31・二人の朝


 僕はシロツキに手を伸ばした。撫でようとして、やっぱり思いとどまる。人間の姿の彼女が年ごろの、しかも美しい女性の姿だったことを思い出したから。不用意に触れるのはどうにも失礼な気がした。


 宙に浮かべた左手が行き場をなくす。

 仕方なく、そっと膝の上に下ろした。


 自分が飼っていた猫すら満足に撫でられない。百本くらいの糸が絡み合ったような複雑な感情。シロツキは、いったいなんなんだろう。僕の愛猫? それとも生き返らせてくれた恩人? 家族? どれも正しいように思える。でも今の関係を言い表すにはどうにも足りない。


「撫でてくれないのか」


 シロツキがむくりと起き上がるので驚いた。猫の姿でも人間のときの声は出せるみたいだ。


「起きていたの?」

「ああ。布団が動く気配で」

「ごめん」

「むしろありがたいくらいだ。こうしてかえでと話す時間が取れた」


 シロツキはベッドの上で行儀よく座った。


 僕はカーテンの隙間からカルヴァの街並みを見下ろしながら胡坐あぐらをかいて、かけ布団を自分の体に巻き付けた。こうも温かいのは、やはりシロツキが体温を注いでいてくれたおかげだろう。


「目が腫れている」とシロツキが言った。「何かあったか?」

「ちょっとね」

「……つらいことか」

「ううん。むしろ幸せですらあったよ」


 首をかしげる愛猫に僕は笑いかけた。


沙那さなの夢を見たんだ。あの家で、十九歳の誕生日を祝ってくれた」

「……」


 シロツキが瞼を閉じた。猫の姿だから表情がわからない。なんとなく寂しげな雰囲気だけが伝わってきた。


「僕のケーキに乗ってたイチゴをあげたら、すごく喜んでさ」

「想像がつく。沙那は甘いものが好きだったから」

「うん」

「楓、覚えているか?」

「なにを?」

「沙那が一メートルくらいのロールケーキを買って帰ってきたこと」

「あったね、そんなことも」


 思わず笑ってしまう。


「けっきょく食べきれなくて、しばらく朝ごはんがケーキだった」

「沙那が私にも『食べて』って言ってきたんだ。猫の体にはあんまりよくなさそうだったから、食べなかったが」

「あいつそんなことしてたのか……」


 僕らは声を潜めて笑い合った。


「『甘いものはもういらない』とか言ってたくせに、ロールケーキがなくなった次の日にシュークリームを買ってきたのにはさすがに驚いたよ。なんの当てつけかと思った」

「『お詫び』と言っていたな。むしろ甘みの追撃だった」


 掘り返せば掘り返しただけ、沙那の話は尽きない。甘いものがらみの失敗はいくらでも出てくる。こういう記憶はたいてい思いだすと辛くなる。でも今はシロツキと共有できるのが嬉しかった。


 冷たい空気が僕の頬や耳を凍てつかせようとしている。カルヴァの朝はひどく寒かった。僕は掛け布団に顔をうずめた。


「寒いね」

「そうか。人間の体にはそうかもしれない」


 そう言ってシロツキはかけ布団の中に忍び込んできた。ごそごそと僕の胡坐あぐらの上に位置どる。何をしているのかと布団を開いたとき、ほっそりした腕がにゅっとこちらに突き出された。


「っわ!」


 首の後ろへ彼女のかいなが回る。包まれるような体勢で、知らぬ間に僕は抱きすくめられていた。


 否応なく感ぜられる温もりの香り。薄い部屋着越しに、シロツキの豊かな柔肌が胸の上で潰れる。胸元へ視線を落としそうになる。慌てて両手を背後につく。窓の方へ顔をそむけた。


「温かいな」


 僕の些細ささいな努力もお構いなし。シロツキは僕の肩に頭を預け、首同士をくっつける。全身が柔らかくて、なんというか、戸惑いの種だ。凍り付いた皮膚が溶かされているようななまめかしい錯覚を抱く。


