34・ツリミミズ


「うっ……」


 右足が泥の中に沈んだ。

 倒れそうになった僕の腕を掴み、シロツキが引き戻してくれた。


「大丈夫か」

「うん。ありがとう」

「そろそろ休憩を取るべきだ」

「それができたらとっくにしてるっつの」


 サジールがいった。


 歩き始めて三時間。僕らはノンストップで進んでいる。というのも、休憩に適した地形が見当たらないのだ。足元には常に浅い川が流れていて、座ろうものなら腰まで泥に浸かってしまう。保存食の入ったリュックを濡らすわけにもいかず、でも歩行をはばむ泥のせいで進みは遅い。


 体力だけがじわじわと削られていく。

 首を汗が伝う。


かえで


 シロツキが金属製の水筒を差し出してくる。僕はそれを受け取って、川でくんだ冷たい水を飲む。熱を持った体に冷たさが心地いい。魔法でも入っているんじゃないかと思うほどおいしかった。飲みすぎないよう気をつけないと。


「ありがとう」

「ん」


 水筒を返す。


 ふいに背中が軽くなった。シロツキが僕の背負っていたリュックを取り上げたのだ。まだいける、と言おうとしたが、ダメだった。体はとうに疲れはてている。ここで倒れたら言葉通り本末転倒だ。僕は素直に荷物を明け渡した。


「……ごめん」

「大丈夫だ。私も病み上がりだから、少しでも筋肉を働かしたい」


 彼女は軽々と荷物を背負う。おかげで楽になった。重力が半分になったみたいに。荷物運びができないのだから、後れをとらないよう、足だけはせめて動かす。


 前を歩くサジールが空を見上げていった。


「ファロウ。休めそうな場所はあるか?」


 地上には細い木が乱立しており、葉っぱが視界を塞いでいる。進行方向を確認、修正する役目は、必然的に空を飛べるファロウの役目だった。


「左前方、二百メートルくらい先。乾いた平地がさっきから見えてる」

「見えてたなら早く言えッ!」

「幸運は急に訪れた方が嬉しいだろ」

「ゴールが見えてないとキツイっつーの!」


 サジールは疲れといら立ちをナイフに込めて、進む先の枝を叩き切った。彼女の額にも玉の汗が浮かんでいる。身軽になった僕が交代を申し出ようかとも思ったが、僕の膂力りょりょくで枝を一刀両断できるとは思えない。


 ……けっきょく頼ってばかりだ。申し訳なくなる。


「ほれ、がんばって枝を落とせ」

「うるせーくそっ!」


 ファロウが涼しい顔で煽って、サジールはがむしゃらにナイフを振るのだった。






 樹林を一つ越えると、ファロウの言った通り乾いた平地があった。根の太い木が周囲の土壌を盛り上げて小さな丘を生み出している。僕らは新緑の木陰に入って荷物を降ろした。

 山脈を降りたことで気温もいくらか安定している。上着はぬいで、リュックにかけた。


 雑草の上に大の字に転がるサジール。ナイフを握っていた右手は豆だらけだ。小指が痙攣している。シロツキの手も似たようなものかもしれない。もっとも、彼女は痛みを気にする様子もない。足を覆う黒爪に付着した泥を、丁寧に洗い流している。


「湿地はどれくらい続くでしょう」


 空から舞い戻ってきたファロウへ、シロツキは尋ねた。


「残念ながらかなり」

「長期的な休息のできる場所は」

「どうだろうな。俺の視界には入らなかった。ここみたいに水が侵食しない場所はそうそう見つかるもんでもない気がするぜ」

「では、ここで一夜を明かすことも視野に入れた方がいいでしょうね」


 そして明日、一日をかけて確実に湿地を抜ける、ということか。


 さすが、精鋭と呼ばれる第3部隊ルートニク抜擢ばってきされるだけのことはある。シロツキは言わずもがな、日光にさらされていたファロウも疲労しているに違いない。そのなかで冷静に現状を俯瞰ふかんする力はとても心強かった。


「どうするかはお前らしだいだな」

「楓、サジール。正直に言ってくれて構わない。体力はどうだ」

「残りエネルギー二十パーってとこ……」

「僕もそんな感じ。今日の午後だけでこの先を踏破するのは、難しいかも……」


 シロツキはそっと頷いた。


「なら休もう。不測の事態がいつ起こるとも限らない」

「よっしゃ」


 サジールは心からの安堵を表情に浮かべた。






 火を起こす材料を探すため、僕とシロツキはあたりを巡ることにした。ファロウは監視を任されているとは思えないのんきさで「頼んだぜ」と手を振った。足場が悪くて、遠くに行くことはありえないから。


