第8話

「つまり、海しかない世界に突然放り出され、そこで彼女を見つけ、気に入ったから拐かしたと。そういうことだな」




「………もうそれでいいです」




「綺麗な貝殻を持ち帰るのと訳が違いますよ…。シュラ様、彼女の意思は確認したのですか…?」




説得に成功(?)したシュラは尚も二人による質問責めにあっていた。


ディアーネは自分の仕事机に両ひじを起き、組んだ手の上に顎を置いて半眼を彼に投げかけている。




「この国も大概だが、あんなとこに居るよりはマシだろ」




「……まあ、もう連れてきてしまったものは仕方ないですね…。


問題はこれからどうするか、ですが」




三者三様に考え込み、穏やかな昼下がりの風が開け放たれた窓から静かに吹き込む。


外の自由演習場からは生徒達の声が微かに聞こえる。魔法実技演習は彼らにとって数少ない(と彼らは思い込んでいる)自らの力を教員に示すことが出来る授業であり、気合いの入りようはひとしおだろう。


そんな想いと声をうっすらと耳に残しながら三人の午後は過ぎていく。




その甘い香りを潜めた紅茶がすっかり冷めた頃、授業の終わりを告げる本校舎屋上の大鐘が響く。


考えを纏めきれなかった三人がそれぞれ口を開きかけた時、






「むぁ…?」




渦中の人物はまぶたを擦りながら目覚める。


丸めたブランケットを膝に置き、不思議そうにステイリアは辺りを眺める。


横に広い部屋、"そこそこ"の調度品、二人の力ある者、そして




「おはよう、ステラ」




正面からかけられたその声は随分久しく感じられた。


なぜその上半身が裸なのかはわからないがその引き締まった身体には傷一つ無い。


灰色の髪と空色の瞳は見間違えようがない。




「…………シュラ」




「あん?」




「…シュラ」




確かめるように噛み締めるように、何度もその名を呼ぶ。


その光景を不思議そうに眺める二人を置き去りに、ステイリアは身体を乗り出しローテーブルに膝を乗せ反対側のソファに座る青年に右手を伸ばす。


とても行儀が良いとは言えない行いを咎める立場にある二人は、それぞれ固まり、口をあんぐりと開けていた。


伸ばした右手がシュラの頬に触れる。


蒼い髪が背から滑り絨毯に着くが彼女が気にすることはない。






「ずっと……聞こえていた。お前の声が。水の中に…沈んでいながら」




「………恥ずかしいから、誰にも言うなよ」




「ふふ…、そうだな。秘めておこう、私のものだ」




そっと手を離しステイリアは土足用の絨毯に裸足のまま立つ。


彼女と違い靴を履いているうえ成人女性の中でも背の高い部類に入る二人とそう変わらない視点。


名弓のごとき視線に射竦められたディアーネとリラは、しかし動揺を見せるような真似はしない。


前者は座ったまま悠然と笑みを浮かべ、後者は顎を引き親指の付け根同士を身体の前で合わせ姿勢を正している。


ともすれば異様な空気の中で、シュラはあくびを噛み殺すのに必死だった。




「…私はステイリア・ローザだ。どうやら世話になったようだ」




「うちの者が世話になったようですから。


ああ、失礼。私はディアーネ・アステレジア。


この教育施設の総長を務めています」




(学院長の敬語なんて初めて聞いたな)




依然として上半身に何も纏わぬままそんなことをぼんやりと考えるシュラと、緊張にも似た空気を漂わせる三人とでは住んでいる世界が違うと言われても仕方がないかもしれない。




