15・黒爪


 シロツキとグレアが消えた。二人の中間地点で金属同士のぶつかる嫌な音が響いて、ようやく戦いが始まったことに気が付く。


 シロツキが紙切れでも振り回すように大剣を振り下ろすのに対して、グレアは驚くほどコンパクトな仕草でそれをいなす。かと思えば、爪を突き出して攻撃を挟む。シロツキが間一髪それを躱す。


 二つの影が入り乱れ、場所を入れ替え、一撃一撃を相手の急所へ差し込もうとしているのだ。立ち止まったら最後、互いの得物が体を穿つだろう。


 目の前の床で赤い液体が弾けた。どちらの物かもわからない血液に、僕の不安は急速に膨らんで胸を圧迫する。


 僕のせい。確認するまでもなくその通りだ。僕がいなければ、シロツキはここで剣を振るう必要も無かったろう。女王にこの命を差し出せばよかったのだろうか。そうすれば、少なくとも。でも、きっとシロツキはそれを許さなかったに違いない。


 僕は、たったいま自分にできることを考えた。

 何もないことに気がつく。この戦いを見届ける以外の全ての行動は、シロツキの足かせになってしまう。唇を噛んで、やるせなさを噛み殺した。


 何十回、それとも何百回か?

 無数に交わされた攻撃と防御の隙間に、音のない時間が生まれた。


 シロツキとグレアがお互いに退き、距離を取ったのだ。


 大剣を構えた彼女の姿を見て、僕は息を呑んだ。

 シロツキの体を包んでいた鎧に穴が開き、断裂し、剥がれている。その下の皮膚が切れ、少なからず血が出ている場所もある。有体ありていに言えばボロボロだった。なんとか肩で呼吸しているシロツキとは対照的に、グレアは油断なく爪を構えている。傷はない。鎧に、いくつか大剣を受けた痕があるのみだ。


「いまだに無駄が多いな、シロツキ」


 グレアが言った。


「全身を変形戦装で覆うなど。その柔軟さは認めるが、第三部隊の兵としては最低レベルだ。──お前はどうして、身を守ることにこだわる」

かえでを守るため」


 シロツキの断言が僕の胸を抉る。

 それは、彼女が僕のせいで傷ついているという何よりの証明となってしまった。


「私は盾になる。楓に迫る危機のすべてを跳ねのける、堅牢な盾に」

「お前には向いていない」

「……だから、なんだというのです」


 グレアはため息をついた。


「お前の適正は、その柔軟さを駆使した武器の幅広さにある。守ることより殺すことに長けた黒爪こくそう。──間違えているんだ。戦い方も、身の振り方もな」

「誰かを殺す力は必要ない。ただ、一人の人間を守れれば、それで──」

「子供の理屈だ。実力の伴わないお前には夢物語といえよう」


 鋭い気配がこちらを振り向き、体が強張る。グレアがこちらに一歩足を踏み出した。


「この人間がいくら前世で優しかろうが、一時の感情で種族の壁は超えられん。お前を呪縛から解き放ってやろう。そこでおとなしく見ていろ」


 爪が目の前に掲げられた。塩臭い血の香りがした。逃げようにも足が動かない。


 そのとき。ざわりと空気が逆立った。この表現が正しいかはわからないけれど、少なくとも僕にはそう感じた。入ってはならない聖域に踏み込んでしまったかのような排他的な空気。驚いて振り向くと、シロツキの顔から表情が消えていた。


「《過剰オーバー》」


 呟きを置き去りにして、シロツキが一歩踏み込んだ。

 グレアとの距離はかなり離れている。しかしありえない位置から斬撃が届いた。


 彼女の大剣がしなり、自らうねり、何倍にも伸長していたのだ。鎧は赤く縁どられ、いかにも不吉な色合いで。


 グレアの首を断ち切らんと肉迫する幾多の攻撃。シロツキはいったん攻勢を止めたかと思うと、大剣を元に戻し間合いに踏み込んだ。獣人の脚力を使った急接近。


 入った。

 僕はそう思った。必殺の一撃が決まったと。


「だから子供だと言うのだ。──《叢甲ファビュリオン》」


 人間相手なら確実に首をねていた攻撃も、獣人同士では戦闘の延長線上。無情にもそれは防がれた。


 グレアの鎧がシロツキのモノと同じく赤く縁どられ、大剣の攻撃をほとんど無効化していた。あの小さな面積の鎧を、大剣の落下地点に合わせたのだ。すさまじい速度の中でそんなことができるのか。