 サジールは、ファロウと二人残されるよりマシだ、といって僕らについてきた。


湿しめっているな……」


 枝に手をかけたシロツキが顔をしかめた。


「火、起こせそう?」

「適した燃料がないことにはどうにも……森にいるうちに薪を拾っておけばよかった」

「仕方ないよ。別の方法を探そう」

「ああ。──サジール」


 振り向くと少女はそこにいなかった。

 あたりを見回せば、彼女は川の傍に座ってじっと何かを見ていた。


「どうしたの」


 シロツキが怪訝に尋ねる。


「いや、なんか不思議な地形だと思ってさ」


 ほら。


 彼女は川の底を指さす。砂が巨大なすり鉢状にくぼんでいた。それも一つではない。川上から川下にかけて、無数のすり鉢が水底に並んでいる。


「どういう水の流れがあればこうなるんだ?」


 サジールはそういって、人差し指を川に触れた。

 静かな水面みなもに波紋が立つ。


 地面が揺れた。

 突如目の前に木が生えた。

 川から飛び出してきたのは見上げるほど大きなみき

 影が立ち上がる。

 日差しをさえぎる塔のような。


「はっ……?」

「え」


 太陽を背に、その幹はぐにゃりと左右に折れ曲がった。

 頭頂部に枝も葉もなかった。

 つるりとした円柱。


 木じゃない。なんだこれ。

 得体の知れない虫のような動き。

 さっと血の気が引いた。


 それはこちらに頭をもたげた。

 倒れ掛かるように幹の先端をサジールに向ける。


 動いたのはシロツキだった。


退けッ!」


 彼女は叫びながら僕の腕を引いた。

 吹っ飛ぶように後ろへ倒れる僕をそのままに、続けてサジールへ手を伸ばす。


 でも、


「あ……」


 木が口を開ける方が早かった。

 その先端が二つに分かれた。歯はない。トンネルのような真っ暗闇が向こうに見える。茶色い唾液が辺りに垂れた。


 サジールのあどけない顔が絶望に染まった。


「いやだ、シロツ──」


 こちらへ手を伸ばしたのを最後に、サジールはトンネルにバクリと呑まれた。巨体に体当たりを受けたシロツキが顔を歪めつつ受け身を取る。


「こいつッ……!」


 黒爪こくそうを展開する彼女。

 しかしハッと焦った顔をし、こちらへ突進してきた。すくいい上げるように僕を抱えて、シロツキは跳ぶ。風を切る加速。あまりの速さに体が軋む。


 なんとか振り向くと、サジールを呑んだモノとは別の個体がいた。そいつはさっきまで僕がいた場所をんでいた。


「っ」僕は息を吸う。「ファロウッ!」


 そこまで離れていない。声は届くはずだ。


 けれど、僕の呼びかけをかき消すがごとく目の前の生き物が鳴いた。ペットボトルに息を吹き込んだような低音が大音量で湿原に響いた。地震に似た揺れが起きる。あたりのすり鉢すべてから大量の個体が顔を出した。巣穴から這い出る無数の蛇のようだ。ぐるりを取り囲む敵意。現世うつしよに現れた地獄の様相。あまりのおぞましさに全身が引きる。


 僕を降ろしたシロツキは腕から大剣を生み出した。


「下がれ!」


 言われたとおりに距離を取る。


 彼女はこちらに迫ってくる一匹を目にもとまらぬ速さで十字に裂き捨てた。その間に迫る第二、第三、第四の口。袈裟斬りから左方一閃。二匹をさばいたシロツキが高く跳躍し四匹目を避ける。それを狙いすましたかのような五匹目の突進。


「ッ、《過剰オーバー》!」


 叫びと同時に大剣は布のようにけた。十を超える黒の刃が触手に似た自在さで五匹目に穴を穿つ。ここまでされても一匹一匹は死なない。その生き物は驚くべき生命力でシロツキへつきまとう。


「楓ッ!」


 我に返る。

 右方から巨大な影が迫っていた。

 必死に足を動かして、間に合わない。


 呑まれる──!


「《羽刃レアルク》」


 上空から人影が舞い降りた。

 とっさに体を引く。ファロウだった。


 彼は高速で回転した。羽に纏った黒爪が鋭利な刃と化して蛇のような生き物をスライスしていく。勢いは止まらない。ファロウは推進力を加えてそいつを両断した。命を絶つための狂ったワルツ。


「図鑑で見たことしかなかったが、実在するもんだな」


 死体を足蹴に、彼はいった。


「ツリミミズだ。群れを成す大型の肉食原生生物。気をつけねぇと地面ごとバックりいかれちまうぜ」

「ファロウさん、サジールが」

「なんとなく予想済みだっつの。で?」


 彼は敵の大軍を見渡した。


「どいつの腹におさまってるって?」


 僕らのすぐ傍にシロツキが着地した。


「護衛感謝します」

「俺は見張り役だっつの。こんなとこでこいつに死なれちゃ面白くねぇだろ?」

「死なせません」

「できると良いな」


 ファロウが鼻で笑うのにむっつりとした顔で応じ、シロツキは再び剣をたずさえた。


「サジールの救出に協力願います」

「おう。──コード008を提案」

「却下。自由には動けません」


 シロツキが僕を見た。ファロウが頷いた。


「了解。コード010を提案」

「了解」

「推定遂行時間は?」

「三十分というところでしょうか」

「甘いな。十五分で行くぜ」

「了解」


 機械的なやり取りが終わった。


 なにをするつもりなの。

 そう尋ねようとしたとき、二人は忽然こつぜんと姿を消していた。左右から迫るツリミミズが一匹ずつ輪切りと串刺しになっていた。僕の正面に新たなツリミミズが姿を現す。エサを求めて生物的にうねる。まるで柔軟な塔。そいつの口を避けようとしたとき、


「そこを動くな」

「私が必ず死なせない」


 いつの間にか、目前の二人が刃を構えていた。


 飛んで火にいる夏の虫。ツリミミズは双璧をなす黒爪の斬撃を受け、正面から真っ二つとなった。武器に付着した粘液を払い、二人は再び跳躍する。

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