第1章──獣人の国

8・雪上、昏倒


 一瞬の感覚の喪失。五感が消えて、ついには何も感じなくなる。そこには、いま僕は何も感じていないのだという事実だけが存在していた。


 ……どこかから、なにか大きな音が聞こえる。


 聴覚。音が生まれた。最初は壁の向こう側の音を聞くようなくぐもった音だった。よくわからない賑やかな。段々と音が近づいてくる。現実味を帯びてくる。

 ついには耳を塞ぎたくなるほどの轟音になった。


 破裂音。金属同士の衝突音。誰かの怒声。

 どこかの工場を連想した。そうでなければ──。


 タン、と。

 およそ聞き慣れない破裂音。でも聞いたことのある音。銃声。

 工場でなければ、ここは戦場か。


 僕は瞼を持ち上げた。持ち上げる瞼があることに驚いた。

 視覚。あたりの風景が明らかになる。


 一面真っ白だった。吹き荒れる風に地面の雪が舞っている。十メートル先の景色さえ見えない。僕は雪上に座っているらしい。


 そこかしこから黒い煙が上がっていた。すぐ傍に、飛行機の機体の破片みたいなものが落ちていた。振り返ると大破した乗り物がある。人間が何人も倒れている。多くは白いまだら模様の服──軍服のようなものを着ていて、それは血で赤く染まっていた。


 ──なんなんだ、ここ?


 状況に戸惑っているあいだも、銃声は全方位から聞こえてくる。流れ弾に当たってしまわないか心配になったけれど、どういうわけか銃弾が掠める気配はない。


 そのうちに嗅覚が戻ってきた。

 むせるほど鉄臭い。金属があぶられて発する異臭と、漂う血の香りがマーブル模様を描く。気持ちが悪い。吐きそうだ。思わず嗚咽おえつをこぼす。


「目が、覚めたか」

「え?」


 声のする方を見る。こちらに背を向け、およそ戦場に似つかわしくない人影が立っていた。


 まず目に入ったのは腰まで伸びた白い髪。一点の曇りもない白髪。その脇から現れた肩は女性らしい丸みを帯びていた。さらに華奢な腕が正面に延びる。その先で、彼女は鮮紅にふちどられた黒い板のようなものを構えている。


 板に衝突したいくつもの銃弾が、足元の雪に沈んでいった。それは盾の役割を果たしているらしい。僕のいる位置まで銃弾が届かない、その理由。


 彼女に守られていることを理解した頭が疑問をいくつも叫ぶ。

 ここはどこだ。あなたは誰だ。どうして人がたくさん倒れている。彼らは助からないのか。いや、そもそも、僕は死んだ人間だ。どうして生きてる!?


「あのっ、あなたはっ!」

「動くと傷が開く」


 気遣うようでいっそ冷酷な声音。


 彼女が振り向いた。

 のぞき込んだら最後、吸い込まれて二度と這い上がれない。そんな気分にさせる深い青の瞳。冷たくこちらを見据える青。背筋が震えた。美しく整った容姿から発される威圧的なまでの緊張感。


 怖い。命を握られる感覚。

 そうだ、彼女があの盾をどけたら、僕の体は穴だらけに──。


 体、が?


 そっと視線を落とす。体がそこにあった。倒れている人たちと同じまだら模様の白い服。右の、わき腹から下が、血まみれだ。


 その瞬間最後の五感を取り戻した。

 触覚。および痛覚。

 強烈な痛みを自覚する。言葉通り、死ぬほどの。


「ッ! ──!」


 こらえきれず咆哮する僕を、青い目は静かに見下ろしてくる。

 助けて。そう懇願することすら許されなさそうだった。

 でも耐えられるわけがない。全身が焼けるように熱い。

 痛い。痛い。


 雪の上でのたうつぼくの頭の近くに、誰かが立った。

 さっきの少女ではない。真っ黒な装束。太陽を背に影になった顔。


「動くなって言ったろ」


 その人が僕の首元に針を打ち込んだ。新たに加えられた小さな痛み。

 それを拒絶するまもなく、くらりと脳が揺れた。


 僕は再び意識を手放した。

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