32・国史と戦史
書簡室へ入ると、いくつかの視線がこっちを振り向いた。ハパウの香水をつけていないから人間の匂いがするのだろう。退室した方がいいかもしれない。でもシロツキは目を
「
「入って大丈夫なのかな」
「私がついている」
すました顔で歩いていく彼女がとても心強く、僕はおずおず頷いた。
書簡室は壁全体が本で埋め尽くされていた。部屋の中にも棚が無数並び、迷宮のような路地を生み出している。区画ごとに机と椅子が用意されていて、すべての机の上に白い布が広げられていた。
シロツキが案内してくれたのは
本棚に四方を囲まれた目立ちにくい椅子だった。
「ありがとう」
「構わない。それより、本を探しに行こう」
彼女が机の上に置いてあった布をひっくり返すと、真っ赤だった。
予約済み、もしくは使用中という意味かもしれないと思った。
本棚にはアルファベットに似た文字と番号が振られていた。シロツキはすいすいと棚の影をすり抜けて、《
「今の戦争について知りたいならこの本がいい」
「ずいぶん薄いね」
差し出されたそれはコンビニにある雑誌くらいのものだった。文庫本一つの厚みにすら到達していない。
「……植物が少ないせい、かな?」
「ああ、紙は貴重品だ。大事な記録のために使われる」
「でもサジールは報告書を書いていたけど」
「その紙、見た目は黄色っぽくなかったか? 女王への報告や手紙、雑務に使う媒体はもっぱら羊皮紙なんだ。これなら原生生物から確保できるからな」
「なるほど」
製本技術も日本とは違うらしく、分厚い紙を一つにまとめることは難しいみたいだった。周囲にある本はどれも、厚くて漫画一冊くらいのものだ。
「戦いの発端についてはその本で広く説明されている。ほかに何か知りたいことはあるか?」
「獣人の歴史についてとか、この国の歴史について知りたいかな」
シロツキは顎に手を当てて、こっちだといった。ついていくと、そのまま《
「ありがとう。それじゃ、シロツキも本を──」
「私は必要ない」
「でも、僕が呼んでいるあいだ暇だと思うよ。小説の一本くらい」
「紙媒体で物語が残せないんだ。この国に、前世で小説と呼ばれていたものは存在しない」
「そっか……じゃあ」
「一緒に読もう。わからないことがあれば何でも聞いてほしい」
「ありがとう。行こうか」
席に戻って「カルヴァにおける近年の戦史について」という本を開いた。左のページに非常に小さい字で年表がまとめられていて、右のページに、これまた小さい字で解説が載っていた。
史歴423年──
マーノスト国軍が《
「これは今から十年近くも前のことだ。
僕は謁見の間でシロツキが突き刺されたことを思いだした。彼女の胴体に巻かれた包帯はいまだ痛々しい。対峙したグレアは傷一つ追わずに彼女を無力化したというのに。
「手出しできないほど強いみたいだね」
彼女はきゅっと眉根を寄せた。
「悔しい限りだ。お前の傍であんな
「相手が強いってわかってたんでしょ? あんまり無理しないでよ。『僕のため』って言って怪我をされると、申し訳ないというか、悲しくなる」
彼女は困ったように笑った。
「……もうしない。理不尽な危険がお前を襲わない限り」
ほんとかな、と心配になりつつ、僕は次の項目に目を走らせた。
史歴423年──
マーノスト王国の軍部よりカルヴァへ書簡が届く。魔動石の採掘に全面的な協力をせよという高圧的な態度であった。また、対価としての交易に答える様子もなかった。これらのことから、ときの王──カルヴァ・フェル・アラドは協力を拒否。訪れた人間の通信使に丁重に断りの書簡を渡した。
……前世の知識が残っているせいで非常にわかりづらい。誰に文句を言ってもしょうがないのだけど。
気を取り直して口を開く。
「カルヴァ・フェル・アラドっていうのは、あの女王?」
「いや、女王の父親にあたるおかただ。女王はカルヴァ・フェル・ゼノビア」
「あのさ、僕の眼には女王陛下がかなり若いように見えるんだけど」
