10・知らないことは


 ようやく泣き止んだシロツキは、なかなか僕を解放してくれなかった。


 ぴったりと隣に寄り添い、僕の腕とか、手とか、とにかく体の一部を掴む。そんなことしなくても、ここに車道はないし、突っ込んでくる乗用車もない。僕が死ぬ心配はないのに。


 彼女がシロツキだとわかって、最初は安堵した。知らない場所で唯一頼りになる相手だから。けれど、やがて戸惑いと罪悪感に塗り替えられていく。シロツキが死んだ直接の原因は考えるまでもなく僕だ。


「あの、シロツキ。いや、シロツキさん?」

「敬称をつけるほど、お前と私の間に深いみぞがあるのか……?」

「わ、わかった、シロツキ」


 泣きそうな顔をするので、慌てていつもの呼び方に戻した。彼女は「ああ」と幸福そうに微笑む。大人っぽさとあどけなさを併せ持った容姿が、子供のようにクルクルと表情を変える。そこにあるのは知らない人間と対面するような緊張。


「あのさ、どうして人間になっているの?」

「……気づいたらこうだったんだ」


「それがことわりだ。人間」


 檻の外でサジールが言った。


「水が下に流れるように、火が触れたものを燃やすように。この世界では、獣の魂がヒト型を持って生まれることは何ら不思議じゃないんだ」


 ピンとこない顔をしている僕に、サジールが「バカが」と吐き捨てる。しかしシロツキに冷たい視線を向けられ、少女は「ごめんなさい」と即座に撤回した。


 こほん。咳払いを一つ。


「まっとうに生きていくつもりなら覚悟しておけ。理解できないことの一つや二つ、これからいくらでも起きる」

「……」

「わかったのか?」

「一応……。そういうものだと割り切るしかないってことは」

「それで十分だ。どうせバカには理解できまい」


 まだいくつか疑問は残っている。どうしてシロツキは記憶を持ったままなのか、とか。しかし解決したところで意味はないだろう。僕の理解が及ぶ可能性は低いし、知ったところでどうしようもない。


「なぁ、シロツキ」


 サジールが眉根を寄せる。


「これからどうする気なんだ。そいつ人間だろ? どんな理由があろうとここで暮らすことはできないぞ?」

「規則だから、というのか」

「そうだ。規則だ」

「じゃあ、規則を変えればいい」

「はぁ!?」

かえでの身分は私が証明する」

「おまえバカか……、あの女王がそれをよしとするはずないだろ……って」


 サジールが何かに気づいたような顔をする。マントの中から取り出されたのは手のひらサイズの四角い時計だった。


「まずい、謁見の時間だ」

「謁見?」

「さっきの戦いの報告をしに行くんだ。──いちいち口を挟むな」


 どうにも焦った様子のサジールがシロツキを詰める。


「どうするんだよ」

「楓の人柄を知れば女王も……」

「あの鉄血女王になにを期待してんだ。お前もその場で殺されかねないだろうが」

「じゃあ、どこか、隠せるところは」


 僕は牢の中を見回す。


「シロツキ、ここじゃダメなのか。ある程度の時間なら、別に一人でも」

「この地下牢は獣人なら誰でも来れる場所にある。獣人の中には過激な考えの持ち主もいて、そもそも、その……」


 シロツキが真白な睫毛を伏せる。言葉の続きを檻の外が引き継いだ。


「人間を国へ連れ込むなんて重罪だ。見つかればあたしらもそれなりの処罰を受けるだろうな」

「なんで危険を冒してまで……」

「あたしに聞くなよ。あたしを脅してまでお前をここに連れてきたのはほかならぬシロツキだ」


 その言葉が混乱を招いた。何もかも、わからなくなる。シロツキとサジールの関係も、事故の原因になった僕をシロツキが生き返らせた理由も。


「とにかく、落ち着いて話し合ってる時間がない。──サジール」

「……かくまえって言うのかよ」


 シロツキは懇願するように視線を向けた。対する少女は心底呆れた様子で後ろ髪を掻き、しばらく思案した後で舌打ちをこぼした。


「バレたときには、見捨てるぞ」

「それで構わない。ありがとう」


 サジールがいったん席を外し、自分が着ているものと同じマントをもう一つ持って帰ってきた。差し出されたそれに袖を通してフードをかぶる。サイズが小さい。足元が露出して軍服とブーツが見えてしまうので、袖をまくってはだしになった。石の床は驚くほど冷たくて、すぐに指の感覚が消えた。


 シロツキに連れられて檻を出る。サジールがピンク色の液体が入った小瓶を取り出した。


「うわっ」

「我慢しろ」


 霧状のそれを体中に吹きかけられる。強い花の香りがした。


「これは、なにを?」

「ハパウの花弁を煮詰めた香水。人間の匂いを消してんだよ。獣人の嗅覚舐めんな」


 人間が嗅いでこれだけ強い香りなら、なるほど鼻の良い動物でもごまかせるかもしれない。

 全身が香水で湿りけを帯びて冷たくなる。さっきから寒さに凍えてばかりだけど、獣人に殺されてしまうよりましだ。


 ふと、自分の思考に違和感を覚える。僕は生きるのを諦めたんじゃなかったのか。そんな人間が『殺されてしまうよりマシ』だなんて。生物の本能が残っていたことがなんだか可笑しい。


「よし、最低限の支度は完了だ」

「ありがとうございます。サジールさん」

「──おい」

「ッ……!」


 胸倉をつかまれる。

 小さな体躯からは想像もつかない力が僕の体を引き寄せた。


「『さん』なんて気持ち悪い敬称をつけんな」


 数センチの距離でこちらを睨む双眸。縦長に伸びた虹彩が放つ本気の殺意。刃物を突き付けられたような、鋭い気配に息を呑む。


「サジールは『忌み名』。気やすく呼ぶんじゃねえ。あたしはシロツキみたいに甘くない。──わかったら黙ってろ、人間」


 ──人間。

 彼女はかたくなに僕の名前を呼ばない。それが、『お前を受け入れる気はない』という言外の意思表示だということにようやく思い当たった。


「楓を離して」

「待って、シロツキ」


 シロツキがサジールの腕に手をかけるが、それを遮る。気が付くべきだったのは僕だ。


「ごめん」

「……」


 少女はそっとまばたきした。瞼に落ちる影が一度瞳を隠して、もう一度開くころ、琥珀色に宿った殺意がふっとほどけていくのが見て取れた。


 彼女はきびすを返して、暗がりに延びていく回廊を歩き始めた。

 シロツキと顔を見合わせ、僕たちは後を追いかける。

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