第11話
アステレジア総合学院には大きく分けて五つの校舎が存在する。
初年度の基礎課程は必ず本校舎で行い、二学年、三学年からは選択制の専門課程に伴い四つの分校舎で学習に励むことになる。
「メアちゃんは戦術課を選択したんだよね」
本校舎一階の長い廊下を歩きながら茶髪を三つ編みにした少女が隣の友人に話しかける。
ブレザーには一学年の生徒の証である白薔薇の刺繍が見えるが、初々しさはほとんど無い。
時は十の月、あと二ヶ月で基礎課程が終わり学年が一つ上がるのだ。
「ええ、やらなければいけないことがあるの」
「……すごいなあ。私なんて、将来の事なんかなんにも考えずに芸術課選んじゃったのに」
三つ編みの少女は大分大げさにため息をついて見せるが、メアと呼ばれたセミロングの金髪の少女には少しも響いていない。
出会ってもう一年近く経つのだからいちいち突っ込みを入れる気はないのだろうか。
「いいのよ、普通はやりたい事を選ぶのだから。私はたまたまやりたい事とやらなければいけない事が一緒だっただけ」
「……メアちゃんはやっぱり格好いいなあ」
「あなたの絵の腕もなかなかのものじゃな……………って、あれは……」
金髪の少女の方がふと足を止める。
一直線の廊下に三つある階段の内の一つ、丁度校舎の中央に位置する階段の近くにある掃除道具等を収納する用務室から出てくる一人の男の姿を見つけたからだ。
「……シーア、悪いけど先に教室に戻っててくれないかしら。少し用事を思い出したの」
「用事?大丈夫、手伝おうか?」
「いいの、大した用じゃないから。すぐ私も戻るわ」
「わかった。じゃね、メアちゃん」
彼女が階段を登りきった事を確認し、メアはモップとバケツを担いで去ろうとしていた作業着の男へ声をかける。
彼女の顔に浮かぶのは先程までの優等生じみたそれではない。
むき出しのものともまた違う、複雑な感情の表れである。
「兄さん」
「あ?
おお、メアじゃねえか。腹減ってないか?あっ今月の小遣い、もしかして足らなかったか?」
「私のことはいいの。それより兄さん、あなた、何してるの」
腕を組み、半ば尋問のような姿勢で問い詰めるメアに、男は灰色の髪をぽりぽりと掻き不思議そうな顔で問い返す。
「何って掃除だろ。一年のやんちゃ坊主共が体外放射だのって校内で魔法使ったら盛大に失敗したらしくてな。
水道の蛇口ぶっ壊して二階の一角水浸しにしたそうなんで暇な俺が片付けにいくんだよ」
ぶっきらぼうな男、シュラの簡潔な説明を聞いて、メアは身体を震わせていた。
眉間には皺が寄り、学年一とも持て囃されるその端整な顔立ちに怒りも似た何かを募らせている。
「……兄さん。あなたは戦術課一等訓練補佐官という役職に就いていたわよね」
「よく覚えてんな。俺でも忘れることあるのに」
「…………………………。
そのあなたがなんでこんな雑用をしているのかしら。その生徒達にやらせればいいでしょう?」
「あいつらは今こってり搾られてるからな。一時間や二時間じゃ出てこないだろうから」
シュラが言葉を重ねる度に、メアの青筋が立っていく。
妹の不機嫌の理由を察せずにいたシュラはどうしたものかと逸らしていた目をちらりと彼女に向けるが、それが失敗だった。
片時も彼から目を離していなかったメアとばっちり視線が合ってしまい、段々と気まずさが湧いてくる。
「し、しかも俺の肩書きなんて学院長が勝手に手配しただけの実務皆無のものだしな?
用務員の婆さんじゃ大変だろうって俺が……」
「ねえ、兄さん。そんなことは他の人にやらせておけばいいでしょう?あなたはあなたのやりたいことをやればいいじゃない」
「……これが俺のやりたいことなんだよ。
二階の奥廊下って言ったらお前の教室も近くにあるだろ。
可愛い妹の為だ、苦でもないよ」
俺はお前の兄貴だから、そう言って逃げるようにそそくさと階段を上がるシュラの背が見えなくなり、メアは大きく嘆息する。
「ばか兄さん」
『兄だから』
昔からいつも口癖のように彼はそう言う。
口にするのは決まって面倒ごとを引き受ける時だ。
自己犠牲と見られたくないのか、預かり知らぬ所で弟妹達の為といつも骨を折っている。
気を遣われている事も含めて、メアにはそれが我慢ならなかった。
三年前、神都から少し離れた街の義務教育指導校に通っていた頃、たまたま"本業"から帰って来たばかりの兄を一度だけ見たことがある。
国有鉄道の貨物列車の積み荷から数人の大人達と共に降りてきた兄は、ぼろ切れがかろうじて繋がっているような服に雨に降られたような量の血を吸わせ、憔悴しきった顔で、身の丈のほとんどを隠すローブにくるまり、大人達と何かを話した後発車寸前の汽笛を鳴らす貨物列車の荷台に飛び乗ってどこかへ消えていった。
わかっていたはずだった。
食べる物も、身に付けている物も、鞄もその中身も、全て誰かの血で賄われている。
それは、顔も知らない兵隊だったり、新聞でみかけた為政者だったり、大切な兄だったり、その全員の血でもあるのだろう。
その事に対して、強い忌避感を覚えるような純真さは既に無かった。
惨劇の降り注いだあの日から、この世界には奪う者と奪われる者が存在すると、理解していた。
なに不自由無く生活している自分は、兄から奪っているのだと、強く思うようになっていた。
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