間章

30・夢、十九歳の誕生日



 ──誕生日おめでとう。


「え……」


 振り返る。

 パンッ。火薬が小さく爆ぜる音。

 同時に、放物線を描いた色とりどりのテープが眼前に飛びだしてくる。びっくりして瞼が勝手に閉じた。


「驚いた?」


 声が耳に届いた瞬間、僕は泣きそうになる。それはずっと聞きたかった声。心の底からもう一度と願った声。

 恐る恐る目を開けた。火薬の匂いを振りまく空のクラッカーを持って、沙那さながそこに立っていた。「にしし」というわざとらしい笑み。いつものサイドテールが揺れている。


「おまぬけづらちょうだいしました」

「ま、まぬけづら?」


 思わず鏡を見ると、僕は口をぽかんと開けて頬を引きつらせていた。たしかに間抜けかも。というか、問題はそこじゃなくて。


 僕が立っているのは自宅だった。家族四人で死ぬまで過ごしたあの家だ。両親の仏壇があって、部屋の隅にはポプラの鉢植えがあって、なにもかも覚えている通り。縁側えんがわに近寄って窓を開けると、庭の植物たちは深く紅葉している。二度と見られないと思っていた。この景色。


「なにやってんの? 早く、こっち」


 振り返れば、机の上にはバースデーケーキが置かれていた。二人用の小さなショートケーキだ。黒いチョコプレートに白字で『カエデ、19歳の誕生日おめでとう』の文字。ありえない出来事に、僕は重ねて驚いた。


 沙那は僕が十九歳になる前に亡くなった。八月十一日に。その年の誕生日、僕は自らを祝うこともせず家の中で一人引きこもっていた。だから、この状況はありえない。


「座って座って」

「あ、うん」


 背中を押されて座卓につく。すすめられるままショートケーキを頬張っても、甘いような、そうでないような妙な感触が残るだけだ。僕は机の下で自分の手をつねった。痛みがほとんどない。夢に違いなかった。


「十九歳になったわけですが、なにか抱負ほうふは?」

「……そうだね」


 僕は沙那を見た。フォークで丁寧にスポンジを切り崩している。イチゴが落ちないようバランスを取ることに全神経を集中している。フォークが重りになっている生クリームをそっと掬い上げて、沙那の口へ運んだ。


「ね、抱負は?」


 そう言ってまっすぐ見てくる。僕は泣きそうで、でも、夢の中とはいえ情けないところを見せたくなくって。自分のショートケーキに乗っているイチゴを沙那のケーキの上に移した。


「くれるの!?」

「うん。こっちにはチョコプレートがあるし」

「後で文句言ったりしない?」

「しないよ」

「後でプリンを要求したり」

「それは沙那のことだろ……」


 僕がスーパーに行くと沙那は必ず甘味を要求してくるのだ。ちなみに、「太るぞ」と指摘したら要求頻度が半減した。


「じゃあもーらった」


 沙那はイチゴを食べて幸せそうに頬を抑えた。


「ケーキは最高ですなぁ」

「そう?」

「毎日誰かの誕生日ならいいのに」

「出費がバカにならないし、本当に太るよ」

「う……。じゃあ、一年に数回で我慢します」


 太る、太る、とはいうものの、沙那は肥満体系ではない。と僕は思っている。本当のことはわからない。兄妹きょうだいとはいえ裸を見せ合うことはないので、もしかしたら着痩せしているだけかもしれない。


「いま失礼なこと考えたでしょ」


 僕は苦笑した。思考が伝わってしまったように見えるのは、これが夢の中だからか。


「シロツキにひっかいてもらうよ」


 沙那が「ねー」と縁側に向けて声をかける。するとそこにシロツキがいた。ちゃんと四足歩行の猫の姿だ。沙那はトコトコと歩み寄るシロツキを抱き上げた。前足を掴んで僕に向けて振る。


「楓は失礼な人間だニャー」


 アテレコしたあとで照れくさそうに笑う彼女。応えるように鳴くシロツキ。

 僕はついに何も言えなくなった。間欠泉のように吹きあがった寂しさが僕の体を突き動かす。机を回り込んで、膝立ちのままシロツキごと妹を抱きしめた。


「ごめん。ごめん、沙那。──ごめん」


 沙那はそのままの姿勢で少しだけうつむいた。


「謝ることじゃないでしょ。誰も悪くなかったんだよ」

「僕は馬鹿みたいに生きながらえてる。一度は死ぬことを選んで、そのくせシロツキに迷惑をかけてまで。──生きてるくせに何もわからないんだ。いなくなった沙那たちに顔向けできないほどみっともない時間を送ったんだ」

「わたしが楓でも、きっとそうだったよ」

「でも」

「聞いて」


 沙那がそっとシロツキを降ろした。そのまま両腕が僕の背中を撫でる。耐えがたい温もりだった。僕の視界を涙が埋め尽くした。


「わからなくていいんだよ。これからなにをすればいいかなんて、わかっている人の方がきっと少ない。なにもできなかった昔を嘆くのは違う。なにが正解かわからない未来を怖がるのも違う。幸せになれるように、せいいっぱいできることをすればいいよ」


 それは夢に違いなかった。都合のいい優しさで満ちた空間だった。沙那が言っていることはきっと、僕の心がそう言ってほしいと望んでいることに過ぎない。それでも取り戻した刹那の温もりは、手放すにはあまりにも優しかった。


 涙が頬を伝って、ひたすらに沙那の肩を濡らしていた。




     *




 目が覚めると見慣れない天井があった。獣人の国カルヴァの、第十二医療部隊ヒルノートの、寄宿舎の、一室。

 部屋の電気は消えていた。外からの物音もほとんどしない。静まり返った国の中。獣人はまだ寝ている時間帯なのだろう。


 僕は体を起こした。夢の中の涙が現実に侵食していた。耳の方に流れた雫で髪や枕が湿っている。零れたのはため息。まさか死んでしまった妹に孤独の行き場所を求めるなんて。


 少し頭を冷やさないと。

 僕は掛け布団をまくった。


「……」


 猫の姿の、シロツキがそこに丸まっていた。

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