27・行方と医術、あるいは魔法
「ユト! ミラ!」
二人の名前を大きく唱えながら、村人たちはなおも森の奥へ進む。声は木立の隙間に吸い込まれていった。返答はない。
太陽の位置がだんだん低くなっている。この世界に季節の概念があるとするなら今は冬か。陽も短い可能性がある。急がなきゃ。暗くなれば捜索は困難だ。危険も増す。
渋い顔で全方位を警戒していたサジールが、はっと正面に顔を向けた。
「ユトが近い、この先だ」
「原生生物は?」
「まだついてきてる。ユトも囲まれてるかも」
セージに聞こえないよう声を低くして彼女は言った。
「あたしの鼻が間違ってなかったら、ちょっとまずいぞ」
原生生物の種類のことを言っているのだろうか。だとしても、ここまで来て引き返すわけにはいかない。今一番危険なのはユト達なのだから。直接的ではないにしろ、彼らを危険に陥らせた原因の一端は僕たちにある。
「できる限り注意しよう」
サジールは緊張した面持ちで頷いた。
「いたぞっ!」
先頭の男の声が聞こえた。群衆がバラバラと隊列を崩して少年の元へ駆け寄っていく。そこは小さな池の
ユトとミラが根元に横たわっていた。遠くからでは
「あいつらっ」
「待て」
セージを引き留めて、サジールはナイフを構える。
「気配が近い。来るぞッ」
僕は右手にナイフを握りこんだ。セージは腰の矢筒から一本を取りだし、
その瞬間、ざざざ、と森全体を薙ぐような音が立った。木の枝の上に、雑草の中に、村人たちの向こうに……いたるところに見え隠れする小さなシルエット。一匹一匹の体長は人間の膝くらいしかない。でも問題はその数だ。いったい何匹いればこんな足音が立つ?
セージが叫んだ。
「武器を構えろッ!
後ろ側にいた何人かはその警告に慌てて得物を構える。が、ほとんどの村人にその警告は届かなかった。そうこうしているうちに原生生物が姿を現した。
サジールの読み通り、その原生生物は男たちを一斉に取り囲んだ。チクチクした紫色の体毛に覆われていて、一見ハリネズミのような生き物。しかしその口は大きく裂けていて、鋭い牙を覗かせている。凶悪な表情に拍車をかける額の一本角。とがった鼻──。小さな悪魔だと言われても疑わない。夢に出てきそうだ。
「
誰かが
僕とサジールは、セージが射った矢を追うように駆けだした。こちらに背を向けている
その形相。邪魔をするなと眉間にしわを寄せる憤怒。なんて人間的な表情をする生き物だろう。あまりの恐怖に震えが走る。
「ぼさっとすんな!」
サジールが僕の背後でナイフを振った。振り向くと、今まさに角で僕を突き刺そうとしていたグースが、串刺しになっている。
「麻痺毒だ。刺されたら動けなくなる。食われたくなきゃ殺せッ」
感謝を言っている暇はない。僕はサジールの叱責を自らへの気付け薬として得物を振った。頭上に影が差す。一匹の
「セージ!」
サジールが叫び、青年が歯を食いしばって弩を僕へ向ける。
「しゃがめッ!」
膝を折る。頭上を矢が通過する。近くの樹木に突き刺さった矢には、いましがた僕に飛び掛かろうとしていた
僕はお礼を言わなかった。言う暇なんかなかったし、セージもサジールもそれを理解しているとわかっていたから。
必死に
不思議だ。
そこにはただ、サジールとセージがいた。真横にいる彼女の、背後にいる彼の動きが手に取るように分かった。僕は足元の
ひたすらに不思議だった。
自分の半径数メートルを上から見下ろしているような感覚。自分が何をどうすればいいのか手に取るようにわかる。直観と呼ぶべきか。それとも集中と呼ぶべきか。原生生物との闘いには似つかわしくない謎の一体感があった。なんだろう。
ふと、サジールが僕を見ていることが分かった。彼女の集中の糸がわずかに途切れていることも同時に気がつく。振り向くと、サジールの異様なモノを見るような目が僕を迎えた。そんなのはどうでもよかった。僕はサジールの顔の横にナイフを突き出す。彼女の背後にいた
「サジール?」
音が、わっと戻ってくる。
村人たちが小さな的に苦戦している声がよく聞こえた。サジールも僕の顔の横にナイフを突き出した。同じように互いの背後を守った後で、彼女は「なんでもない」と言った。
足元に突進してくる一匹をブーツで蹴ッ飛ばして、僕らはもう
唐突に、苦悶の叫びが聞こえた。
「怪我人を抱えろッ」
リーダーの男が言った。
「正面を突破するぞ!」
誰かがユトとミラを抱えるのが見えた。
セージがこっちだと合図する。僕とサジールは突破口の左右にいる
「走れッ!」
サジールの合図で大人たちは動き出した。それに合わせて、木の上から様子を見守っていた