「ああ。二十五歳だな」
見た目には二十歳を軽く越したくらいだと思っていた。きつい視線や引き締まった表情の
「獣人の国では若い王へ世代を譲るのが当然なの?」
「いいや、ゼノビア陛下は望んで若い王になったんじゃない。当時
「……その、さ。あんまりこういうこと言っていいのかわからないんだけど。若い人に国って治められるものなのかな」
シロツキはちょっと黙った。
「即位した五年前から、現在も、陛下を否定的な眼で見る国民は少なくない。だけど、それを黙らせるくらいには手腕の成長もめざましい。──どちらにせよ、心労は並大抵のものではないだろうけれど」
「すごい人、なんだね」
彼女は頷いた。
僕が陛下の悩みの種になってしまっているのは棚に上げて、素直に感心してしまう。どれほど努力すれば国一つを治められるのだろう。
そのあともシロツキに解説を求めつつ戦史を学んだ。意外にすんなり理解できた。高校時代、歴史の授業はまったく頭に入ってこなかったのに。
きっと他人事じゃないからだ。この世界を知るために、あらゆる過去は学んで損はない。
現在の戦争の原因は魔動石を巡って起こったものらしい。
なんとなく石油という単語が思い浮かんだ。
そんなものがここにあるかは別として。
驚いたのは、「国史──カルヴァの成り立ち」という本を読んだ時だった。
獣人の国はここだけではなく、世界各地に点在しているらしい。種族の壁を理由に人間から迫害された歴史のせいで、多くは国の
「そういえば、もうすぐ《
「セレム?」
シロツキはページをめくり、国の王たちが一堂に会している絵を指さした。
「獣人の長たちの会合だ。情報の交換や交易、その他人間への対応策を共有する会議のようなもので、カルヴァからはもちろんゼノビア陛下が出ることになる」
まあ。と彼女は続ける。
「人間を滅ぼそうという方針にならない限り、私たちにはあまり関係のない話だ」
「不穏だね」
それってけっこうありえることなんじゃ?
「ところがそうでもないんだぞ」
シロツキは静かに口端を持ち上げた。
「人間同士が領地や資源、権威を巡って戦争するように、獣人もみんな仲良しというわけでもない。戦争になった事例こそないが、書簡の上で、口頭で牽制し合うなどしょっちゅうだと聞く」
「どちらにせよやっぱり不穏だ」
「そうかもしれない」
僕はシロツキと忍び笑いをこぼす。笑ってる場合じゃないんだけれど。
どこの世界でも国っていうものがやることは一緒らしい。
統治と戦争だ。
なんだかな、と思った。
この世界に住んでいるのが獣人だけなら平和だったのかも、なんて考えてもいたのに。
時計が低く鳴った。短針と長針が上を向いて重なっている。
「昼食を摂ろう」
シロツキの声で立ち上がって、僕らは本を元の場所に戻しに行った。この書簡室で貸し出しもしてくれるみたいだった。でも人間相手じゃいい顔をされないだろう。部屋を出るとき、背中にいくつもの視線を感じた。
一度部屋に戻って
「何か食べたいものはあるか?」
路地から表通りに差し掛かって、シロツキが言った。
「特にないかな。この国でよく食べられているモノを知らないから」
「そうか。じゃあ、魚と肉ならどちらが好みだ」
「魚があるの?」
シロツキがこくんと弾むように頷く。
「湖の氷の下で育ったいい奴がある」
「それにしようかな」
「焼いたもの、煮たもの、どっちがいい」
続けてころりと首を傾げる。
「焼きにしようかな……ところでなんでそんなに楽しそうなの」
「お前と食卓を共にするのがちょっとした夢だったんだ」
「……そう」
シロツキの微笑はわかりにくかったけど、僕の心臓を跳ねさせるには十分だった。ある種、神秘的なほど不可思議に注がれる親愛の情。嬉しいと思った。
「ここで待っててくれ。行ってくる」
振り向きがちに手を振る彼女は、友達を待たせる無邪気な女の子のようだった。
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