17・スパイ


 翌朝、空気の冷たさで目を覚ました。

 ベッドに座ってしばらく待っていると、ファロウさんが姿を現した。


「おはようございます」

「ああ、おはようさん。目覚めはどうだい」

「そこそこ、ですね。意外によく眠れました」

「そうらしいな。元気な面してるよ。──まずはこれを着ろ」


 渡されたのはセーターに似た服と、丈の長いズボン。どちらも黒で、今着ている軍服より圧倒的に目立たない色だ。着替え終わってからファロウさんを呼ぶと、「似合うな、色男」と冗談じみた声で言われた。


「さて、二度目の謁見と行こうぜ。ついてきな」


 檻が開けられた。手錠も目隠しもされないまま牢を出る。そのまま長い廊下を抜け、水力昇降機ボニーヴィータでカルヴァの街へ足を踏み出す。

まだ早い時間なのか、街を歩いている人はそう多くなかった。その代わり、屋根の上のいたるところに鳥の獣人が止まっている。フクロウだろうか。


「彼らは?」

「見張りだよ。お前がもしも逃げ出した時は、あいつら第七部隊にどこまでも追跡される。ま、そんな心配ないだろうけど」


 僕は頷く。逃げたところで行く当てもないのだから。


 そのまま歩いていくと、やがてメインストリートに出た。左右には石造りの店が立ち並ぶ。豪奢ごうしゃな見た目とは裏腹に、やけに無機質さを感じる。どうしてかと考えて、僕はようやく昨日から感じていた違和感の正体に気が付いた。


「この国には木製のモノがほとんどありませんね」

「お、鋭いな」


 ファロウさんが軽い調子で言う。


「カルヴァは寒さが厳しい山の中にあって、材木に使える柔軟な木はほとんど育たない。その代わり、鉱山資源は豊富だ。鉄、魔動石まどうせき、その他もろもろ。そう言う物でごまかしながらまかなってるわけ」

「魔動石っていうのは?」

「死んだ生き物の生命力が、長い年月をかけて凝固したモンだよ。動力を取り出したり、魔法の媒介にしたり、用途はいろいろ」


 不思議な石。と覚えるしかなさそうだった。


「山の下には降りられないんですか。山脈の麓なら、もう少し温暖なんじゃ?」

「それができたら苦労しねぇ」


 ファロウさんはうんざりした顔で言う。


「この山脈の鉱山資源を求めて、人間が四方からせめて来るんだよ。植林場なんざ作ってもすぐに壊されちまう。それを守ってるあいだに別の方向から人間が攻めてきたらヤバイ。要するに、作るメリットが少ないんだ」


 この国には草食系の獣人もいるのではないか。怪訝な顔をした僕に、ファロウさんが言う。


「食料の生産に関しては最低限の農場が試作されてる。生産量は少ないし、味もいまいちだけどな」

「国民全員分賄えているんですか?」

「いいや」


 彼は少し寂しそうに言った。


「行き届いていないとこもある。山脈周辺に群生する原生生物の肉で何とか食いつないではいるが……果物の味を知らねぇで育つ子供もいるくらいだ」


 深刻な顔。それほど切羽詰まっている状況なのだろうか。原生生物について尋ねようとして、先に彼が口を開いた。


「見えて来たぞ」


 正面を見ると、白い石材の円筒が地面から国の天井まで一直線に伸びている。


「柱ですか」

「兼、通路だな」


 近づけば近づくほどその巨大さが見て取れる。てっぺんを見上げようとすると首が痛くなるほどだ。柱の足元に入口がある。ファロウさんに続いて中に入ると、もはや見慣れた水力昇降機ボニーヴィータが併設されている。


 上昇してしばらくすると、回廊というのがふさわしい場所に出た。教会のようなおごそかな雰囲気が漂っている。街の喧騒は一つも聞こえない。


 道は途中いくつも枝分かれしていて、案内なしではとても歩けそうになかった。道中、昨日王女に謁見したときの門を見つけた。僕が気づいていなかっただけでここに来るのは二回目なのだろう。


 けれど今日の行き先は別らしい。ファロウさんは幾度か道を曲がり、たどり着いた扉の前でふと息をつく。ひょうひょうとした雰囲気がすっかりなりを潜めた。コンコン、と。二度のノック。


「入れ」


 グレアの声がした。僕たちが揃って入室すると、第三部隊の獣人たちと女王が机を囲んで立っていた。誰も何も言わないので、なにか言うべきことはあったかと、僕は頭を巡らせる。


「えっと、おはようございます」

「おはよ」


 ぶっきらぼうな声が答えた。鹿らしい角を生やした、気だるげな女性だった。そのほかは誰も答えないままだ。心理的な壁の厚さを再確認する。

 女王が腕を組んでこっちを睨んだ。


「人間」

「はい」

「スパイになれ」

「は、──え?」

「命はとらないでおいてやる。その代わり、お前は我が国のスパイとして、人間側の情勢を報告してもらう」

「その……」

「できない、か? そんな回答は予想がついている。しかし」

「いやそうじゃなくて」


 僕は言う。


「スパイなんて経験ないんですが、どういう風にやればいいのかなって……」


 女王はあっけにとられた顔をした。その表情はあどけなかった。疑問を抱く女性の顔。どこか馴染みやすささえ覚える。


 不思議に思ってほかの獣人を伺うと、全員がこっちを見ていた。そこでようやく自分が言ったことのおかしさに思い当たる。僕は人間なんだから、『スパイなんてやりません』って答えるのが当然ではないのか。