「……あのさシロツキ」

「ん?」

「その……くっつきすぎじゃないかな?」

「嫌だったか」

「嫌じゃないんだけど、その」


 シロツキが怪訝けげんそうに僕の眼をのぞき込む。瞳に移り込んだ僕は、電気のついていない暗がりでもわかるほど赤くなっていた。


「女性の体をむやみに押し付けられるのは、ちょっと」


 ──困る。


 シロツキがぎょっと目をむいた。腕を外して後ろに飛びのき、どこからか現れた黒爪で全身をぴったりと覆う。


「あの、すまない、私は、えと……」

「ううん、あの、僕の方こそ……」

「い、いや、楓は悪くない。私が、配慮が足らなかったんだ、だから、その」


 いたたまれない空気に、僕らは黙り込んだ。


 ちらとシロツキを伺えば、彼女も耳まで赤くして視線を落としている。病的なまでに白い肌を染める血色。場違いにも綺麗だと思った。


 耳鳴りがするほどの静けさの中。シロツキがくれた体温は徐々にいなくなっていく。それを寂しいと感じる余裕が戻ってきたころ、彼女はぽつりとつぶやいた。


「私を女として扱うとは思わなかった」

「前世では飼い主とペットだったけど、今は対等というか……どうみたって人間だからさ」

「そうなのか。あ、いや、そうだな……」


 シロツキがむつかしい顔で言った。


「撫でてくれないのはそれでか」

「えっと、うん」

「……触れることすらやめた方がいいのか? あったはずのつながりがなくなってしまうのは、すこし寂しい」


 懇願こんがんするような視線を向けられれば嫌とは言えない。実際シロツキに触れられるのを嬉しいと思う自分がいるのだ。一人で暮らしていた前世では得られなかった他者の体温に、心臓が跳ねている。


 でも同時に『もっと』と渇望してしまう。シロツキに触れたいと願ってしまう。それは僕が孤独で寂しいからだ。シロツキは優しく受け止めてくれるかもしれない。だからこそ、欲望をそのままぶつけるのは嫌だった。独りよがりに甘えたくはない。


「触れるのは問題ないよ」

「どうにも適度な距離感がわからないな」


 シロツキは白い髪をくしゃりと掻いた。それから思いついたようにかけ布団の端を掴んだ。シロツキが隣に座る。僕らは一つの布団を共有した。壁にもたれかかって、肩に触れる体温に意識を奪われながら。


「これなら、いいか」

「うん。暖かいね」

「ああ」


 互いにしばらく黙ったままだった。どこかで窓を開ける音がした。国の住人が起きたのだろう。物音と呼吸、心音。そんな沈黙の中で脳がゆるやかに働き始める。静けさに息を潜めたまま、僕は尋ねた。


「シロツキ。僕をどうしたいの?」

「どうとは?」

「ゼスティシェに──カルヴァの麓の村に行っているあいだ何度も考えたんだ。どうしてシロツキは僕を生き返らせたんだろうって。間接的とはいえ、僕はシロツキを事故に巻き込んでしまった。恨まれる覚えはあるんだけど、こうして優しくしてもらう覚えがなくて」


 シロツキはむっとした。


「楓は、ばかだな」

「……サジールの口癖がうつったみたい」

「だって、楓がばかだからだ」


 かわいらしくとがらせた口を引っ込めて、彼女は部屋の薄明りを見上げた。


「不幸に身を落とした誰かを幸せにしたいと願うことが、そんなに不思議なのか?」

「……でも、僕は」

「事故を起こしたのは、たしかによくなかった。だが、そこに至るほどつらかったのを私は知っている。責める気はない」


 左手の甲に体温が重なる。見ると、シロツキが上から握ってくれていた。僕はとても単純らしい。手を握られるだけで信じられないほど心が安らいだ。


「死にそうなところを救ってくれて、沙那と二人で私を愛してくれた。その恩を返すのがそんなに不思議か? 私は、楓を幸せにしたくて生き返らせたんだ」


 彼女は少し寂しそうな顔をした。


「結果的に、危険にさらしてばかりなのは、申し訳ない。ごめんなさい。人間と獣人、種族のみぞがこんなにも深かったのは予想外だった」

「ずっと疑ってたんだ。事故に巻き込んだ仕返しのために生き返らせたんじゃないかって」

「そんなこと……ッ!」

「ほら、サジールがそうだったから」

「……サジールはサジールで、辛い運命を背負ってる。あんまり責めないであげてほしい」

「うん。わかってる」


 シロツキは怒らせた肩を落ち着けた。

 僕はそれを見届けた。


「二人はどういう関係なの?」

「この世界に生まれ変わってからの幼馴染であり、親友だ。かなり前の話だが、人間がカルヴァの山脈に火薬を仕掛けたことがあったんだ。この国の天井が少し崩れて、サジールの家はちょうど真下にあった。私はそのときに黒爪の扱い方を学んでいて、危うかったけれど、助けることができた。そこから口をきくようになった」