「そちらはなんという」




「私は……」




リラは少しだけ口ごもり、やがて決心したように眉間に力を入れる。


慣れ親しんだ者でなければわからないであろう彼女の動きを見守るディアーネとシュラ。




「私は八十八代神室御側付き、リラ・ガルディアと申します。


"陛下"」




「へいか?」




ステイリアが聞き返したのは当然言葉の意味がわからなかったからではなく、なぜ自分をそう呼んだのか、純粋な疑問からである。


なぜ自分がそのような身分であると"知っているのか"、まだ誰にも話していないというのに。


リラもその反応を誤解すること無く速やかに説明に移る。彼女の気遣いは主を見定めたことにより更に磨きがかかっていた。




「神たる御身に仕える者として、そう呼ばせて頂く事をお許しください」




「私が神?…………ふむ。どうしたものか」




闇をも吸い込まんとする漆黒のドレスの肩口を指で直しながらステイリアは思案に耽る。


腕と素足の眩しさに目が眩みかけていたシュラはなかなか進まない会話に痺れを切らし助け船を出すことにする。


考えなければならないことばかりだが、お互いの立ち位置と素性を語らなければ進展には程遠い。




「ステラ、連れてきた俺が言うのもおかしな話だが……、少しでもいいから知ってること話せないか?」




「……うむ。話すのはやぶさかではないのだが…。


問題が一つあるのだ」




「問題?」




「覚えておらぬのだ。


あの海だけの世界に放り込まれてから、自分の名前と…自分が治世の渦中にあったこと、それから………漠然とした、…得体の知れぬ悲しみ以外、何一つ思い出せないのだ」




あまりに振る舞いが超然としていたからかシュラは今まで気付けずにいたが、こうして彼女の口から真意を話された今、その身体が、心が随分と頼りなげに見える。


記憶のほとんどを無くし、長き時に独り晒され知らぬ世界に二転三転と連れ回されるなど常人では到底耐えられないだろう。


ならば守ればいい。自分の持てる力で。昔からそうしてきたのだから。




「……知ることは…怖い。


だが、知らぬことは……もっと、怖い」




「…なら取り戻そう。少しずつ」




「……方法はどうする。記憶の回復など…労力に見合うとはとても思えぬ。果てに待つのが必ずしも喜ばしいものと決まったわけではない。


私がお前に敵対する者かも知れぬ。真実とはいつも残酷だと、お前はよく知っているだろう。


それに……そこまでされて、私はお前に何を返せばいいのだ。この地に足つけたばかりの私が、何を差し出せる?」




吹き出た不安に煽られ早口になるステイリアを、シュラは笑うことも怒ることもなくただ見つめる。




「生きてるだけで十分だって昔は思ってたんだけどな」




大切なものを喪って、死に物狂いで生きていたあの頃とは違う。


雨風凌げる家も、不自由無い食事も、大切な家族も、頼もしい部下も、全部抱えて走る今では、そんな甘えたことは抜かせない。


普通であることの奇跡を知って、平穏の中にある当たり前を享受しているのならば。




「贅沢を知っちまったんだ。俺の周りに居る奴等には、泣いて欲しい。怒って欲しい。笑って欲しい。


もうお前もその中の一人なんだよ」




ステイリアは何も言わない。


言うべき言葉は浮かべど口から出ることを拒む。


強情とも言えるその姿勢の前でも、シュラの想いが変わることはない。




「どうしても気が済まないってんなら全部終わった後で俺が本当に欲しい物を教えてやる。


だから今は素直に甘えとけ」




「……………その言葉、私は本気にするぞ。時に呪いとなるやも知れん」




「呪われんのは慣れてるからな。今さら一つ二つ増えたところで関係無い」




どれだけ拒んでも、どれだけ引き離しても、強引に心に居座る灰色にステイリアはもう返す言葉を失っていた。


心を覆っていた不安は、異なる感情によって塗り潰されている。


迷惑をかけたくない。


真実を知りたくない。


知らないままで居たくない。


どれが本心なのか自分でもわからないまま、答えはとうに決まっていた。




「私は…怖い。怖いのは、嫌だ」




「ああ、誰だってそうだ」




「だから、助けて欲しい。


この世界で、生きてみたい」




蒼色の前髪が伏せられた睫毛を覆い表情を隠す。


だがその胸中を知るには、うっすらと震える声音で十分だろう。


シュラは立ち上がり拳と平手を胸の前で強く合わせる。




「うっし。契約成立だな。もう取り消しなんて出来ないからな」




「ふふ…こんな口約束を契約とは。大袈裟だな、お前は」




陰りはどこへやら、その顔に柔らかな笑みが浮かべ蒼い光を身体の周りで無意識に遊ばせるステイリア。


吹き込んだ秋の風に同調するように部屋の中では希想が散乱する。


静観を決め込んでいたディアーネとリラは、これ幸いと口を開く。


彼女らとて時間は無限ではない。






「腹積もりは決まったようだな、シュラ坊」




「ええ。何をしたいかははっきりしました。


問題はどうやって、ですが。


…国内できな臭い事するとなると七葉と養老会の連中が面倒だが……」




「それについては私から、一つ提案があります」




揃って腕を組むシュラとディアーネ、どこか置き去りにされている節が否めないステイリアとを順に視線で差し、その無言をもってリラは続きを語り始める。




「明日、養老会幹部に緊急性の高い案件の伝達、説明及び対策を講じるという建前で召集を掛けます。


出来るだけ彼らに調べる時間を与えないよう会合の日時は植樹祭を終えた明後日の夜とし、大時計塔会議場にてことの説明を致します。


神室御側付きとして、あの方々に私の立場を表明するいい機会になりましょう」




「お前、まさか…」




「決別とまではいきませんが、彼らの傀儡としての役目はもう十分に果たしたでしょう。


私は神室に仕える者であり、七葉や商族にこれといった義理も感情もありません。


陛下を出汁にするようで少々気が引けますが」




彼女にしては珍しく、申し訳無さを推し出した表情でリラはステイリアのすぐ横に目を逸らす。




「さっぱりわからんが後で聞くとしよう」




事情をろくに飲み込めていない彼女がそう言うのも無理は無く、しかしステイリアなりに考えがあるのかその場では食い下がらず成り行きを見守る事を優先した。




「俺は賛成だ。あの狸どもには一つ聞きたいことがある」




「私は今回の件は立場上深く関わりづらい。基本的に静観せざるを得ないが面倒があったら呼べ。


それにしても…お前にしては大胆な思い付きだな、リラ。シュラ坊の命が懸かってるからか?」




識剣アステレジア当主ともなればさすがに耳が早い。


国の暗部の機密であろうと手に入れるのに苦労する事はないだろう。




「……………義母上ははうえとの約束がありますので」




「律儀なものだな」




その日一番の意地の悪い笑顔を咲かせたディアーネを無視し、リラはソファに座る二人へと寄り、一度深々と礼をして会話に栞を挟む。




「長話に付き合わせてしまい申し訳ございません。お聞きになられる事物多々おありだとは存じてますが、ひとまず陛下のお召し物をお取り替えさせて頂いてよろしいでしょうか。まだ日は高くありますが秋の風は素肌に染みます。こちらでご用意致しますのでお着替えになってからでも遅くはならないかと」




「う、うむ。わかった」




「終わりましたらお呼び致しますのでそれまでシュラ様は少し出て頂けますか」




「はいよ」






どこか凄みを滲ませるリラに背中を押され廊下に立つシュラ。




(あれ?俺の服は?)




声なき慟哭は秋の緩い風にかき消され、誰に届くこともなかった。


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