だった。
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