「僕を生き返らせるために脅したって聞いたけど……」

「『脅した』というのは、その、私が睨んだりしていたのがそう受け取られてしまったんだと思う」

「直接危害を加えることを暗示したりは」

「してない。誓ってもいい」

「……そっか」


 幼馴染と聞いて、一気に納得がいった。近くにいたからこそ、サジールはシロツキの強さを知っている。いざというときに実は衝動的な行動に出てしまうもろさも。自分がシロツキのお願いを聞かなかったら、シロツキはどんな策に出るかわからない。だからサジールは僕を生き返らせることに協力していたのだろう。やっぱり面倒見がいいというか。


「楓」


 シロツキが呼んだ。


「うん」

「どうしてマーノストに?」

「人間の国へ行くチャンスをもらって、それでもカルヴァに戻ってくれば、女王も信用してくれるんじゃないかと思って」

「そうか、それなら」

「というのは表向きでね。ゼスティシェの村長に、人間と獣人について見分を広めるならその国へ行ってみるのがいいって言われたんだ。僕にはほかに目的もないし、戦争のことも知りたいから」

「戦争の事だったら、私がいくらでも教えられるのに」

「もちろんシロツキの情報も頼りにしてる。でも、人間側の意見は当事者の様子を見ないとわからないと思うんだ」

「……」


 シロツキはまだ納得いかない様子で、それでも否定しないでいてくれた。


 窓の外、街並みの中で一軒の家がカンテラの灯りをともした。それを皮切りに二つ、三つ、光が生まれる。カルヴァの夜明けは非常に静かだった。広大な山脈の地下、広い国の、多くの建物の中の一つ、さらにその一室。


 シロツキと二人で夜明けを眺める時間は穏やかで、眠りに落ちる直前の心地よさがずっと続いているようだった。何も知らなかった昨日が去って、不確定な明日が訪れようとしている。その狭間はざま


 夜明けがずっと続けばいいと思った。この時間が永久に続けばいいと思った。そんなことはありえなかった。夜は明ける。明日が今日になる。歩き出さなきゃいけない時が必ず来る。不安だった。


 僕は左手を上に向けた。

 シロツキの手を柔く握り返した。

 彼女は小さく微笑んだ。


「──月がなくなるまでは、せめて」


 シロツキが僕の肩に寄り掛かる。


「……うん」


 国の中からは見えない空を思う。

 いずれ月は陽の光にかすむだろう。


 そのまま、僕らは夜明けまで手をつないで寄り添っていた。






 建物の外が騒がしくなり、第十二部隊ヒルノートの病院の中でもせわしない足音が響くころ、部屋にサジールがやって来た。そのころにはシロツキも僕も身なりを整えていた。


「よう」

「うん。おはようサジール」

「戦争のことを知りたいって言ってたろ。この建物に書簡室しょかんしつがある。歴史的なことはそこで勉強できるから、興味があったら使え」

「わざわざそれを言いに来てくれたの?」

「仕方なくだ。あたしが言わなきゃ教えてくれる奴がいないだろ」


 違いない。僕は頷く。

 サジールが懐中時計を取り出して顔をしかめ、シロツキが腕を組んだ。


「急いでいるようだけど」

「ああ。見回りに出てた第七部隊が何者かから攻撃をうけたらしい。被害者八名。あたしも手術班として仕事だ」

「怪我の深さは?」

「まだ患者を診てないからわからない。だけど、縫合ほうごう処置が必要なくらいだ。もしかしたら、割と大きな怪我かもしれない」


 獣人も大きな怪我を負うことがあるのだろうか。シロツキやファロウの強さを見るに、人間が到達できるレベルなどとうに超越ちょうえつしていると思うのだが。


「どうやって怪我を?」

「さぁな」とサジール。「敵対者の姿は誰も見てないって話だ。武器も、なにに攻撃されたかも不明。こりゃちょっとした事件かも……悪い。時間だ」


 サジールは部屋を出て廊下を走っていった。帰って来たばかりだというのに忙しそうだ。疲労で倒れてしまわないか心配になる。


「楓。書簡室へ行ってみるか?」

「……うん」


 サジールの方が気がかりだったが、僕が気にしてもしょうがないことだ。医療現場におもむいたってできることはないのだから。むしろ人間の存在はいらない混乱を招くだろう。


 僕はシロツキの案内で建物の二階──書簡室へ向かった。

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