男たちはその場に膝をついた。三十人を超える捜索隊のうち、約半数が角で攻撃を受けたらしい。ある男の足はひどくはれ上がっていて、紫に変色していた。セージが駆け寄る。
「おい、大丈夫か!」
「感覚がねぇ……ちっとまずいな。もう、一生動かねぇかも」
「バカ言うな、毒を吸いだせば……」
セージが傷口に口を当てて血を吸い、吐き出す。しかし男の容体は変わらない。
「中和」
村人たちから離れた位置で、サジールがぽつりとつぶやいた。
「血を吸いだしても無駄だ。
「どうすればいい?」
「……ホツラの葉を大量に集めて、それを煮詰める。あとは患部にほど近い血管に注射」
そう言ったきり動き出さないサジール。知識も技術も持ち合わせているのは彼女しかいないのに。
「サジール」
「……あたしに人間を助けろって言うのかよ」
「もうすでに助けてる。刃物を持って立ち向かった時点で」
「医療と戦いじゃ話は別だ。あたしは、」
彼女は拳を握りしめ、うつむいた。
「あたしは、人間なんか嫌いで……あたしが医療を学んだのは、獣人を助けるためだ。この力は、だって……」
「誰かっ! 手が空いてるやつはついてこい! 台車が数台必要だ」
男が叫んで、数人を引き連れて村の方へ走っていく。毒に侵された患者を運ぶためだろう。残されたのは怪我人を守るための男たちと、動けない彼ら。助けない選択肢があってたまるか。
「彼らが一度だってサジールを傷つけた?」
「……そういう問題じゃ」
「ユト!」
セージの声に振り向くと、ユトが目を覚ましていた。右肩を角で深くやられたらしい。うなじまで肌の変色が広がり、今にも腐ってしまうのではないかと不安になる。傍にはユトと一緒にいた少女──ミラが目を覚まさない状態で横たわっている。こちらは頬をやられたらしく、ひどい傷だった。血と
僕とサジールが駆け寄ると、ユトはにっと笑った。左手を服の中に入れ、青い花がついた
「これで、足りる?」
「え」
その花はサジールに向けて差し出されていた。
「お医者さん、な、んでしょ、お姉ちゃん。足りないなら、なにか、ほかのモノでも返すから、お願いします」
少年はくしゃりと顔を歪めた。その眼から血色の涙が流れる。歓迎の果実をくれたのも、村を案内してくれたのも、すべては彼の善意だった。僕は何も返せていない。
「ミラ、を助、けて」
サジールが奥歯を噛みしめ、ユトの傍にしゃがんだ。
「医者がみんないい人だと思ってんなよ、ばか」
「サジールッ!」
聞いていられずに声を荒げる。しかし彼女はつづけた。少年の差し出すレヴィティナを受け取って。
「あたしはこれから悪い医者になるんだ。頼むから悪評を広めてくれるなよ」
少年の指がほどけるようにレヴィティナを手放す。驚いたことに、サジールはユトの頭を撫でた。
「確かに受け取った」
サジールは立ち上がると、深いため息をついた。
「今日起こることが、なかったことになりますように。──宴を始めようぜ。一昼夜眠れないだろうけどな」
サジールの指示は迅速だった。
台車に乗せた患者を村に連れ帰るなり、彼女はホツラの葉をむしって煮詰め始める。村の入口に待機させた患者の容体を自己申告でランクわけし、深手を負ったものから順に治療していくことになった。村人の中にはかなりの痛手の者もいたが、みな一様にユトとミラを先に治療してくれと言う。
サジールは二人を村長の家に連れていき、大掛かりな準備に取り掛かった。小屋から木箱を持ってくると、村の女性に火や熱湯を次々準備させた。
「お前はあたしの助手だ」
「何をすればいい?」
「両手がふさがるから、周辺のモノを取ってくれ」
サジールは最初に小さなナイフでミラの頬を
「全員外に出てろッ」
コル爺が声を荒げた。普段温厚な彼の予想外の怒声に、女性たちは慌てて家の戸を閉めた。
「悪い」
サジールが言った。
「こちらこそでな。すまない。この村には高度な腕を持った医者がおらなんだ。せめて自分は立ち会わせてもらう」
コル爺は少し離れて座り、サジールの手術を見守った。
切り開かれたミラの頬には膿がたまっていて、サジールは注射器のようなものでそれを吸いだした。それから、事前に煮詰めてあったホツラの抽出液を清浄な水と混ぜ、腫れた患部に徐々に注射していった。それが終わると、少女の頬を
ユトの方はさらに大がかりだった。毒の角が筋肉にまで到達していて、皮膚を切開して残った毒液を吸い出す必要があったからだ。それでもサジールはちょっとの乱れも見せない手際で彼を治療した。さっきと同じようにホツラの抽出液を注射してから、縫い合わせる。それで最後だった
サジールはふぅと息をつく。汗が目に入りそうになってる。両手が血まみれなので、手術中と同じように僕が手巾で拭った。
