22・夜、川の畔、小屋から見える月


 村の中を適当に見て回り、昼を過ごした。夜になっても小屋へは戻らなかった。日が暮れてからは水路をさかのぼった位置にある川の畔でじっと座っていた。釣りのために設けられた──とユトが言っていた──桟橋に腰かけ、足元の水面をのぞき込む。深く緩やかな流れの中に、知らない顔があった。それは僕に違いなかった。


 風が吹く。さざ波が立つ。微細びさいな水しぶきが辺り一帯を湿らせていく。指先がかじかむ。でも戻る気にならない。サジールの怯えた目を思い出すと、どうにも。


 怖がらせてしまった。もとより人間が嫌いな彼女を、さらに。それは、僕が自分の家族について尋ねられるのと同じくらいの恐怖ではないだろうか。


 ため息が白く尾を引いて、やがて消える。


 いきなり鋭い冷たさが首筋を襲った。


「ッ……!」


 体ををすくめた拍子ひょうしに水に落ちそうになる。


「おっと」


 背後の声は僕の腕をつかみ、片手で引き揚げた。逆の手にナイフを持ってファロウが立っていた。


「どうして、ここに?」

「それはこっちのセリフだぜ。なんでこんな時間まで外に出てる」


 彼はナイフを液状化し、袖口の中に戻すと、少し離れて隣へ座った。


「サジールと……」


 言い淀む僕を、ファロウが笑う。


「なんだよ、喧嘩か?」

「いえ、言葉尻を捕えて僕が一方的に怒ってしまって」

「あんだけ悪態吐かれてたら怒りたくもなるだろ。むしろ今まで耐えていた方だと思うぜ、俺は」

「でも、仮にも助けてもらったのに」

「蘇生してもらった話か」


 律義なこった。

 寒さの中にひどく緊張感のない声音が響く。


「で、言葉尻っていうのは?」

「言いたくありません」


 即答すると、ファロウは意外そうな顔をした。


「……そうか。まぁ、男には言いたくないことの一つや二つあるもんだ」


 男だからどうこうと言う話ではないのだけれど。

 若干的外れな物言いに苦笑しながら、僕は言う。


「ファロウにも秘密があるんですか」

「そりゃあな。俺は謎多きクールな鷹だぜ」

「なるほど、クールですか」

「なんだよその顔。疑ってんのか? こう見えて俺はけっこうモテるんだ、ほんとさ」


 たしかにモテそうだ。人当たりのいい性格だし、いざというときは体を張ってくれる。女性ではないからわからないけど、異性から見たら理想なのかも。逆に女性からまったく相手にされていない彼も想像できてしまう。


「ありがとうございます。なんか元気出ました」

「おいおい、俺は冗談のつもりで言ったんじゃねぇぞ」


 ファロウが不服そうに言った。


かえではどうなんだよ。人間にはモテるのか?」

「前世で彼女がいたことは二回くらいありますけど……」

「告白したのか?」

「いえ、向こうから付き合わないかって。二回とも長くは続かなかったけど」

「どうして?」

「『女心をわかってない』って言われました。付き合い始めてからも態度を変えなかったのが悪かったのかな? よくわかりません」

「はっは、甘ちゃんめ」

「えっ?」

「できる男はな、普段のしぐさや態度の隙間から『お前がナンバーワンだ』って気持ちを滲ませるモンなんだよ。ただし、愛情は与えすぎるとハードルが高くなる」


 そこの駆け引きこそ恋愛の醍醐味ってやつさ。

 ファロウがくつくつ笑う。


「そっちはこれまでに何人と付き合ったことがあるんです?」

「知りたいか?」

「興味はありますね」

「秘密だ」

「ここまで引っ張っておいて?」


 彼は小さく声をあげながら笑った。僕も同じように肩を震わせる。


 サジールを一方的に責めてしまった後悔が、こんな単純なことでゆっくり癒えていく。ここに彼が来てくれてよかったと思った。


「ファロウさん」

「おう、どうした」

「サジールとどうやって仲直りしたらいいと思います?」

「土下座して踏まれてくればいいんじゃないか?」

「ヴァイオレンス……?」

「ありえそうなのが怖いところだ」


 獣人の力で背骨や頭蓋を踏み抜かれたらシャレにならない。それ以外で、と言うと、ファロウはうーんと空を見上げた。僕も同じようにして、あ、と声が漏れた


 ずっとうつむいていたので気が付かなかった。澄んだ空気の向こうに、東京の街灯りさえかすむほどの星々が眩く浮かんでいる。パラパラと空が降ってくるような錯覚に襲われるほど広大な。