 この人は戦闘慣れしている。

 シロツキが比較にならないくらいに。


 グレアの爪がシロツキの大剣を掴み、ドアノブを捻るようにそっと回転する。刃は根元から粉々に割れた。


「ッ……!」


 飛び退いたシロツキへ、


「残念だ」


 グレアがもう片方の爪を突きだした。


 にぶいい音がした。固い金属が割れて、その下の皮膚を突き破る複雑な音が。シロツキの表情が凍り付く。宙に浮いたまま。華奢な体に三つの黒が貫通していた。つま先から伝い落ちた血液が床を濡らしていく。尋常ではない量だった。


「シロツキ……?」


 グレアが腕を振る。軽いおもちゃみたいに吹っ飛んでいく小さな体。冗談だろう。そうでなければなんだ、これは。現実感のない光景。


「……ッ!」


 ごぼっと低い音を立て、シロツキが血を吐いた。背中が痙攣けいれんを繰り返している。床に血が広がっていく。とどめようとも零れ落ちる、生命の色。

 死ぬ。彼女が死んでしまう。それだけわかれば十分だった。


「シロツキッ!」


 体を縛っていた恐怖のすべてが吹っ飛んで、駆け寄った。何ができるわけでもないのに。

 顔面蒼白の彼女がこっちを見た。朦朧もうろうと濁ったまなこ。すまなそうに細められたその青い目。


「ま、だ……おわ、てな、」


 シロツキは上体を起こそうとする。脇腹に二つ、肩に一つ空いた穴から、血があふれ出た。


「動くなッ。血が……!」

「か、で。聞いて」

「シロツキッ」

「聞、いて」


 シロツキの手が僕の腕を掴む。灰色の軍服を、血がぬるりと染めた。

 彼女は何かを囁いた。聞き取ることはできなかった。


「グレア、何をしてる。とっとと終わらせろ」

「ええ」


 女王が笑う。ライオンの獣人が僕の近くに立った。


「人間。巻き込まれたくなければそこをどけ」

「……」

「おい、聞いているのか?」


 僕は自分の陰にシロツキを隠した。

 相対する。まるで壁のようなグレアのシルエットが見下ろしてくる。


「彼女を、治療してください」

「シロツキは重罪を犯した。あまつさえ獣人の国の恩恵を受けていながら、人間を連れ込んだのだ」

「僕が死ねば目的は達されるはずです、彼女が死ぬ理由がありません! 僕を殺した後で構わない。治療してくれ!」

「寒気がするな。人間に守られるなど」


 舌打ち。女王が忌々いまいましそうに眼を細める。明らかにいら立ちがこもっていた。

 グレアが爪を構えた。


「我々第三部隊は期待していたのだ。お前の後ろにいる『お嬢様』が、次世代の光となることを。しかし、どうだ。実際は法を破り、あろうことか女王へその爪を向けた。わかるだろう、人間」

「償うために、一つの命じゃ足りないって言うんですか」


 周囲の獣人たちは一様に黙っていた。彼らもシロツキへの処罰は当然だと思っているのだろうか? だとしたら、こんな時間稼ぎは茶番だ。僕もシロツキも助からないだろう。でも、誰か──誰でもいい、誰かがシロツキの命を奪うことに疑問を抱いてくれれば、彼女だけは助かる。僕は殺されるけど、もともと捨てた命だ。一体何の問題がある。


「お願いします。シロツキを殺さないでください」

「だがな、人間──」

「シロツキは『殺すことに長けている』って、さっき言ってましたよね。それに、《否定者ルートニク》の最年少だって聞きました。なんらかの価値があるんでしょう。お願いします!」


 深く頭を下げる。戦う力も逃げる力もない、僕にできる精いっぱいだった。


 グレアが困ったように女王へ振り向いた。玉座に寄りかかった獣人の王女は、すげなく手を振る。


「何を迷っている。情にほだされたか」

「いえ、決してそのようなことは」

「なら、どうした」

「二点申し上げたいことがあります」


 彼は言った。


「一つはシロツキの戦術的価値についてです。彼女の黒爪は歴代でも類を見ないほど。幅広い戦術をとることができるのです。人間の言う通りになるのはしゃくですが、これを失うことは確かに我が軍にとっての損失となるでしょう」

