6・自殺とは名ばかりの


 夜が来た。

 窓の外は住宅街と店の灯りで星空に似た様相だ。


 相変わらず、定期的に電車が暗闇を駆る。冷たい風が通るのに耳を澄ませれば、目の前の庭から、ジィ、とコオロギの鳴く声がした。


 お腹が鳴った。

 そう言えば昼から何も食べていない。


 渋々台所に立って、適当に野菜を切った。ひき肉と一緒に炒め、市販のタレをかける。冷蔵庫から納豆を一パック取り出す。炊いてあった一人分の白米をよそう。


 座卓の隅、ちょこんと並ぶ三つの食器。

 隣に沙那が座っている気がする。正面に両親がいる気がする。生きていれば、笑いながらクリスマスの話をするのだろう。沙那は都合よくサンタさんにプレゼントをねだるのだろう。


 僕は、一生この想像をするんだろう。

 老いることのなくなった、白髪の増えない両親の姿を。

 どれだけ経っても髪の伸びない、成長しない妹の姿を。


「ッ……」


 胸が詰まって箸をおいた。夕食という気分ではなくなる。

 震える呼吸を気遣ってくれたのは、やっぱりというかシロツキだった。


 にゃあ。

 鳴きながら僕の指を甘噛みする。撫でてほしいときのサインだ。柔らかい毛並みに指をそわす。薄暗い部屋の中で、白猫は僕の隣に寝そべった。


 食べ終わるまで待っててあげる。

 そう言っているようだった。


「ありがとうシロツキ。なにもかも」


 僕の命をこの世に繋ぎとめているのはシロツキだ。

 シロツキがいなかったら、きっと。


「……」


 僕は手早く食事を終え、洗い物を済まし、風呂に入ってから布団に体を横たえた。

 じっと目を閉じていると、シロツキが上に乗ってくる。

 その重みと暖かさは、少なからず僕を安心させた。






     *






 目を覚ますと朝の六時だった。

 僕は決まりきった行動をとる。

 顔を洗って、服を着替えて、朝食を──。


「……あ」


 朝食用のパンは昨日のが最後。

 近所の商店街、は、まだ空いてない。コンビニへ買いに行くしかない。朝食を抜くことも考えたが、それは嫌だ。せめて、家族が生きていたころと同じ暮らしをしたかった。


 にゃあ。

 背後を振り向くとシロツキがいた。


「一緒に行こうか」


 冗談のつもりだった。

 愛猫は、同意するように鳴いた。






 猫の散歩って一般的なのかな?


 そんなことを考えながら道を歩いた。


 遠くの景色は朝もやかすんでいる。

 車が遠ざかったり、近づいてきたり、横切ったり、朝の道路は意外に忙しそうだ。葉の落ちた街路樹の横を通り過ぎると、乾いた匂いがした。枯れ葉の割れる音が足音に混じる。


 クラクションに驚いて顔を上げれば、遠くのほうで渋滞が起きているらしかった。


「シロツキ、気を付けて」


 猫に人間の言葉が理解できるとは思わないけれど。




 コンビニでパンと飲み物を買って、家へ戻る道を、また、歩く。

 でも、ふと思い立って道を変えた。


 きびすを返した僕を不思議そうに見上げながら、シロツキがついてくる。


 数分歩いてたどり着いたのは、母が死んだ事故現場だった。

 十字路。目隠しのようなブロック塀。間隔の短い信号。

 今思えば、母でなくとも事故になる要素がたくさんある。


 どうしてここに来ようと思ったのか、僕はわからなかった。

 ふいに足が向いた。ただそれだけだと思う。


 いや、期待していたのかもしれない。

 もしかしたら、ここに来れば吹っ切れるような気がしていたのかも。


「そんなわけないよな」


 僕はシロツキの頭を撫でた。


 それから再び十字路に目を向ける。

 車は十秒おきに一台か二台。充分事故になりえる。




 事故を起こせる。




 死ぬことができる。


「……」


 僕は、自分の思考を信じられないまま、道の真ん中に踏み出していた。


 ドライブレコーダー越しに見た母の姿と自分の挙動が重なった。


 信号が──点滅を始める。


 何してる。

 早く、退かなきゃ。

 迷惑になるから。

 こんなの。


 意味のない指示を出す頭とは裏腹に、体はピクリとも動かない。アスファルトと足が縫い付けられてしまったかのようだった。


 タイヤの音が聞こえる。

 ブロック塀越しに見える車の姿。

 こっちに曲がってくる。

 それは確信だった。


 動かない。動けない。


 お前はここで死ね。

 誰かが、そうやって僕の肩を押さえつけているみたいだ。

 あり得ないほどの重力が僕の体を縛る。


 シロツキが鳴いた。

 怒ったような、焦ったような声。



 動けないんだ。

 動けないんだよ、シロツキ。






 理解した。

 二年前、母は死ぬ気じゃなかったんだ。

 僕と同じように、なんとなく死を垣間見ようとしてしまった。


 でも。


 でも、たぶん、母は僕と同じように強い人間ではなかったから──。

 安心してしまった。




 死ねる。




 ここで死ぬことができる。

 苦しさも、未来も放棄して。


 生物として間違った奇妙な安堵に、体を縛られた。


 車がかなりのスピードで曲がってくる。

 明け方の六時だ。

 いったい誰が、道路の中央に突っ立ってる人間がいると思うんだ。


「あ──」


 声が漏れた。もう逃げられない。


 目の前に迫る乗用車。

 急ブレーキの騒音。

 他の一切の音が消えた。


 それなのに、シロツキの足音がやけに強く響く。


 白い塊が視界の隅に飛び込んで、僕に体当たりした。


 とん。

 そんな軽い衝撃だった。


 無理だよ、シロツキ。

 僕と君の体格差では。




 悲痛な鳴き声。




 ハッとして、愛猫に手を伸ばす。


「シロツキっ!」


 その瞬間、

 猫とは比べ物にならない衝撃が全身を打ち付けた。


 ぐしゃぐしゃになっていく体に痛みはない。

 ただ、真っ暗になった。

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