 月は欠けていた。満月にはあと五日ほど足りないだろうか。それにしても大きいことには変わりない。


「仲直りする必要あるか?」ファロウが言った。「っていうかそもそも、仲直りするほど仲良かったか? お前ら」

「……言われてみれば」

「だろ? むしろ一から関係を構築する方法を考えた方がいいんじゃないか?」

「でも、会話さえ難しくて」

「これだから甘ちゃんは」


 彼ははぁ、と首をすくめた。


「男女の喧嘩で女性側に謝らせるのはご法度はっとだぜ。たとえ無視されようと、あきらめずに話しかけろ。しがみついてでも」


 つまり根性論だった。というかしがみついたらむしろ踏まれそうだ。


「それしかない、ですかね」

「ああ。サジールだってもしかしたら後悔してるかもしれねぇ。でもあいつはプライドが高そうだからな。お前があいつに『許させる』ことが鍵だ」

「なんか、それっぽいですね」

「だから俺はモテるんだっつーの」


 なんだかそんな気がしてくる。

 ファロウはしばらくして、「そろそろ戻れよ?」と言った。


「冷えて来たぜ。風邪をひいたらことだからな」

「はい。ありがとうございます」

「どういたしまして。頑張れ、甘ちゃん」


 彼は羽を広げて、星の中のシルエットとなり、去った。






 小屋に戻ると、とっくに灯りは消えていた。サジールは部屋の隅の布団にくるまったまま静かな寝息を立てている。炉には鍋がつるされていて、中に肉の余りを使った煮物が入っていた。傍に紙が置いてあって、屋根のすきまから差し込む月光に透かすと、サジールの筆跡が並んでいた。


森帝鳥アリフメデュー香辛料煮フォーレ・コニ。 温めればそのまま食える』


 明確に残された彼女からの言葉だった。不思議なもので、いまや彼女の言葉に感じた憎しみはすっかり消え去っていた。


「……ありがとう」


 僕は昨日村人に渡された火打石を使った。サジールがやっていたのを見よう見まねで真似すると、意外なことにすぐ火がついた。ぱちぱちと、まきがはぜる。しばらくして鍋が煮えた。


 肉を口に含む。香辛料の辛みがつんと鼻に抜ける。甘じょっぱい煮汁が絡んでおいしかった。夢中で食べているうちに、薪が大きく爆ぜた。


 パチン、と。部屋に反響する。

 サジールが驚いた顔でがばっと起き上がった。


「……お、おはよう。夜、だけど」


 どうしてか、彼女はほっと息をついて、前髪で目を隠すように手ぐしでいた。黙ったまま壁に寄り掛かって天井を見上げる琥珀こはくの眼。


 そのまま煮物を食べ続けるのも躊躇ためらわれて、僕はじっと火を見つめた。


「あのさ、サジール」


 彼女は答えない。それでも続ける。


「明日から、この小屋の修理をしようと思うんだ」

「は?」


 予想外だったらしく、彼女は僕を見る。


「いつかこの村に住人が増えたときには、役に立つかもしれない。それに、感謝の気持ちもあるから」

「……」


 サジールはしばらく黙っていた。そのあとで、ぼそっと「好きにしろよ」と言った。投げやりではなく、グラスをそっと置くような呟きだった。


「……うん」


 食事を終えて、口をゆすぐ。

 布団に入ってじっとしていると、サジールも同じように布団に潜り込む音が聞こえた。


「なぁ……」


 彼女が自分から話しかけてきたことに驚いて、僕は振り向く。まだ燃えている薪、炉の向こう側で、サジールがこっちを伺っていた。


「悪かったよ」


 重ねられた驚愕に言葉も出なかった。心の中で思ったのは、ファロウはやっぱりモテないかもしれない、だった。サジールはプライドが高いんじゃなかったのか。


「ふ」

「なに笑ってんだよ。気持ちわりぃな」

「なんでもない。さっきちょっとおかしなことがあっただけ」


 サジールは黙った。


「僕の方こそごめん。サジールに言ってもしょうがないことだったのに、その場の勢いに任せて怒ってしまった」

「これで手打ちだ。今後謝るな」

「……うん。ありがとう」

「だー、そういうのをやめろって」


 こういう繊細な空気が気持ち悪いのだろう。彼女は布団の中に顔まで隠れた。

 カメみたいだ。


 またしばらくして、布団ガメから声が発された。


「お前、前世でなにがあったんだ」

「え」

「何があったら、自分で死んでみようかなんて思うんだ。何があったらシロツキがあんな風にお前に執心するんだ」


 答えてもよかったけれど、ちょっとしたいたずら心が立ち上がる。


「人に尋ねるときは自分からって、この世界では言わない?」

「っ……調子に乗んな」


 サジールがぐるっと唸る。きっと僕から話したほうが、彼女も対価として話しやすいだろう。ほら、彼女も迷ったようにうんうんうなってる。


 そう思っていたけれど、彼女なりに昼間のことを反省しているのか、僕が口を開く前に、サジールは自分から「仕方なくだぞ?」と話し始めた。


「あたしはある王国の生まれだった」


 自身の前世について。

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