「今更なんだけど」
「おお」
「麻酔は要らなかったの?」
「麻痺毒が周辺組織の働きを弱めてたからな。むしろホツラを打ち込んでからの方が作業スピードを求められるんだ」
「そっか」
サジールは二人を安静にしておくこととコル爺に告げた。僕たちは小屋を出て、ほかの村人たちの治療に当たった。ユト達ほどの深手はなく、こっちは切開も必要なかった。
治療がぜんぶ終わったあとで、コル爺はサジールに何度も頭を下げた。彼女はそれをもじもじと受けながら、「だから人助けなんて柄じゃないんだ」と困り顔だった。
患者の中には高熱を出して寝込む者がいた。サジールはここまで来たらと、必要なことをほとんど一人でこなした。小屋に戻ってからも、これから継続的に治療が必要になるだろうユトについて、紙に書き残した。
「寝ないのか?」
布団の上に体を起こして、屋根の隙間から月を見ていると、サジールが言った。ユトの治療方法について書き終えたのだろう。削れて先が丸くなったペンをことんと置く。
「もう遅いのに」
「うん。ちょっと眠れなくって。サジールは?」
「まずは風呂だな」
彼女は伸びをした。すでに水を張ってあるので、あとは外から沸かすだけだ。
「僕が焚くよ」
「は?」
「いや、疲れただろうし」
「別にこの程度で……」
「僕がさせてほしいんだ。なんにもできなかったから」
「……」
サジールはじゃあ、と言って風呂に向かった。僕は外に出てぐるりと風呂の方へ回った。焚き木は充分。火をつけて十分もすれば、サジールが中から「いい感じだぞ」と言った。火を煽る手を止めて、月を見上げる。
藍色の空に浮かぶ真白。コタツの上で丸くなったシロツキを思い出す。彼女は目を覚ましただろうか。
この世界の僕には、帰るべき家がない。それってけっこう不安だ。足元がぐらついているみたいで。なにか目的がないと心を保つことすら難しい。当分のあいだ、僕が生きる目的はシロツキ任せになってしまいそうだった。
水音がして、意識を引き戻される。サジールが風呂に入ったのだろう。
「湯加減は?」
「ひょえっ!? あ、えと、あぁ……ちょっと熱いかも」
素っ頓狂な声。笑いをこらえつつ、薪を風呂の底から遠ざける。
しばらく静寂が続いた。名も知らない虫の声が響いている。ときおり水が跳ねる音がする。風が吹いて、肌の表面が冷えていく。
「なぁ」とサジールが言った。「誰にも言うなよ」
「人間を治療したこと?」
「……ああ」
「言わない。もしかしたらファロウには見られちゃったかもしれないけど」
「告げ口したらあいつはくそ野郎だ」
「あはは……本人に言ってやればいいよ」
サジールはむくれたように唸って、それから体を洗い始めた。僕は火が消えないように見守りながら、満天の星を眺めた。ぼうっとしているうちに、さっきのことを思いだした。
「戦っているときにさ」
サジールが動きを止めた。一瞬、音が完全にいなくなる。
「ときに?」
「不思議な感じがしたんだ。自分を遠くから見るみたいに、背中にも目がついたみたいに、周りのことが手に取るようにわかった。第六感みたいなやつなのかな。それとも──」
「あのさ」
「うん」
「それも、誰にも言うなよ」
「えっ」
「特に女王には」
どういうことだ。
「何か知ってるの?」
「……知ってると言えば知ってる。でも」
サジールはしばらく黙ってから、
「なんでもない」
「……答えられない?」
「ああ。たぶん、あたしの口から教えたら怒られる」
獣人に関係することなのだろうか。さっきのは、第六感や直観だと思っていた。でも、もしかしたら本能とも言い換えることができるかもしれない。生き物が自分の命を守るために発する、火事場のバカ力みたいなもの。だとしたら、あながち獣人と関係ないとは言えないのかも。彼らは生命力を駆使して黒爪を使うと言っていたのだから。
「どんな感覚だったんだ?」
サジールが言った。
「なんか、すごかったよ。うまく言えないけど、うん、すごかった。例えば」
「例えば?」
「……魔法って、ああいう感覚なのかな」
再び音が消えた。サジールが動きを止めたのだ。
そんなまさか。
そう思いつつ、どうにも落ち着いている自分がいる。そうか。あれが魔法なのか。納得に近い感覚。
「……誰にも言うなよ」
再び注意されて、僕の予想は確信に一歩踏み出した。
「うん」と僕は言った。
サジールが体を洗い流して、湯につかる音がした。
「ちょっとぬるくなってきた」
「はいはい」
薪を移動させて火を煽る。
振り向くと相変わらずの美しい夜空だった。
帰る日が近づいていた。
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