「……もう一点は?」

「ルートニク最年少、シロツキ。彼女が部隊に配属されて以来、その存在はこの国に知れ渡っています。新世代の兵の出現に、国民の期待も軍全体の士気も向上しつつある。これを処刑することで、国全体が気落ちすることも考えられましょう」

「つまり、なにが言いたい」


 焼けつく赤い視線に、グレアはそっとこうべを垂れた。


「シロツキを生かしておくことは、今後のためにも賢明な判断だと考えます」


 女王はいかにもな嫌悪を顔に表したが、それでも考える姿勢を見せた。感情に振り回されているようで、そのじつ、冷静な思考を持ち合わせている。そこに希望が見えた気がした。


「……のちの処遇はお前に任せよう、グレア」

「はッ」


 処遇。処刑じゃない。少なくともシロツキは助かったのだ。土壇場で殺さない判断を下すことができる女王だ。このあと、ひるがえしてシロツキを殺すようなことはしないだろう。

 僕はもう一度頭を下げた。


「ありがとうございます」

「お前のためではない」


 グレアが短く釘をさす。だけど僕は嬉しかった。

 これから死んでいくこの命で、なんとか一つ結果を残すことができたのだから。シロツキが僕を蘇生させることを諦めてくれたら、そして、これから幸せになってくれたら、僕の魂にも意味はあったのだと言える。


「さて」


 グレアが再び爪を構えた。


 僕は深く目を閉じる。その場で両腕を広げ胸を張る。こういうのはおそらく、抵抗する方が痛い思いをするだろう。グレアは戦いに慣れていた。逃げさえしなければ、きっと痛みも感じないうちに殺してくれるはずだ。


 逃げ回ると思われていたのだろうか、ライオンの獣人は少々驚いた顔をした。

 僕は言う。


「『ありがとう』って、あとでシロツキに伝えてくれませんか」

「……約束しよう」


 グレアが答えた。その一言はなによりのはなむけだった。僕は目の前の獣人と分かり合えないことを心から残念に思った。彼の姿を見ても、もう恐怖は湧かなかった。


 グレアの爪が一つに重なる。禍々しさの消えた、美しい漆黒の刃がそこにあった。


「さらばだ、人間」





「ぅッ!」


 その瞬間僕は後ろにずれた。

 いや、ずらされた。


 背後から何者かに抱きすくめられている。振り返らなくてもわかる。この身長差と温み。シロツキしかいない。背中に当たる彼女の半身は血でぬめっている。


 その場にいる全員が僕たちに視線を向けていた。その中で、


「いらない」


 彼女は言った。


「いらない」

「っ、動いたら、傷が」

「楓」


 深刻な響きに口を閉ざす。


 背後から鎧が伸びてきた。床に散らばった防具の破片も宙に浮かび上がり、シロツキに吸い込まれるように再び結合した。彼女の腕を這って、それは僕の胸に広がる。グレアが目を見開いた。どうにも予想外のことが起きているようだ。


「シロツキ、なにを」

「勝手に死ぬな。勝手にいなくなろうとするな」


 僕の体が鎧に包まれた。不思議な感触だった。動きを阻害しない柔軟性と、身を守る硬度を併せ持っている。背中にはシロツキの肌を感じる。一つの服を二人で着ているみたいだ。


「お前を守れないなら、なにもかもいらない。──命だって」


 最後の一言は、明らかにほかの獣人たちへ向けられた言葉だった。脅しをかけたのだ。僕を、楓を殺すなら、死んでやると。


 それきりシロツキは何も言わない。首を回すと、生気のない彼女の頭が僕の肩に乗っていた。瞼を閉じてぐったりと動かない。


「シロツキ? シロツキっ」


 呼びかけに返答がなかった。けれど、心臓の鼓動を背中に感じる。死んでしまったわけではないのだろう。気を失っているのだ。


 あまりの静けさに正面を見る。全員が黙っていた。多くは驚きの顔を浮かべ、あるいは眉根を寄せて奇異なものを見る目をしている。


 その中でただ一人、羽を持つ獣人が、


「……こいつぁすげえな」

 と言った。

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