「了承を前提で進めていいのか?」


 女王はいまにも『まじかお前』と言い出しそうな顔で言う。


「ええ、まあ」と僕は答える。「シロツキを治療してくれたって聞きました。それなりのお礼をしたいですし。できることは手伝います」


 もともと僕は別の世界から来た人間だ。この世界の人間に愛着があるわけではないし、獣人が特別嫌いというわけでもない。シロツキの身柄の安全さえ確保されるのなら、むしろ従った方が得が多い。


「……暗殺はどうだ」と女王。

「それはちょっと」


 技術的にも精神的にも厳しい。女王は「だろうな」と答え、少しばかり咳払いした。再び威圧的な雰囲気が戻ってくる。


「具体的にお前のするべきことを説明する。こっちへ来い」


 獣人たちが道を開け、僕は軽く会釈して机の前に立った。赤い髪と、目と、向かい合う。


「この地図は国周辺の地形を簡略化したものだ。ちょうどこの辺りがカルヴァの真上。地上部分にあたる」


 しなやかな指が山脈の西側を指さす。それからつぅと山の輪郭をなぞってふもとへ下った。広がる裾尾すそおに被る位置にバツマークがついていた。


「国の周辺を監視する第七部隊の報告で、この位置で人間の動きがあることが分かっている。お前の役目はここに何があるかを正確に理解し、我々に報告することだ。期間は、そうだな……一週間といったところか」

「主に何を探ればいいんでしょうか」

「最も重要なのは人口と軍事レベルだ。どちらも高ければ高いほどカルヴァの脅威になりえる」

「獣人に友好的な場合は、どうするんです?」

「そんな小さな確率を気にしてどうする。おおかた人間の軍隊がここに中継所を作ろうとしているだけだ。それとも」


 女王は肩口で切りそろえられた自身の髪を指でさっと漉いた。いやに挑発的なしぐさ。


「『僕は獣人の味方だ、仲良くしましょう』とでも言うつもりか?」

「『小さな確率』が起こったら」

「減らず口を……」


 鋭くにらまれて、口を噤む。女王は鼻を鳴らした。


「ファロウに道中の案内と監視を任せる。この人間が獣人にひどく不利益であるなら、その場で処罰を下して構わない」

「はっ」


 ファロウさんは大まじめに答えた。


「それから」


 女王は忙しそうな口にいったん休息を与えて、部屋の片隅を振り返った。


「サジール」

「えっ」


 視線を追うと、そこには体育すわりのサジールがいた。暗く恨みがましい視線を僕に投げかけている。彼女は女王に呼ばれて渋々立ち上がり、僕の向かいに来た。


「サジールを連れていけ。道中の小さな負傷はなんとかしてもらえるだろう」

「えっと……別に僕一人でも」

「わかり切った言葉を吐くな、人間」


 女王がぴしゃりと言う。


「サジールの魔法がお前を蘇生したことなどとっくに調べはついている。シロツキが主犯格である時点でな。これは厳罰だ」


 懸案事項だった共犯者の存在はすでにバレていたのだ。

 そちらを伺うと、とうのサジールはすんと澄ましている。これは後で謝らなければいよいよ口を聞いてもらえないかもしれない。仕方なく僕は「わかりました」と言った。




     *




 いつから偵察任務が始まるのかと思っていたら、今日だった。僕は任務の前にシロツキの容体ようだいを確認させてくれと申し出た。女王はサジールに命令し、無言のサジールが僕をシロツキの病室まで導いてくれた。ヒルノートの石板がかかった、あの寄宿舎の三階だ。


 ベッドに横たわるシロツキはただ眠っているだけに見えた。おとぎ話に出てきそうなほど白く透き通った姿。長い白髪。心臓が少し音を立てた。僕は彼女の頭を撫でようと手を伸ばして、やっぱり諦めた。僕のせいで彼女は一度死んだ。体に穴をあけた。彼女を撫でる資格が、いったいどこにある。


「シロツキは──」


 言いたいことを察してか、サジールが抑揚なく返答した。


「問題ナシ」

「……そっか」


 シロツキの小さな呼吸の音を耳に残して、僕は言う。


「行ってくるよ」


 返答のない彼女に背を向け、僕は病室を後にした。

 廊下に見知ったジャケット姿が立っていた。


「ファロウさん」

「さんはいらねぇよ。仲良くやろうぜ」


 どうにも、獣人の世界において『さん』という敬称は一般的ではないのだろうか?


「じゃあファロウ。よろしくお願いします」

「おう。そっちのちっこいのもな」


 ちっこいの。サジールのことだろうか。

 振り返ると、少女はファロウの変りように驚きつつも、「ああ」と短く答えた。

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